第二回 建花寺村
闇の中を、歩いていた。
夜空には、月も星も出ていない、全くの暗夜である。提灯などの灯りは用意していないが、清記の足に一寸の乱れは無い。
幼き日より、夜目が利くように訓練されたのだ。夜の山を歩かされ、時には暗い部屋に釘を撒き、その中で一晩過ごした事もある。御手先役は闇のお役目である以上、夜に行動を起こす事が多い。夜目は御手先役を務める上での、絶対条件なのだ。
杉崎一党を始末した清記は、その足で小竹宿を発していた。向かう先は、平山家の本拠・
途中、目尾組の廉平と落ち合い、近くを流れる川の水で身体を清め、渡された衣服に改めた。このまま帰ると、平山家の
夜須城が見えて来た。夜なので、巨大な黒い影だけである。
清記は、街道を外れて城下を迂回した。
(何かがいるな……)
そう感じたのは、城下も遠くなった郊外に達した頃である。
地名で言うと、
気配は背後からだった。不快な氣である。
相手は誰なのか。気にはなるが、今まで斬った人数を考えれば、判るはずもない。平山家、念真流、そして御手先役に対して遺恨を抱いている者の数が多過ぎるのだ。
十二歳の時に、初めて人を斬った。相手は盗みを繰り返した罪人で、父に斬り殺すように命じられた。
芒の原で、罪人も刀を持っていた。父から、目の前の子どもを斬れば罪を許すと言われていたようだ。死に物狂いで迫る罪人を、清記は一刻余りの時を掛けて殺した。それ以降、殺した人数を数えていたが十五を越えた所で止めた。
血塗られた血脈なのだ。故に、自ら欲していなくとも、敵は現れる。
父曰く、
「我ら一族を狙う者は多い。次から次に現れるので、一々調べたり考えたりはするなよ。ただ斬ればそれでよい」
だそうだ。
現にそうなっている。お役目の合間、或いはその最中に現れるのだ。最初は何の為に? と、考えていたが、今はもう父の言葉に従っている。
御手先役については、何度も考えた。その宿命から逃れられないからこそ、納得出来るように考え抜いた。
何の為に、人を殺すのか。罪人ならばまだいい。そうでない者も殺すのだ。それが政事というのも判るが、釈然としないものもあった。
吹っ切れたのは、二年前の事だ。藩主・栄生利永の御落胤を、いずれ御家騒動の原因になるという名目で殺した。まだ十七の若者で、文武に秀でていた。それだけに、危険視されたのだろう。事実、この若者の周りには、執政府に反感を抱く藩士が集まりつつあった。その頃からだろうか、お役目の是非について、考えるのを止めたのは。御手先役は、御家と領民を守る刀。いくら罪業を重ねても、一殺多生になればそれでいいのだ。
それでも、人を殺める行為自体には、慣れる事はない。一人斬る毎に、何かが肩に圧し掛かる。夜が長くなる。そして亡者の嘆きが、呻きが耳に蘇り、枕元に現れる事もある。それは、どうする事も出来ない。せめて、斬った者が浄土へ辿り着けるよう、光明真言を一心に唱えるのみだ。
筒原を抜けると、開墾した田園風景が見えて来た。当然、この時間は全てが寝静まっている。
清記は田圃の畦道で歩みを止め、一度振り返った。
闇が広がっている。その奥の奥に蠢く黒の中に、確かに何者かの氣はあるように感じるのだが、人の姿は無い。夏虫が、けたたましく鳴いているだけである。
(俺を斬りたいのであれば、いつでも相手にするのだが……)
人の目はない。いつの間にか雲の切れ目から姿を出した月明かりで、夜道もそう暗いものではなくなっていた。つまり、立ち合うには、うってつけの機会なのだ。
暫く待ったが、不快な氣は霧散したかのように消えていた。
相手にも機というものがあるのだろう。こうした読み合いも、立ち合いの内である。清記は軽い溜息を吐いて、踵を返した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
途中、古びた不動尊の祠で数刻だけ仮眠を取り、建花寺村が見えてきたのは昼前の事だった。
建花寺村は、内住郡内の十五ヶ村千五百余石の村政を司る、政庁でもある。代官所を中心に、家人が住まう長屋があり、武士や百姓に剣を教える道場、そして居酒屋・一膳飯屋・旅籠・鍛冶屋・古着屋・万屋と商店が軒を連ね、それを囲むように百姓屋が広がっている。村というより陣屋町の
これを治めているのは、父であり平山家当主の
「若様、朝帰りでごぜえやすか?」
畠で野良仕事をしていた中年の百姓に声を掛けられた。確か、名前は
「ふふ。これでは、朝帰りではなく昼帰りだ」
清記は、幾分かの笑みを浮かべて、栄吉に歩み寄った。
栄吉は日焼けした顔に、大粒の汗を浮かべている。夏も暮れつつあるが、昼間の暑さはまだ変わらない。
「これですかい?」
と、栄吉は
「手慰みは性分に合わんよ」
「なら、これですか」
今度は小指を立てた。清記はただ頷いた。
「吉原町に中々の女がいてな」
「へへ。若様も、顔に似合わず遊び人で」
「お前さんには勝てんよ。父上に聞いたが、若い頃は相当女を泣かせたらしいな。何でも他の村の女に手を出し、若衆が殴り込んできたとか」
「まぁ、そんな事もごぜえやしたが、今はかかぁの小間使いみたいなもので」
「
「じゃ、若様も女に泣かされやすな」
と、栄吉が笑ったので、清記も声を挙げて笑った。
百姓の前では、善き武士、善き領主であろうと心掛けていた。これは父にも重々言われている事で、その〔善き〕とは、百姓の話を聞き、理解し、共感しながらも、生かさず殺さずに支配する事を指す。その為に、清記は出来るだけ村民の名と顔を覚え、親しみやすい演技をしている。
「あんた、何やってだい」
遠くで、声が聞こえた。栄吉の女房である。
「うるせえ。若様と話してんだ」
そう大声で叫ぶ栄吉に対し、女房は何事か叫んでいる。罵詈雑言の類だろう。清記は思わず苦笑し、
「私に代わって、女房殿に謝っておいてくれ」
と、その場を離れた。
それから何人かに声を掛けられた。その全てに清記は応えた。急ぎたかったが、無視をすれば印象が悪くなる。それに、百姓は国の根幹支える柱。その彼らに対し、
◆◇◆◇◆◇◆◇
平山家の屋敷は、村の中でも小高い丘の上にある。まるで、村だけでなく内住郡を睨むように建てられたそれは、内住郡代官所も併設し、二つの母屋は渡り廊下で繋がっている。
清記を出迎えたのは、
背が低く小太りな三郎助は、清記の二歳年上で兄弟のように育った仲だ。主従であるが、友とも呼んでもいい。心配性で一々細かいその性格が、執事に向いていて、父も自分も心から信頼している。
「お役目、ご苦労様です」
そう言って頭を下げた三郎助は、この暑さからか滝のような汗を流していた。小太りには厳しい季節なのであろう。
「ああ」
「お怪我は?」
「毛ほどの傷もない」
すると、三郎助は福々とした顔に、安堵の笑みを浮かべた。内住郡代官という職分が表の顔で、裏では御手先役をしている事を知っているのは、平山家中でこの三郎助だけである。佐々木家は、元々直参であったが、夜須藩開闢の折に、御手先役である平山家を助ける為にその指揮下に入り、時の流れと共に執事の家柄となった。御手先役という役目の事は、執事の職分を引き継ぐ時に明かされ、三郎助も執事となった時に、父から直接聞いたという。
「
三郎助が、耳元で囁いた。
「ほう。何か用があったのか?」
「さて、そこまでは。私が尋ねましたら、『実家に帰るのに一々理由は要るのか?』と、邪険に仰っておりました」
「確かにあいつの言う通りだな。お前も敢えて気にする事はない」
主税介は、父が後妻に生ませた二歳年下の異母弟である。清記の母を病で失った父は、近隣の庄屋から後妻を娶った。それが主税介の母で、この後妻は我が子を内住郡代官にと、その跡目を欲したが故に、主税介は馬廻組の穴水家へ、養子に出されてしまった。後妻はこれに猛反発したが、それが父の癇に障り離縁させられている。
当然というべきか、清記と主税介の仲は芳しくない。兄として主税介の敵意を気にしないようにはしているが、一々張り合おうとする主税介に閉口する事もある。平山家の為に手を取り合う必要はあるのだが、この確執は如何ともし難い。
「それより父上は?」
「悌蔵様ならば、離れにおります。今日の政務は既に終えられ、後はのんびりするそうです」
「そうか。父上にご報告した後は風呂と飯だ。準備をしておいてくれ」
「かしこまりました」
清記は、庭に出て離れの一間に向かった。そこは父が建てた隠居所で、四畳ほどの広さである。未だお役目から引いてはいないが、いずれは此処で楽隠居を決め込むつもりらしい。
「これは、兄上」
ちょうど隠居所を出ようとする主税介と、行き当たった。
「久し振りだな」
「兄上もお元気そうで」
と、主税介が軽く頭を下げた。顔は僅かに綻んでいるが、清記にはそれが冷笑に見えた。
主税介は、筋骨逞しい清記と違い、細面の優男だ。ふとした笑みでも軽薄なものに見えてしまう。
「変わりは無いか?」
「ええ。ですが、父上にお役目を言い付けられましてね」
「ほう。お前が」
「今日から兄上と同じ、御手先役見習いですよ。思えば、御手先役は一人とは限りませんからね。それに、内住郡代官は兄上で、御手先役は私。そうした選択肢もあるのではないかと、思うようになりました」
「確かに。だが、それを決めるのは父上だ」
「だから、私はお役目で結果を残すしかないのですね。私も平山悌蔵の子。後継者になる資格はある」
「お互い、励むとしよう。御家の為に」
「ええ。私は私の為に」
それで、主税介とは別れた。やはり、弟とは心が通わない。兄弟として、過ごした時間が短過ぎたのかもしれない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「おい、早く入れ」
部屋の奥から声がした。父の声だ。清記は黙礼をして、中に入った。
そこには、軽衫・半着姿の悌蔵が寝そべっていた。
「役目は無事に果たしたそうじゃな」
と、総白髪の頭を清記に向けた。
「野村重太郎を討った浪人を討ち果たすとは、やはり我が子じゃのう」
「お聞きになりましたか」
「おう。廉平にな」
「これで小杉宿の民も安心して暮らせましょう」
「そうだのう。で、杉崎孫兵衛はどうであった?」
「中々の使い手でございました。何でも父上のお知り合いとか」
「まぁな。あれは伊達公に謀反の噂があった時じゃったか。藩命を受けた儂は、黒河藩に潜入し、謀反の虚実を探ろうとしたわけじゃ。結果としては潔白じゃったが、そこで立ち合ったのが、杉崎孫兵衛の父親よ。孫兵衛とやらは、当時はまだ子どもでのう。傍で父が死にゆくのを見ておったわい」
「……」
「と、儂も廉平が杉崎について教えてくれるまで、その名を聞いても思い出さなかったがの」
そう言って自嘲する悌蔵を尻目に、清記の心には、重石が圧し掛かってきた心地がした。杉崎にとって、自分は仇の子だったのだ。恐らく、浪々の身となったのも、父親を斬られたからだろう。言わば、不倶戴天の仇。だというのに、杉崎は終始冷静だった。もし自分が同じ立場ならば、そうはいかない。そこが、自分の未熟な部分かもしれない。
「ところで、父上。主税介にもお役目を言い渡したそうで」
清記は話を変えた。
「気になるかえ?」
「ええ。弟でありますし、楽なお役目ではありません」
主税介の力量については、心配はしていない。父に念真流を仕込まれてもいるし、才能も確かだ。時として非情な振る舞いをする主税介は、自分より向いているのかもしれない。だが、心のどこかで一抹の不安を覚える。
「ふむ。主税介には、小さい仕事を任せた。まぁ子どもの使いじゃな」
「なるほど。して父上は、主税介を御手先役にするつもりなのですか?」
「それは決めておらん。だが、手駒は多いに越した事はない」
父が何を考えているのか、時として判らなくなる事がある。今回の件も、主税介の野心を無暗にくすぐるだけではないか。或いは、悩み過ぎる自分の尻を叩く為か。
「ま、その話はいい。お前には頼みがあるのだが、聞いてくれまいか」
悌蔵は、おもむろに起き上がって言った。
「お役目ですか?」
「いいや。お役目なら命じるだけよ。今回は頼みじゃ」
「はぁ」
「中老の奥寺様に剣を教えて欲しいのだ」
「奥寺様……」
中老の奥寺とは、
「実は奥寺様の剣術指南役が、つまらん喧嘩で怪我を負っての。暇を出したが中々善い人物がいない。そこで、お前に白羽の矢が立ったわけじゃ」
「左様でございますか」
「ま、毎日というわけではない。十日に一度ぐらいじゃ。それに、藩の将来を担う奥寺様と縁を結ぶというのは、お前にとっても平山家にとっても悪い話ではない」
「わかりました」
考える間もなく、清記は了承した。確かに、悪い話ではい。だが、元より自分に拒否する権利は無いのだ。父が決めた事に、従えばいい。
「で、奥寺様に念真流を?」
そう言うと、悌蔵は鼻を鳴らした。
「
「確認したまでです」
「建花寺流じゃ」
清記は、首肯で応えた。
念真流は、門外不出の家伝である。
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