第五回 裏の顔

 扶桑正宗を抜き払うと、天に翳した。

 陽を浴びた刀身が、鈍い光を放つ。清記には、それがどうしても気になっていた。

 百人町の別宅。晴れた日の午後である。

 清記は縁側に腰掛けると、打ち粉をくれていた。

 この鈍さは、鷲塚錦梅を斬った時に気付いた事だった。肉を断つ手応えに、些かの抵抗を感じたのだ。

 刃毀はこぼれはない。血と脂が刀身を曇らせたのだろう。だが、それも打ち粉で取り除く事が出来る。

 ひと月ほど、清記は穏やかな日を過ごしていた。

 奥寺家での剣術指南は順調で、その嫡子である東馬とは、酒を何度か酌み交わし、心許せる仲になっている。先日は、その東馬にせがまれて波瀬川に鮒釣りに行ったほどだ。釣りは清記の唯一の娯楽だが、釣りを教えてくれた父以外の誰かと竿を並べた事は無い。釣りは一人でするものと、清記は決めていたのだ。

 それでも東馬と釣りに行ったのは、篤実な人柄に親しみを覚え、友と思えたからだろう。五日後には、また釣りに行く約束をしていた。今度は、内住郡を流れる渓流で鮎釣りをする。東馬も釣りが好きなようだった。

 それでも東馬とは、未だ剣の手合せはしていない。東馬が道場に現れても、大和や志月が稽古をしている姿を見ているだけで、その中に加わろうとしないのだ。清記も、敢えて誘うつもりはなかった。竹刀とは言え、向き合えば本気になってしまう。その危うさを、したたかに感じているからだ。東馬も同じ想いを抱いているのかもしれない。如何せん、一度敗れた男でもある。


「清記、志月をどう思う」


 不意に、東馬の言葉が脳裏に蘇った。川べりに座って竿を立てていた時の事だ。

 清記は何も答えず笑って誤魔化すと、


「縁談の話がある」


 と、告げた。


「相手は、同じ大組の名門だ。歳も志月と変わらん。武の方はそうでもないが、蘭学に秀でておる。親父も乗り気だぞ」

「……」


 言葉が見付からなかった。清記にとって、志月は心惹かれる存在になっていた。剣術指南を楽しめるのも、志月に会えるからだろう。しかし、それと縁組はまた別の話で、個人の感情は優先されるべきではない。


「あいつは、愛想も無い。気も強い。家事は出来るが、それより剣を好む、情のこわい女だ」


 脳裏には、正眼に竹刀を構えた志月の姿が浮かんだ。狐のような鋭い瞳で、清記を見据えている。確かに情が強い。しかし、それが志月の魅力である。


「清記、志月をどう思う」


 その質問に、清記は声を詰まらせた。惚れているのだろう? と問われているのだ。東馬は、志月への気持ちに気付いているのかもしれない。だから、敢えて訊いたとしか思えない。

 暫く考えた後、ようやく声を絞り出し、


「芯が強く、優しい女性だと私は思う」


 と答えた。


「なるほど」


 東馬は軽く笑っただけで話は終わったのだが、清記の心に穏やかならざる騒めきを残した。


「よし……」


 扶桑正宗の剣氣が蘇えったのを確認すると、清記は治作を呼んで外出する旨を伝えた。


「帰りは遅くなる。夕餉はいらぬよ。ふゆにも伝えていてくれ」


 今日は、これから出掛けなければならない。父の命令なのだ。その事を想えば、どうしても気が重くなってしまう。

 平山家には、御手先役だけではない裏の顔がある。依頼を受け銭の為に人を斬る、つまり始末屋としても働く一面を持っているのだ。

 これは御手先役としての費用を一切負担する代わりに藩庁から黙認された、平山家の既得権益である。そこには藩や民の為だという甘い感傷は無い。藩政に関わらない範囲であれば、誰でも斬るのだ。

 清記は、始末屋稼業を好きではなかった。御手先役と始末屋。人を斬るという行為に、どちらも変わりない。しかし、心の根幹にある支柱のあり様が全く違う。

 御手先役は、忠義である。御家への忠、民百姓への義があるから続けられる。しかし、始末屋には銭しかない。幾ら御手先役を続ける為であっても、そこからは卑しき欲しか清記は見出せないのである。

 それでも、断る事は出来ない。当主である父の命令だからだ。父の言う事は、絶対なのだ。

 百人町の別宅を出た。

 外は、汗ばむ陽気だった。夏は終わろうとしているが、夜須の夏はまだまだ手を緩めようとはしない。盆地特有の暑さだ。

 待ち合わせの場所は、弁分町べんぶんまちにある分限者御用達の料亭〔秀松ひでしょう〕。広い敷地内に離れが幾つもあり、かつ秘密を洩らさぬという躾が、女中から下足番にまで行き届いているからか、藩政を揺るがすような密談が幾度も行われたと、実しやかに語られている店である。

 その弁分町まで、清記は猪牙舟に乗って行く事にした。掘割を張り巡らせた夜須城下では、歩くより舟の方が便利な事もある。


「今は何刻だろうか?」


 舳先に座した清記は、船頭に訊いた。


「さあて、夕七ツほどでしょうか」

「そうか」


 約束の刻限までは、まだ時間がありそうだった。父からは、夕暮れ前に来いという事だったのだ。

 清記は弁分町ではなく、その手前にある御舟町おふなまちで舟を降りた。この町には小さな船溜まりがあり、船頭相手の軽い飲み屋が多い。

 その一つに、清記は入った。店内は狭いが二階があり、仕事を終えた船頭で賑わっている。

 清記は、端の席に座ると酒を頼んだ。小娘の女中が、笑顔で銚子を差し出す。よく冷えた、薄めていない酒だ。

 それを舐めるように飲みながら、清記は船頭たちの話に耳を傾けた。酒、女、博打の話題。中には、時勢に関するものもあった。ただし、どれも景気のいい話ではない。特に時勢の話は、藩士として恥じ入るものばかりだ。

 藩主の栄生利永は、花鳥風月を愛でるばかりで藩政に興味を示さず、首席家老の犬山梅岳は、それをいい事に徒党を組んで藩政を壟断している。それに異を唱える奥寺大和一派もいるが、結局は権力欲しさで民百姓を省みようとはしない。


「結局、お上はそんなもんだ。期待する方がお門違いってもんよ」

「ちげぇねぇや」


 船頭の間で、爆笑が湧き上がる。


(流石は、船頭達だ。物言いに遠慮は無い)


 清記も釣られて苦笑し、猪口を口に運んだ。大和には悪いが、彼らが言っている事は間違いではない。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 少しししが付き過ぎた男だった。

 ふくよかな顔に、商人特有の媚びた笑みを浮かべている。

 見た目からは五十路過ぎに思えるが、正確な歳は判らない。初めて会った十余年前から、不思議とその容姿は殆ど変わらないのである。


(何とも不気味な男)


 それが、両替商・大角屋徳五郎おおすみや とくごろうという男だった。

 この徳五郎、表では夜須藩にも銭を貸す御用商人であるが、裏にまわれば始末屋に仕事おつとめを斡旋する闇の元締めである。ただ他の元締めと違い、徳五郎が抱える始末屋は平山家のみ。つまり、平山家に仕事を斡旋する為だけの元締めなのだ。勿論それは平山家の始末屋稼業同様に、裏の顔も藩庁から代々黙認されている。

〔秀松〕の離れ。弁分という町中にある料亭だが、分限者御用達の名店だけあって敷地は奥に広く、蓬莱竹が生い茂る庭には離れの個室が幾つもある。

 面会は、世間話から始まった。父の近況や今年の作柄。耳が敏い商人だからか、清記が奥山家の剣術指南になった事も知っていた。


「奥山様と縁を深めるのは、平山家にとって悪い話ではございませんよ」

「皆、口を揃えてそう言います」

「そうでしょう。昨今、執政府では犬山派の独裁を奥山派が揺るがそうとしているとか。時代というものは変わるもの。いずれ奥山殿の天下になった時、平山家の運も開かれましょう」

「それは、大角屋の運もですね」

「勿論でございます」

「流石、大角屋殿。人の縁も利になさるのですね」

「それが、商人の因果なさがでございますよ」


 徳五郎は、微笑を浮かべ申し訳なさそうに顔を伏せた。これが徳五郎の愛嬌なのだ。父も、そんな徳五郎を可愛がっている。


「さて……」


 徳五郎が本題を切り出したのは、酒肴も半分ほど無くなった頃だった。


「此度の仕事おつとめでございますが」


 清記は、箸を置いて居住まいを正した。


「今回の報酬は百三十両」

「ほう」


 一人斬って百三十両。このような大金で始末を依頼されるのは、久し振りである。相手はかなりの大物か、強敵なのだろう。昨年末に行った仕事おつとめでは、毒婦を始末して四十両だった。


「中々の大金でございますな」

「これには、忘れていただく費用が含まれております。勿論、平山家は代々口が堅い血が流れている事は存じておりますが、今後一切忘れて欲しいとの事です」

「なるほど。で、誰を始末したらよいのですか?」

「大組格の岩城新之助いわき しんのすけ。まだ二十歳の若侍でございます」

「岩城……あの岩城家ですか?」


 徳五郎は、深く頷いた。

 岩城家は、夜須藩でも名門の家系である。首席家老を出した家柄でもあり、現当主の右衛門丞うえもんのじょうは、江戸詰めの若年寄として藩政に参画している。


「新之助は、現当主の弟御でございます」

「その者を斬ればよいのだすな」

「引き受けて下さるのでございますか?」

「無論。これが平山家の生業ですので」

「それは良かった。この話を私に持ち込んだ御方に私は深い恩義がございまして。お断りされたらどうしようかと、食が喉を通らないほどだったのです」


 そうお道化た徳五郎に、清記は苦笑を向けた。


「いやいや。平山家がこうして裏の仕事おつとめが出来るのも、大角屋殿の助力があればこそ。それもまた恩義なのです」

「おお、これは嬉しい事を申して下さる。それでは、こちらも手筈を進めます。なぁに、相手は悪事を繰り返す鬼子でございます。これも世の為、人の為……頼みましたぞ、清記様」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 始末を実行する日は、仕事おつとめを受けてから三日後だった。

 初秋の夜。微かに夜気は肌寒く感じる。

 もはや城下とも呼べぬ、郊外。空雲寺が見渡せる木立の中に、清記は潜んでいた。

 灯りは無い。月さえも隠れている。それでも夜目が利く清記には十分だ。

 今夜、寺の本堂で開かれている賭場に、新之助一党が参加する。これは目尾組の廉平によって得られた情報である。


(さて、上手く行くかどうか……)


 標的の岩城新之助は、江戸生まれ江戸育ちの夜須侍であるが、これがとんでもない男だった。

 喧嘩に博打。それだけなら名門の部屋住みによく見られる放蕩だが、悪友とつるんで盗みや辻斬り強姦と、暴力と淫欲の限りを尽くしているのだ。しかも、その悪友の中に夜須藩世子である栄生又一郎利之さこう またいちろう としゆきがいるのだから始末が悪い。

 又一郎は、風流狂いの父・利永に似ず、荒々しい男と言われている。清記は一度も目通りしていないが、その粗暴さには父の悌蔵すら眉を顰めるほどだ。暴君の気質を持つ又一郎を、新之助が誘って悪事を繰り返す。それは想像に容易い。

 新之助の兄である右衛門丞は、愚弟が仕出かす騒動の尻拭いに奔走し、いよいよ派閥の領袖りょうしゅうたる犬山梅岳に、


「どうにかしろ」


 と、きつく命じられた。

 それで右衛門丞は意を決した。新之助を江戸から放逐し、夜須にいる親戚に預けたのだ。それで暫くは大人しくなったようだが、夜須に来て二ヶ月目、あろう事か親戚の娘であるみつの寝込みを襲い、夜が明けるまで散々嬲なぶりものにしたのだ。まだ十二歳の、しかも血縁関係にある親戚への執拗な強姦を聞いて、右衛門丞は新之助の殺害を決めたという。


(血の病なのだな、これは)


 徳五郎の話を聞いて、清記はそう思った。世の中には、こうした類の病があるのだ。悪事を止めようと思っても止められない、殺すしか治す方法が無い病が。

 この三日、廉平に協力を乞い、新之助について調べ上げた。その悪行は徳五郎の話と殆ど違わなかった。光を散々犯した新之助は、親戚の家から逃走し、二ヶ月の間で作った無頼の仲間達と共に藩内を浪々としていたという。


(こうした殺しならば、心も幾分か楽だ……)


 前回の毒婦殺しは、嫌な想いしか残らなかった。亭主とその舅に手を出した女。殺しの依頼をしたのは、姑だった。気が進まなかったが、断る事は出来ない。御手先役を務め続ける為に、銭は必要なのだ。


(ただ、今回の依頼者は梅岳か)


 右衛門丞は新之助の殺害を梅岳に伝え、その梅岳から大角屋に話が持ち込まれた。それが些か癪でもある。清記は、藩政を牛耳る梅岳を好きではない。無論、好悪はなるべく出さないようにしているが、この男の独裁があるから、領民が苦しんでいるのだ。

 清記は、こちらに近付く氣を感じ立ち上がった。

 提灯の光。空雲寺の庫裡から男達が出て来た。


(あれが新之助か)


 その面貌は、既に確認していた。色白で、鼻が高い優男。間違いない。木立の中で扶桑正宗の鯉口を切ると、清記は息を殺して待った。

 新之助が近付いてくる。緊張は無い。ただ一人、上手に生きる事が出来なかった青年を消すだけだ。

 それにこの殺しは、人助けになる。少なくとも、無意味な殺しではない。そう思っても、虚しさはある。殺しをする為に、殺しをしなければならない現実が。


(俺が家督を継いだら、始末屋からは足を洗おう……)


 そう決めた。

 銭を得る手立ては、他にもあるはずだ。いずれ生まれるであろう我が子に、同じ想いはさせたくはない。

 声が聞こえてきた。笑い声を挙げている。酒も飲んでいるようだ。

 目の前を通り過ぎていく。清記は扶桑正宗を抜き払うと、木立から飛び出した。新之助。目が合った。やっと、この時か来たか。そう言いたげな表情だった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 東馬と鮎釣りをする、約束の日になった。

 待ち合わせの場所は、建花寺村を出た所にある地蔵尊だ。

 釣りは一人でする主義だ。それでも東馬がせがむので、仕方なく連れて行く事にした。これで二度目である。

 釣り場は村からほど近い、弥陀山みださんの麓を流れる美しい渓流。鮎もよく釣れる。

 清記は二人分の釣り道具一式を背負って、屋敷を出た。

 東馬が待っていた。多少小走りになったが、清記はすぐにその足を止めた。


(東馬の奴め、謀ったな……)


 清記は、眩暈すら覚えそうなほどの動悸に襲われた。

 地蔵尊で待っていたのは、東馬ではない。長い髪を若衆髷に結い上げ、小袖袴に細身の二刀は佩いた、男装の麗人。志月だったのだ。


(さてどうするか)


 清記は、ぎこちない笑みを作り、一歩足を前に踏み出していた。

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