第四回 男、三人
夏も盛りを過ぎようというのに、夜須の盆地は連日唸るような熱さだった。
波瀬川から引いた城下の掘割は、この熱気からか腐ったような臭気を放っている。道筋では陽炎が発生し、道行く人は家屋の陰を縫って歩く有様だ。
そんな中、清記は奥寺家の道場で厳しい稽古を付けていた。最初の半刻は大和と二人で、次の半刻で七人の家人を交えたものを行った。半月前に起きた鹿毛馬での一件で家人五名が殺傷され、武芸の拙さが露呈してしまったのだ。大和は大変憤り、新たに雇い入れた者を含め清記に手直しを依頼したのである。
灼熱と化した道場で、清記は滝のような汗を流し竹刀を奮った。指導しているのは竹刀剣術ではなく、より実戦的な殺し合いの剣術である。相手を押し倒し、馬乗りになって止めを刺す。これは大和の希望でもあった。お陰で十日に一度の稽古は五日に一度となり、清記は多忙な日々を送っている。
「よし、今日はこれまでにしよう」
そう言うと、家人の表情はあからさまに安堵の色が浮かんだ。
(この程度で情けない……)
それでも奥寺家の家人か? と、言いたくなる。それについては、大和も苦笑して嘆いていた。優秀な者は直臣の藩士となるので、家人を雇おうにも中々いないのが実情で、中には百姓や町人出身の者もいるのだという。
稽古を切り上げ、清記は一人裏庭の井戸で汗を流していると、
「平山様」
と、声を掛けられた。
振り向くと、志月が縁側に座っていた。
「これは、志月殿」
清記は、下帯一枚の我が姿を恥じ、慌てて着物に手を伸ばそうとしてが、志月がそれを止めた。
「小関道場で、殿方の下帯姿には慣れておりますので」
「はぁ……、左様ですか。しかし、私が恥ずかしいのですよ」
「いえ、お気になされずに。稽古終わりと聞き、水菓子をお持ちしました」
「おお、これは旨そうな」
赤く、みずみずしい
「私は西瓜が好きでして」
「それはようございました。疲れも多少は取れたのではないでしょうか」
「まぁ、そうですが」
四つ目に手を伸ばそうとすると、志月の鋭い視線がその動きを止めた。
「これから、わたくしに稽古を付けてくださいませぬか? 流石に家人に混じるのは憚られましたので、こうしてお伺いに参りました」
「またですか」
「平山様は、たった一度や二度の稽古で剣を身に付けたのですか?」
「いや、そうではございませぬが」
「そうでございましょう?」
鹿毛馬での一件で自分を認めてくれたのか、志月が自分との稽古を望むようになっていた。相変わらず愛想は無いが妙に熱が入っていて、大和が親ながら驚くほどである。そんな志月との稽古を楽しみにしている自分に気付いた時、清記はしたたかに驚いた。もう女に惚れる事は無い、そう思っていたからである。
(本当に惚れているのか?)
そう考えると、実は判らない。しかし、大和に鹿毛馬での事を聞いた時、身体は自然と駆け出していた。父には事後報告をしたが、
「そうか。お前がなぁ」
と、意味深に苦笑するだけであった。
「では、わたくしはこれより着替えてまいります。四半刻後に道場にて」
清記の思念を断ち切るように冷たく言い放つと、すくっと立ち上がった。
「四半刻後ですか。承知しました」
「ありがとうございまする」
清記が頷くと、志月は踵を返し背を向けた。
それから、西瓜に目を落とす。あと、二切れ残っている。
「あと……あまり食されると、お腹を下されまするぞ」
四つ目を取った清記の動きを察してか、志月がそう釘を刺した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「もし」
奥寺邸を出た所で、そう呼び止められた。一日の稽古を終えた、夕暮れ前だった。
蜩が鳴き、それを断ち切るように遠くで夕七ツを告げる鐘が聞こえた。
振り向くと、旅装の武士が立っていた。
(浪人か)
清記は、一歩ほど後ろに下がった。別段敵意などは感じないが、抜き打ちが届かない範囲に身を置くのは、刺客としての習性というものである。
「平山殿とお見受けするが」
落ち着いた声だった。その中には、若干の親しみもある。
「左様」
雷蔵は怪訝な声色で応えた。
背が高く、手足が長い。自分の周りには見掛けない風貌である。
「貴殿は?」
「久しいですな、平山殿」
と、塗笠の紐を解いた。
「あなたは」
旅装の男は、奥寺東馬だった。
清記がそう言うと、陽に焼けた精悍な顔に、満面の笑みを湛えた。
「江戸から戻られたのですね」
「いまし方。それより、まさか平山殿が当家の剣術指南をされているとは」
「お聞き及びでしたか」
「志月がな、手紙で知らせてくれたよ。平山殿が志月に勝った事も、命を救った事も含め」
そう言って、東馬は闊達に笑った。陽に焼けた精悍な顔と大きな口に、豪放な笑顔が良く似合う。
「これはお恥ずかしい」
「いいや、私は嬉しい限りだよ。平山殿なら安心して任せられる。何せ、あの志月が認めたぐらいだ」
「しかし、私は東馬殿に敗れた身。このお話をお引き受けするのには勇気がいりました」
「なぁに、気にする必要は無い。勝負は時の運。私がたまたま勝っただけの事。真剣ならば勝負は判らん」
「負けは負けです」
「では、もう一度私と立ち合うか?」
東馬は、一瞬だけ真剣な表情を見せた。が、すぐに、
「戯言だよ」
と、笑い飛ばした。
「近々、酒でも飲もうではないか。なぁ」
「ええ。そうしましょう」
その日は、そこで東馬と別れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
あまり旨い酒では無かった。
芋と豆腐の煮しめも、辛いだけの代物である。それでも清記は、この店を何かと贔屓にしている。店の主人が元平山家の奉公人で、何かと融通が利いて使い易いのだ。
目の前では、
陣内は馬廻組の
今年で二十六になるこの男は、半年前に能吏としての腕を見込まれて、御蔵奉行組頭から穂波郡代官である
「どうだ、最近?」
陣内は、猪口を飲み干すと訊いた。
「まぁまぁだ」
「ふうん、奥寺様の剣術指南役をしているそうじゃないか」
「知っていたのか?」
「藤河様からな。お前の父御殿から聞かされたそうだ」
藤河と父は、公人としては隣接する郡代官として定期的に会う仲であり、私人としては囲碁仲間である。碁盤を囲んで、公事や私事を話し合う姿を何度か見掛けた事がある。
「あの奥寺東馬も、江戸から戻ったのか」
「ああ、四日ほど前かな」
「奥寺家との繋がりは、お前にとって善い事だな」
「そうかな」
「娘もいるじゃないか。無口な娘だというが、お前には似合いだ」
「何の事だ」
「知らぬ振りをするな。鹿毛馬で救ったって話も聞いたぜ」
「鹿毛馬と言えば、下手人の宗山源次郎はお前と同門だったな」
「宗山か。道場は違うが、名前だけは知っている。だが、清記よ。夜須に光当流なんざ、ごまんといるぜ」
「確かにそうだな」
光当流は夜須で最も多い流派である。それは藩主家の御家流が光当流であり、藩校でも指導しているからだ。
「そんな事はどうでもいい。話を逸らすな」
「何が言いたい」
「嫁に迎えろよ。身分的にも釣り合いが取れている」
「……」
清記は、鼻を鳴らして猪口を煽った。
女はもう愛さぬと決めていた。
かつて、愛した女に裏切られたのだ。その女は、目尾組の女忍だった。共に組んでいる内に男と女の関係になったが、ある賊徒を追って潜入した際に、そこの頭目に惚れてしまった。そして、女の情報を鵜呑みにした自分は、のこのこと賊徒が待ち構える死地に
女を始末したのは、その翌年。扶桑正宗を振り下ろす前、女は
「愛しているのに」
と、呟いた。あの時の声は、今も耳に残っている。
「清記よ。選択肢の一つとして考える価値はあるぞ」
「そうかもな」
「おいおい。奥寺様は、飛ぶ鳥を落とす勢いの御中老だ。その義理息子になるのは悪くないだろ」
「その分、何かと気苦労もある。俺は平山家だけで勘弁だ」
「確かに、気苦労は絶えんかもな。夜須に長年君臨している首席家老ですら、奥寺派の伸張に警戒しているという。中々剣呑な雰囲気だ」
首席家老とは、犬山梅岳の事だ。藩主・栄生利永の信任を得て、長くその座に君臨している。持ち前の嗅覚で、度重なる難局を乗り越えた海千山千と、父は言っていた。清記も二度会った事があるが、福よかな面貌から、胡散臭い雰囲気を感じた事をよく覚えている。その時は、
「清廉潔白では、首席家老は務まらないのだろう」
と納得したが、梅岳が何やら企んでいる事は、利永の御落胤である格之助を養子に迎え、跡取り息子を廃嫡してまで嫡男に据えた事で窺い知れる。
「藩内が二つに割れるかもな」
「どうだろう。そこまでの事態にはならんとは思うが」
清記には、大和が梅岳という怪物に互する存在には、どうしても思えなかった。
大和は実直で、清廉潔白な男である。その発言はいつも正しく、武士らしい武士、と称しても差し支えない。ただ、怖さが無いのだ。藩政という魔界で魑魅魍魎を従える怖さが。
「ただ、危うさもある」
「ほう」
「奥寺様を好きな人は、崇拝と呼べるほど慕うだろう。しかし、嫌う人は徹底的に嫌う。私にはそう見える」
「確かにな。拗ね者には、あの人が眩しく見えるかもしれない」
そう言うと、陣内は膝を打って頷いた。
「それさ。奥寺様は、揺るぎない正義の信念を持っている。だから、目上にも目下にも容赦なく言う。それが言い訳の出来ないほどに正し過ぎるから、嫌われるのだろう」
「政事を正義で通そうとすると、犬山様との対立は必定か」
「だな。まるで水と油だな。首席家老は現実にそぐわぬ正義は、悪より
「で、危うさとは何だ?」
「敵の多さだ。奥寺様の正義感は、敵味方を明確に分ける。中庸というものが無い。その固さが、足を引っ張るやもしれない」
「それが良さでもあるのだがな」
大和は陽明学を学び、信奉している。性格の固さや正義感の強さは、陽明学の
「ただ俺は、あの人が嫌いじゃないな。確かに眩しく見えるが、好ましい眩しさだ」
「崇拝しているのか?」
「まさか」
「ま、嫌いとは言えまい。何せ雇い主だ」
「義父になるかもしれねぇぞ」
「うるさいぞ、黙れ」
店の小女が、料理と新たな銚子を運んできた。料理は、軍鶏の串焼きである。粗塩が上から振りかけられ、食欲をそそる匂いを醸し出している。
「これだな。煮物と酒は不味いが、串焼きは旨い」
清記はそう言うと、一本を口に運んだ。噛むと、驚くほどの脂が飛び出る。その旨味が、何とも堪らない。
「やはり、旨いな」
陣内も、夢中で頬張っていた。陣内は江戸の生まれで、初め獣肉を喰らう事を嫌がっていた。しかし、何度か此処で食べさせた所、今では大の獣肉好きになっている。
「他の店で食べたが、どうもいかん。自分でも料理したいと思うが、家の者が反対する」
「お前には無理だ」
清記は鼻を鳴らした。
「この〔喜七〕が特別なのだよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
その帰り道だった。
西町、波瀬川から引いた掘割の側。一人で歩く夜道である。
不意に浴びせられた殺気に、清記は歩みを止めた。
振り返ると、男が立っていた。
(あの男か)
清記は、ここ最近ずっと感じた氣を思い出した。いつもは戦う機ではないと捨てて置いたが、今その機が訪れたと、この男は判断したのだろう。
男は、悠然としたな足取りで近付いてきた。放つ氣を抑える素振りは無い。清記は、全身の毛が逆立つのを感じ、反射的に身構えていた。
「名乗りは必要かい?」
男が言った。歳は自分より、少し下というぐらいだ。こざっぱりとしてはいるが、主君持ちのようにも見えない。
「人違いと言う可能性もある」
「あんた、平山清記さんだろ?」
「貴殿は?」
「
「知らん名だ」
「そらそうだ。まだ、売れてねぇ名前だからね。だから、平山さんを斬るのさ。念真流の首を獲れば、名が売れる」
「裏の者か」
鷲塚は、一つ頷いた。
裏の者。即ち、暗黒街で生きる有象無象の事だ。恐らく、鷲塚はその中でも始末屋を生業にしているのだろう。念真流を討てば、裏での名が売れ、いい顔が出来る。当然、仕事も選びたい放題だと聞いた事がある。
「ずっと私を見張っていたようだが」
「まぁ、機会を伺っていてね。やっと、お前に勝てそうだと思った」
「なるほど」
「冷静だね」
「慣れた。よくある事だ」
念真流の看板を背負い、御手先役として生きる以上、こうした刺客から逃れる事は出来ない。幼き時から父に言い聞かされ、現に今まで何人もの挑戦を退けてきた。
「やるかい?」
「邪魔が入らぬ場所でな」
「いいね」
清記は、そこからすぐ近くの空き地に移動した。火除け地として使っている場所だ。
「楽しみだぜ、俺は」
「……」
「
四歩の距離で向かい合った。
清記は、扶桑正宗を抜き払うと正眼に構えたが、鷲塚は僅かに腰を落としただけだ。
居合か。そう思った時には、既に対峙になっていた。
清記は小細工無しの、ありのままの氣を放った。酔いのせいか、どうにでもなれ、という大胆な気持ちにもなっている。
一方、鷲塚の身体からは、猛烈な闘気が地熱のように湧き上がっている。
(余程、俺を殺したいのだろう)
向けられる殺気は、更に強くなっている。
一歩、清記は踏み出した。自分でも驚くような、大胆さだ。
それとは裏腹に、汗が噴き出していた。額から伝った雨は、目じりに至り涙のように零れていく。
来いよ。内心で呟いた。その瞬間、暴風のような抜き打ちが、清記を襲った。
斬光。想像よりもやや長く伸びた。清記は、右腕に微かな熱感を感じながらも、前に踏み込んだ。
交錯する。鷲塚の顔。悦楽の絶頂に達して嗤う、その寸前の顔が見えたが、その首は扶桑正宗を振り抜くと同時に、宙に舞った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます