間隙 女剣士

 志月が屋敷の異変に気付いたのは、小関道場での朝稽古から戻って一息ついた頃だった。

 長い廊下を家人が小走りで駆け、父・大和の居室に駆け込んでいる。


(何事かあったのだろうか)


 志月は、障子窓からその様子を眺めていた。

 家人達の表情は一様に深刻そうであり、後から執事や奥寺家の要職にある家人達も続々と集まってきている。


(これは只事ではあるまい)


 志月はおもむろに立ち上がると、父の居室を訪ねた。


「何事でございますか」


 志月は居室の外に控えて訊いた。


「こうも慌ただしく、眉間に皺を作って参集されては、屋敷の女衆が心配いたします」

「おお、志月か。これはすまなんだ。ちと、領内で厄介事が起こってな」


 執事や家人達が大和に目をやる。しかし、大和は


「まぁまぁ」


 と、それを抑えた。

 女に話すつもりか。そうした非難があるのだろう。だが、志月は構わず続けた。


鹿毛馬かけのうまでございますか」


 大和が頷く。

 口原郡くちのはらぐんに、鹿毛馬村とそれ一帯に二千石ほどの領地がある。その経営は家人の文官に任せていて、村を訪れるのは年に一、二回ぐらいだ。


「そうだ。お前は、宗山源次郎そうやま げんじろうを知っているか?」

「いえ」

「では……今年の初めに首席家老・犬山梅岳いぬやま ばいがく様が、ご領地の巡察中に襲われた事は?」

「存じております。何者かが犬山様を襲撃し、失敗するも供廻り三人を斬り殺した事件でございますね。宗山とはその下手人でございますか?」

「そうだ。宗山の父は、かつて犬山様と出世を競った男でな。犬山様より一歩先んじた所で、不可解な死を迎えた。宗山は犬山様が殺したと思ったが故の犯行だったらしい」


 犬山梅岳は低い身分から立身し、藩主・栄生利永の寵愛を武器にして、藩政を長く独占している貪官汚吏たんかんおりの象徴が如き男である。狡猾にして抜け目なく、何度も立ち向かってきた政敵を、尽く打ち破ってきた怪物でもある。


「で、宗山は逃亡し今もって捕縛されておらぬ。皆、藩外に逃れたと思っておった。しかし、今朝藩庁から使者が遣わされてな、宗山が鹿毛馬一帯に潜伏していると報せて来たのだ」

「なんですと」

「それだけでないぞ。犬山様は、儂が宗田を匿っている、或いは使嗾しそうして襲わせたとお思いだ」

「そんな。まさか、父上」

「馬鹿を申すな。斯様な謀略を弄する父ではない」


 父と梅岳の軋轢は、志月も承知している。そして着々と派閥を形成し、犬山派独裁の藩政に風穴を開けんと画策している事も。そうすると、これは梅岳が父を蹴落とす為に仕掛けた罠かもしれない。


「何とも悪辣な……」

「謀略か偶然か判らぬ。だが、これから釈明に登城せねばならん」

「藩庁は鹿毛馬に踏み込むのですか?」

「いや、使者が申すには二日待つとの事だ。それまでに捕縛、或いは首を差し出せばいいと」

「左様でございますか」


 その為に家人が参集しているのだろう。これから鹿毛馬へ向かうのかもしれない。


「しかし、宗田は光当流こうとうりゅうの使い手だ。こちらも相応の覚悟をせねばならん」

「それで、難しい顔をされているわけですか」


 宗田の腕は判らない。しかし、梅岳の襲撃に失敗したものの、三人を斬ったというならば、相当なものだろう。ここにいる家人衆が敵う相手ではないという事は明白だ。


「斯様な時に東馬めがいれば任せたものを」

「私が参ります」


 志月が伏せていた顔を上げて言った。


「何と?」

「私が鹿毛馬へ行き、宗田を討って参ります」

「馬鹿を申すでない。女のお前に何が出来る」

「兄上ならまだしも、その女に敵わぬ我が家人に任せてはおけませぬ」


 と、志月は円座を見渡した。


「それとも、この中にわたくしを倒せる者がいるとでも? 壱刀流小関道場の高弟であるわたくしに」


 流石の一言に、家人衆は何も言えず顔を伏せた。


「わたくしが父の名代として参ります。それでよろしいでしょうか」


 大和が唯々諾々と受け入れると、執事が反対の声を挙げた。


「では、平山様にお頼みするというのはどうでしょうか?」


 平山清記の顔が浮かんだ。大和も妙案だという顔をしたが、志月が咳払いをしてみせた。


「もし平山様に頼めば、奥寺家の恥となりまするぞ。中老のお役も解かれるやも」

「そうだな。……仕方あるまい。奥寺家に、東馬以外に志月に敵う者はおらん。儂含めてな」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 鹿毛馬へ乗り込んだ志月を待っていたのは、思わぬ事態だった。

 鹿毛馬村に、藩庁からの捕吏が乗り込んでいたのだ。それだけではない。百姓を使役し、山狩りを行っていたのである。村の背後に聳える里山で、宗田を見掛けたという情報を得ての事だった。


「これは如何な事でしょうか」


 捕吏の指図役を務めていた住谷丹蔵すみたに たんぞうなる男に、志月は詰め寄った。

 捕吏が詰めている庄屋屋敷。その一間である。志月は家人を残し、話し合いをしている場に乗り込んだのである。

 住谷は陽に焼けた中年で、狡猾そうな目をしていた。


「如何な事とは?」

「我が父・大和が申すには、藩庁は二日待つとの事でございましたが」

「はて? 何の事でしょうか」

「お聞き及びではないのですか?」

「さぁ。我らはただ罪人を追うばかりでございますれば。藩庁との行き違いなど、ままある事でございます。なぁ?」


 と、住谷は周囲にいる部下に同意を求めるように顔を向けると、一同は頷いてみせた。


「判りました。それはよいとして、指図役は私が引き受けます」

「え?」

「私があなた方を含めた全員の指図役を務めると申しておるのです」


 そう言うと、住谷は暫く真剣な表情で志月を眺めたのち、失笑した。


「何と申されますか。幾ら大和様の御息女と申されても女子でございますぞ」

「だから何だと申すのですか。此処は奥寺家の領地。そして、私は大和の名代として参ったのです」

「しばしお待ちを。たとえあなたが指図役となっても、我々が指揮下に入る謂れはございませぬ」

「では、即刻立ち退いてもらいましょう。此処は奥寺家の領地でございます」

「正気でございますか?」


 志月が頷くと、場にいる捕吏たちが一斉に笑った。


「左様な事をされては、お父上の立場が悪うなりまするぞ。何せ、我々は犬山様直々の命で」


 そこまで言い掛けた時だった。急に、屋敷内が慌ただしくなり、暫くして若い百姓が駆け込んで来た。


「お侍様、大事でございやす」

「如何した?」

「さ、さ、探しちょる下手人が乗り込んで来やした」

「何と、この村にか」


 志月は住谷と顔を見合わせて、その一間を飛び出した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 外は血の海だった。

 捕吏や奥寺家の家人が、何人も斬り殺されていたのだ。

 その光景が、村の高台にある庄屋屋敷からよく見えた。宗田は村の中を徘徊し、一人また一人と斬り倒している。その中には、何の関わりもない女子供まで含まれていた。


「何と悪辣な」


 志月は刀の下げ緒で袖を襷掛けにすると、横目で住谷を一瞥した。


(こやつ……)


 足が竦んでいる。その表情も、怖がっているという事は一目瞭然だった。


「修羅場を前にして何も出来ぬ者が武士を名乗るな」


 志月はそう吐き捨てるや、一気に村を駆け下りた。

 宗田源次郎が、村の中央で一息を吐いている最中であった。

 何処からか仕入れたのか、酒の徳利を呷っている。着物は襤褸の着流しで、返り血を浴び凶悪な面構えをしていた。


「へぇ、女か」


 志月に気付いた宗田が、徳利を投げ捨てた。


「宗田源次郎ですね」

「そうだが」

「父・奥寺大和の名代として、そなたを討ちに参った」

「ほう。おぬしがなぁ」


 と、宗田は足元に転がる骸に目をやった。家人が二人と捕吏が一人、そこには倒れている。


「こうなるのが怖くないのかい?」

「わくしは武家の娘。武士とは民を守るのが第一です」

「へっ、言ってくれるなぁ。俺が梅岳の野郎をってりゃ、お前の親父が一番得をしたというのによ」

「父は斯様な謀略を用いる男ではございませぬ」

「けっ、気に入らねぇ……だが」


 宗田は抜き身の血刀を志月に突き付けた。そして、舌で口の周りに突いた返り血を舐める。まるで気狂いの類だ。


「どうにでもなれと村に討ち入ったが、最後に奥寺の娘を斬れるとなりゃ、こいつはもっけもんだ」


 志月も、腰の一刀を抜き払った。胸の高鳴りを、したたかに感じた。真剣での立ち合いは初めてなのだ。

 手足が震える。奥歯を噛み締め、正眼に構えた。宗田との距離は、四歩ほど。

 何故、此処に来たのか。宗田と立ち合う事になってしまったのか。今更、後悔の念が湧きあがった。

 あの男の顔が、ふと浮かんだ。

 私を竹刀も振らずに破ったあの男。暗い目をした、あの男に私でも出来ると思わせたかったのか。

 刃の光。それは突然だった。一つ目は弾き、二つ目は後ろへ跳んで躱した。


「くっ」


 しかし、その光は思った以上に伸びた。

 左の二の腕に、熱を感じた。痛みは無い。ただ、熱いと思っただけだ。

 着物が裂かれ、血が噴き出していた。傷の浅さは判らないが、刀が急に重くなったような気がする。

 どす黒い氣が身体に重く圧し掛かる、意識も緩慢になり、志月は思わず片膝を付いた。


「啖呵を切ったはいいが、それまでかい?」


 宗田が歩み寄ってくる。その表情。悪鬼のように嗤っていた。

 立たなくては。そう思ったが、身体が動かない。腰が抜けたのか。

 殺される。そう思った刹那、急に宗田が跳び退いた。そして、その表情には明らかに怯えの色が浮かんでいた。

 宗田の視線の先。怒髪、天を衝くように氣を燃え上がらせた、あの男がいた。


(どうして……)


 何故、此処にあの男が。

 平山清記が、この場所にいるのか。戸惑う一方で、安堵した自分にも驚いた。

 宗田が、喚いている。清記は何も言わず一刀を抜くと跳躍。着地した時には、宗田は頭蓋から腹まで二つに断たれていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「何故、鹿毛馬に平山殿が?」


 家人に抱きかかえられて起こされた志月は、傷を手拭いで縛る清記に訊いた。


「通りがかりですよ」

「まさか。斯様な時に戯言はよしていただきたい」

「では、これがお役目という事にしておきましょう」

「また嘘を。父に頼まれたのでしょう?」

「いや。これは、本当なのです。領内を巡っては、悪い奴を見つけては懲らしめる。それが私のお役目なのです」


 生真面目に言う清記を見て、志月は思わず吹き出していた。

 この男なら、剣術指南として認めてもいいかもしれない。そう、志月は思った。

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