第三回 志月
例の如く、不快な氣は付きまとっていた。
肌を舐めるような感覚。それは殺気とも敵意とも取れない分、不気味だった。
城下へ続く、街道筋である。昼過ぎに建花寺村を発った清記は、城下へと向かっていた。明日、奥寺家の稽古があるのだ。
追跡者は、一定の距離を保って追ってきている。振り向くが、その姿は見えない。
途中、幾つかの宿場を通過したが、不思議とそこでは追跡者の気配が消えた。そして宿場を出ると、また感じるようになる。そうして相手を追い詰めているのだ。
自らの氣を自由に操れる者は、そうはいない。中々の使い手と見てよいだろう。
(気を付けねばな……)
城下に入った清記は、その足で百人町へ向かった。下士と呼ばれる無足組屋敷がひしめく地区であるが、平山家は代々この一角を藩庁から借り受け、ささやかな別宅を構えている。いわば、城下での拠点という所だ。主に、登城の際の宿泊施設として使っている。
清記を出迎えたのは、治作とふゆの老夫婦だった。二人は平山家に長く仕えた下人の夫婦で、父は隠居所を兼ねて二人をこの別宅に住まわせ、その管理を任せている。
「おお、これは若様。ようお越しなさいました」
二人は、そう言って清記を歓待した。父は二人が楽に暮らす為に別宅の管理を任せたのだが、二人は決して居間や書斎を使おうとせず、台所脇の納戸のような小部屋で起居している。どこまでも下人の分を弁えているのだ。父はそういう二人の性質を愛し、この別宅を任せたのだろう。清記も、二人を好ましいと思っている。
「話は聞いておるな?」
「へえ。何でも奥寺様の剣術指南の御役に就かれるとかで」
「御役ではないが、まぁ似たようなものだ。十日に一度ほど、此処に泊まる事になる。世話になるが、宜しく頼む」
すると治作は、
「何を仰られます。ここは平山家の、いずれは若様のお屋敷になる場所。遠慮は無用でごぜえます」
と、歯の抜けた口を開けて笑った。
治作とふゆは、清記にとって単なる使用人に過ぎないが、父にとっては友のような存在らしい。何があって、そのような関係になったのか。そこまでは、清記も把握してはいない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝。
目が覚めると、朝餉の膳がすぐに用意された。朝餉は、丼に盛られた白粥である。平山家の朝は、白粥と決まっているのだ。この別宅でも、その伝統は変わらない。
その白粥に生卵と醤油をたらしたものを胃に流し込むと、清記はふゆの手伝いで衣服を改め別宅を出た。
中老・奥寺大和の屋敷は、三の丸の手前、
普段は郊外の農村に住んでいる清記であるが、城下の地理は全て頭に入っている。そうしろと、父に常々言われているからだ。その理由は、十分に理解している。お役目の中で、道が判らぬでは話にならない。
清記は、掘割に沿って歩いた。そうする方が、幾分か涼しく感じるのだ。きっと川面を揺らす風が、朝から照り付ける暑気を凪いでいくからだろう。
夜須城下は、
名門、奥寺家の当主。江戸で陽明学と壱刀流を学び、藩内では実直な人柄が好まれているというが、一方で歯に衣着せぬ言動が災いし、嫌っている者もいると、父が言っていた。
清記にとって、この大和よりも息子の
あれは、四年前。父の反対を押し切って参加した、
「所詮は竹刀。遊びじゃ」
と、父は励ましてくれたが、竹刀が刀だったらと思うと、全身に粟が立つ。竹刀とはいえ、剣である事に変わりはないのだ。あの日の記憶は、苦い思い出として清記の脳裏に強く残っている。
城前町の奥寺邸に着いた清記は、家人に用件を伝えると、邸内に案内された。中々広い家だ。それでいて、華美さはない。
庭も立派で、手入れが行き届いている。ただ武骨さを感じるのは、大和の性格故だろうか。
客間に通され、暫く待つように言われた。大和は所用で席を外しているという。
開け放たれた障子から庭を眺めていると、女が現れた。丁寧に頭を下げるが、
「失礼いたします」
以上の事は、口にしなかった。
歳は十七か八。気が強そうな、狐顔をしている。冷めた麦湯と葛饅頭を差し出すと、射貫くような視線を清記に向けた後、スッと立ち上がって客間を出て行った。
(何なのだ、あの娘は)
あの奥寺大和とて、奉公人の躾は行き届いてないと見える。平山家なら、三郎助の叱責が飛んでいたところだろう。
暫く葛饅頭と麦湯で暇を潰していると、家人が大和が戻ったと伝えに現れた。
「よう来たな」
陽に焼けた大和が清記の目の前で胡坐座になると、そう言った。
筋骨逞しい男である。顔は四角で、首は太い。鍛え込んでいるのか、歳による衰えが見えない。ただ、鍛えている男が持つ特有な野卑さは無く、そこはかとない品の良さを感じる。そこは名門の出だからだろう。
「始めてお目に掛かります。平山悌蔵の一子、清記と申します」
「おぬしについては、悌蔵殿に聞いておる。中々使うそうではないか」
「いえ。私は、ご子息殿に一度敗れた身でございます」
「曩祖での事か」
清記が頷くと、大和は闊達に笑った。
「あれは不運な負けであったな」
「いや、運も実力でございます」
「なんだ、おぬしは気にしておるのか?」
僅かな沈黙の後、
「気にしない者は、剣を棄てるべきだと思います」
と、清記は答えた。
「ふむ。確かにそうだな。それは政事にも言える事だが」
奥寺は、頷いて腕を組んだ。めくれた袖から見える二の腕は、やはり太かった。
「その私が、奥寺様へご指南とは、お恥ずかしい限りでございます。本来ならお断りを申し上げる所ですが」
「なんの。そなたの剣には、凄味がある。剣術遊びの東馬とは違う凄味がな」
「凄味ですか」
「そうだ。東馬とは、根本的に違う世界の剣なのだ、おぬしの剣は。どのような修行を悌蔵殿としたのか判らぬが、あの試合を見ているだけの儂でさえ、肌に粟が立ったぞ。しかし、だからこそ四十六にもなって、息子と変わらぬ歳の者に剣を学ぶのだよ」
凄味、という言葉が、清記には引っ掛かった。大和は、自分が御手先役である事を知っているのかもしれない。御手先役について知っているのは、藩主と限られた一門衆、そして執政府だけである。中老は執政府に入れる身分であるから、御手先役について知っていても不思議はないのだが、どうも引っ掛かる物言いである。
「判りました。東馬殿に敗れた私に指南役とは酷な事だと思いましたが、そう言われるとやる気も出ます」
「こちらこそだ。さっそくやろうか」
◆◇◆◇◆◇◆◇
それから稽古着に着替え、道場に案内された。敷地内に建てた、小さな道場だ。東馬もよく此処で稽古をしているという。
「あなたは……」
清記は、思わず声を出していた。
客間に茶を運んできた女が、道場の中央で端座して待っていたのだ。しかも、稽古着姿。髪も崩され、後ろで纏められている。
「
大和が言った。
志月と呼ばれた女は、おもむろに立ち上がると、清記の前に進み出た。眼光は鋭く、敵愾心に溢れている。
「わたくし、平山殿と手合せをと思いまして」
「お前が? どうして」
「平山殿は、兄上に敗れた相手。わたくしもその試合を見ておりましたが、兄上の敵ではございませんでした。しかも、軽く小手で一本。そのような者が当家の剣術指南とは解せませぬ」
すると、大和は苦笑し清記を一瞥した。
「清記殿。これなるは儂の娘で、志月と申す。女ながら剣が好きと、困ったものでな。壱刀流小関道場では、高弟にも数えられている。だから、十九になっても、嫁の貰い手がおらぬのだがな」
「小関道場ですか」
小関道場は城下にある小さな道場だが、荒稽古で有名だった。道場主の
「そうだ。その上、一度言い出したら聞かぬ。まぁ、滅多に我儘を言う女ではないのだが」
「はぁ」
「どうだ、一度だけ稽古をつけてくれんか」
「女とは立ち合わない。と、そのような事は申しません。剣を志しておられるのなら、喜んでお受けしましょう」
「そうか。娘の我儘に付き合ってくれるか」
「但し、防具は無しで」
「おい、それでは」
これには、流石の大和も色をなした。その気持ちは判る。素面素小手では、嫁入り前の娘に傷が付くと思っているのだろう。しかし、清記は敢えてそう言った。あの挑戦的な視線に、些か腹立ちも覚えている。
それを取りなしたのは、志月だった。
「父上、わたくしは構いませぬ。清記殿の竹刀が、わたくしの身体に届くとは限りませぬ故……」
「言いますね、志月殿は」
その言葉に、志月は何も反応を見せず踵を返した。
暗い女だ、と清記は思った。声の調子も、瞳の光も。それでいて、気が強い。これでは、嫁の貰い手はいないのも頷ける。ただそうした志月を、腹立たしく思いこそすれ、性悪だとは何故か思わなかった。
清記は適当な竹刀を選び、道場の中央に進み出た。
正眼。志月の構えは、端正なものだった。それでいて、隙が無い。何処を狙っても、打ち返される。そんな気にもなる。
(見事なものだ)
父や兄を見て、覚えたのだろう。並みの武士よりは使える。それは間違いないが、竹刀に限っての事だ。
清記も正眼に構え、丹田に氣を集中させた。
志月が、しきりに気勢を挙げている。氣の圧力を振り払おうとしているのだ。
清記は待った。自分からは打ち込まない、そう決めていた。一方の志月は、動こうともしない。ただ、気勢を挙げているだけである。
更に氣を込めた。志月の額に、大粒の汗が浮かぶ。なんとか膠着を打開しようとしているが、中々前に踏み込めないという所だろう。
(やはり、相手の力量を見極める目は大切だ)
と、対峙を続けながら、清記は何となく思った。これが実戦であれば、志月の命は無い。相手の力量を見誤ったのである。
(所詮は、道場のお稽古剣術に過ぎぬ)
清記は前に出た。すると、志月が一歩下がる。それを二度繰り返した時、志月が堪らず竹刀を落とし、膝を付いた。
「見事だ。竹刀を使わず、志月を下すとは」
二人の間に大和が割って入り言った。
「いえ。奥寺様のお嬢様に傷はつけられませんので」
すると、それを聞きた志月は、下唇を噛んだまま道場から駆け去っていった。
「志月の事は気にするな。あれでいて、認める所は認める女だ。そのうち、おぬしの稽古を受けたいと言い出すだろう。……さて、次は儂と稽古だ。手加減は無用だぞ」
そう言うと、大和は竹刀を手に取った。構えは正眼。やはり親子。その構えは、どことなく似ていた。
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