第六回 魔都

 赤。それは、眩いばかりの鮮血だった。

 江戸の郊外、隅田村の傍に広がる芒原すすきっぱらである。

 そこで、まだ少年の面影を残した武士が、血飛沫を上げて倒れた。

 裂いた喉元から、息が漏れる音が鳴る。清記は顔を顰めた。それは、何度聞いても嫌になる、魂魄こんぱくが抜けていく音だ。


「許せ」


 武士を、見下ろし手を合わせる。そして、胸に扶桑正宗を突き立てた。

 この者は、深江藩士・保井翔馬やすい しょうまという元服したばかりの少年だった。父の保井重兵衛やすい じゅうべえを、夜須藩士・田原弥五郎たばる やごろうに討たれ、その仇として弥五郎を狙っていたのだ。

 弥五郎と重兵衛が何故殺し合ったのか。その話を聞いた時、このお役目をする事が馬鹿馬鹿しくなった。

 二人は江戸詰めの藩士で、本所の料亭で別々に酒を飲んでいたという。そこで肩が触れたか触れないかで諍いとなり、そしてお互いが隣接する藩同士だと知ると、いよいよ刃傷に及んだ。隣藩というものは、往々にして仲が悪いものだ。

 これは、正当な仇討ち。翔馬には、武士として尋常な立ち合いをさせてやりたかった。しかし、夜須藩執政府はそれを許さなかった。

 それは、弥五郎が藩主・栄生利永の寵愛目出度い男色相手だったからだ。今では御小姓組頭を務めているが、今でもその信頼は厚い。そして何より、弥五郎は犬山梅岳の妹を母に持つ、犬山家の眷属けんぞくであるのだ。仇討ちを認めるはずはない。

 だからと言って、深江藩の手前、翔馬を多勢で迎え撃つという事は出来ない。そこで、密かに始末する御手先役の出番となった。


「流石、兄上」


 背後から、主税介の声がした。


「どうだ、首尾は?」

「手抜かりはありませんよ」


 主税介には、翔馬の助太刀の相手をしてもらっていた。相手は三人であったが、主税介に元服したての少年を斬らせたくはなかった。


「しかし、何とも嫌なお役目でしたね」


 そう言った主税介を、清記は驚いて見返した。主税介の性格ならば、こんな戯けた役目でも貴重な実戦だと、喜んでしそうなものだと思っていたのだ。


「ああ、何ともやるせない」

「助太刀も大した腕では無かったのです。後味も悪い」


 清記は、それに頷いて応えた。


「江戸に出て、これが最初のお役目とは」

「そうだな」


 仇討ちを阻止する。それが江戸に来て、最初に与えられたお役目だった。

 江戸に来たのは、一ヶ月前。清記にとって、これで二度目の江戸になる。一度目は十五の時。父から連れられての旅だった。今回は、主税介を伴っている。弟にとっては、初めての江戸だった。

 江戸行きの理由は、藩公費による剣術修行である。藩庁は、人材育成の為に毎年藩士を遊学させる。今年は剣術や学問の分野から六人が選抜され、その中に弟も入っていた。

 それが表向きという事は、考えなくとも判っていた。江戸では、御手先役が必要とされる機会は数多くある。それは父からも言われた事だった。


「それでは、退散するとしようか」


 骸は夜須藩と深い関係にある、非人頭が処理してくれる手筈になっている。そうした事は、夜須でも江戸でも変わりはない。

 百姓渡しで隅田川を越え、清記は浅草へと入った。

 江戸は相変わらず人が多かった。物珍しく、市中を見物したのは江戸着から三日ぐらいのもので、十日も経つと煩わしさの方が先立ってしまう。


「何とも息苦しいですね」


 主税介が溜息交じりに言った。ちょうど、浅草広小路に入った辺りだった。江戸三大広小路の一つ。各種の店が軒を連ね、人通りも多い。その活況は想像以上だ。


「こう人が多いとな」


 清記は頷いた。この息苦しさの中に、欲望や嫉妬、怨念めいた人の情が渦巻いている。

 初めての江戸で、四人を斬った。斬ったのは武士の他に、商人や博徒もいた。四人の暗殺が夜須藩にどう関わるものか判らない。が、魔都が放つ腐臭が人を狂わせるのだと、父に言われた。

 大番組屋敷と東本願寺の間を抜け、夜須藩邸中屋敷に戻った時には、陽が暮れかかっていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「見事な手並みであった」


 そう言ったのは、江戸家老の菊原相模きくはら さがみだった。

 中屋敷の一間。既に夜の帳は降り、百目蝋燭が室内を照らしている。

 清記は、菊原に呼び出されていた。一人である。主税介は、外で待っていた。

 菊原は梅岳の盟友の一人で、派閥の副領と呼ぶべき存在だった。今は江戸家老の地位にあって、梅岳の意に沿った藩邸運営をしている。今年で五十五を超えるそうだが、未だ第一線で采配を振るっている。中々の切れ者というのが、清記が持つ印象だった。


「目尾組から報告があった。お殿様には、明日の朝一番で申し上げるつもりだ」


 利永は、さぞや喜ぶだろう。何せ、愛した男の命を救ったのだ。その大任を成功裏に終えた事で、菊原も嬉しそうだった。


「流石、あの悌蔵殿のご子息だ」

「いえ、これもお役目です。しかも、私も愚弟も見習いの身。お役目を無事果たし安堵の気持ちしかございません」

「殊勝だな。追って、恩賞の沙汰もあろう」


 清記は、したたかに平伏した。


「そう言えば、おぬし……」

「はっ」

「奥寺大和の屋敷に出入りしているらしいな」


 清記は、顔を挙げた。どう返事するべきか一瞬だけ迷ったが、正直に答える事にした。


「父の命で、剣術指南をしております」

「ほう、悌蔵殿が」


 清記は頷いた。父は藩内では一目置かれた存在である。利永に信頼されており、あの梅岳も容易に手を出す事は出来ない。その父の名を出せば、菊原もおいそれと追及しないはずだ。


「ええ。私は命じられるがままですので」

「ふむ。しかし、そうしたおぬしの考えはどうかと思うぞ」

「……」

「今、こうして立派にお役目を果たしておるのだ。もう少し、おぬしは自らの意見をお父上に申し上げるべきではないのか」

「はぁ」

「私は江戸にいて国元の事はよう知らぬ。しかし、奥寺は何やら人を集め、藩政を我が物にしよう蠢動していると聞いた。斯様な者と交際を持つと、何かと立場が悪うなるのではないかな?」


 と、菊原は煙草盆を手元に引き寄せた。

 すぐに煙草の煙が香った。それを良いものだと、清記は思わない。しかし、そこらの煙草とは質が違うという事だけは、何となく感じた。


「悌蔵殿は、お殿様にとって大切なお方。しかし、もう高齢だ。その名を利用しようと虫が近付いて来ぬように、目を光らせておくのも、息子たるおぬしの仕事だぞ」


 結局は、奥寺派への牽制だった。それから、暫く菊原の話を聞かされた。おおよそ、梅岳にそうするように指示を受けたのだろう。

 部屋を出ると、主税介が声を掛けてきた。


「恩賞があるぞ、主税介」

「ほう。恩賞ですか。そりゃ、お殿様の男妾を救ったのですから、当然ですね」

「滅多な事を言うな」

「冗談ですよ。でも、嫌ですね。こんな事に、念真流を使うのは」


 それには反論しなかった。清記も同じ気持ちなのだ。念真流は、民と御家を守る剣。このような些事に奮うものではない。

 この夜は眠れなかった。どうしても消化しきれない黒い塊が、胸に残っている。

 仇討ちの挑戦を受ける。弥五郎と称して、翔馬を呼び出した。そして現れた翔馬を、問答無用に斬った。仇討ちに賭けた、一途な士道を蔑ろにしたのだ。それは、武士として人として恥ずべき事だ。


(これも、御手先役なのか)


 いや、ただの人斬りだ。そうさせてしまう江戸は、やはり好きではない。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 お役目が無ければ、江戸の道場で出稽古に励んだ。

 主税介は、神田相生町の伊庭念流いばねんりゅう安川道場に通い、清記は京橋傍の千葉派壱刀流の清流館せいりゅうかんを選んだ。どちらも夜須藩とは繋がりがあり、建花寺流の剣客として稽古に参加していた。

 清流館の主は、千葉辰吉ちば たつきち。齢六十になる男で、江戸の貴人層にも顔が広く、特に徳河家の一支系・姉ヶ崎徳河家とは親密な関係にある。

 清記は、その辰吉とは入門の折に顔を合わせただけだった。実際に指導するのは、跡取りの千葉辰之助ちば たつのすけで、当年三十二になる。仁王のように筋骨たくましいこの男は、江戸の剣界でも当世無双との呼び声高い豪傑だった。

 事実、防具竹刀の立ち合いでは、清記は一本も取れなかった。勿論、念真流の技は使えないが、たとえ使ったとしても勝負の行方は判らない。真剣で立ち合っても、そうだろう。それほど、辰之助は出来る。


(やはり、江戸は広いな)


 そう思わざる得ない。人が多いだけに、強い男も多いのだ。


「平山君」


 稽古後、その辰之助に声を掛けられた。


「どうもいかんな」

「何がでしょうか?」

「君の剣には、何か迷いがある。特にここ最近は酷い」

「……」

「我々剣客はね、時として口より剣が多く語るものだ。君が道場に来た当初は、思いっ切りがいい剣を使っていたものだがね」

「……申し訳ございません」


 清記は何と言っていいか判らず、頭を下げた。


「まぁいいさ。稽古も良い気分転換になろう。何かあれば、私に相談してくれ。最も、剣以外に取り柄は無いがね」


 辰之助は、そう言って清記の背中を叩いた。江戸の剣界で最強を誇る手は、思った以上に大きいものだった。

 藩邸の自室に戻ると、同じく主税介も道場から戻った所だった。主税介とは隣りの部屋を与えられている。


「これは兄上。お疲れの様子で」

「清流館は意外と荒稽古だからな」

「ほう。江戸の道場は人気取りで稽古は柔いと聞いていましたが」

「そうした側面もあるだろうが、荒稽古を望む者には、徹底して厳しい。それより、お前はどうなのだ? 伊庭念流も厳しいと聞いたが」

「そうですね。難しいですよ」

「難しいとは、どういう意味だ」

「いや、間違って師範から一本取りそうで」


 主税介は、そう言って細面の顔に冷笑を浮かべた。


「おい。お前、念真流は使ってないだろうな?」

「勿論。それはご安心下さい。ですが、師範代も師範も、私に比べたら」

「そこを上手くやるのだ。いいな」


 主税介は、肩を竦めて自室に戻って行った。

 その夜は、外に出て酒を飲む事にした。あの日以降、どうも気が塞いで仕方がなかった。それを忘れさせてくれるのが酒である。

 店は安倍川町にある、居酒屋だ。土間席には机が五つと、奥には座敷もある。店は賑わい、客の殆どは近在の町人だが、武士の姿も幾つか見られた。

 清記は、小女に銚子を二本と適当に肴を頼んだ。暫くて出されたのは、豆腐になめ味噌を沿えたものと、焼き茄子だった。なめ味噌は、飯に乗せて食べる方が好きだが、豆腐も中々のものだった。焼き茄子もまた美味だったが、山椒が薬味であればなお良かった。

 それらを肴に、清記は一刻ほど手酌で酒を飲んだ。時折耳に入る江戸人の猥談には、眉を顰めたが、それを許容するのも江戸が魔都たる所以であろう。

 およそ一刻で四本の調子を空け、店を出た。

 夜風の心地良い冷たさが、酔いの熱をさらっていく。

 季節は秋を迎え、日々深まろうとしている。夜空には、待宵月が出ていた。


(いつ、夜須に戻れるのであろう……)


 ふと、清記は故国の風景が脳裏に浮かんだ。望郷の念に駆られるなど、我ながら甘い。そう自嘲した時には、志月の顔が浮かんでいた。

 男装をした志月と、鮎釣りに行った。そこで想いを伝えようとしたが、結局何も言えなかった。ただ楽しかった。今までの人生で、最も。


(志月殿も、この月を見ているのか)


 会いたい。そう思った自分が情けなくなった。御手先役として、軟弱すぎる。

 しかし、このまま江戸にいるのは苦痛だった。表向きは、剣術修行。だが真の目的は、御手先役としての働きであるのは間違いない。


(まさか、先日の一件の為に呼んだのではあるまい)


 いや、そう思っても仕方がないほど、今の夜須藩はおかしい。風流に狂い藩政を省みない、栄生利永。無能でも身内を重用し、専横の限りを尽くす、犬山梅岳。そして、それに追従する執政府の藩閣の面々。なるべく、政争に関する事は関わらないようにしてきた。しかし、それでも思う事はある。そして、それを変えてくれるであろう、奥寺大和への期待も禁じ得ない。


(出来るなら協力したい)


 と、最近では思う。大和が梅岳を斬れと頼めば、喜んで引き受けたい。しかし、それは出来ない事だ。平山家の血の呪縛が、大和に加勢する事を躊躇わせるのだ。


「ちょいとお兄さん」


 暗がりから、声を掛けられた。茣蓙を手に、手拭いで顔を隠した女。夜鷹だ。


「浮かない顔ね」

「まぁな」

「どう? 遊んでいかない? 浮世の憂さを晴らすにゃ、肌を合わせるしかないよ」


 清記は一瞬だけ迷ったが、志月の顔が浮かんだ。そして溜息を吐き、銭を無造作に投げ渡した。


「決まりだね。こっちに、いい場所があるんだ」


 しかし、清記は踵を返した。夜鷹が何か言っているが、構わず片手を上げ背中で聞き流した。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 立ち止まったのは、安倍川町を抜け延命院や大乗院などの寺が並ぶ小路を抜けた時だった。

 誰かがいる。そう思って振り返ると、ただ闇が広がるばかりだった。


(いや、確かに氣は感じたのだが)


 酔いのせいか。再び足を進めようと前を向くと、そこに男が佇立していた。着流しに落とし差し。深編笠で顔を隠している。


「自棄酒だねぇ」


 男が言った。声に聞き覚えはない。


「平山の御曹司が、酒に逃げるとはな」


 名前を知っている。夜須藩の者だろうか。或いは、念真流を狙う刺客という可能性もある。


「女には逃げなかったのは流石だが、酒より女の方が効き目があるぜ」

「……」

「しかし、らしくねぇな」

「そう言う、あなたは?」

「俺かい? 名は言えないねぇ」

「それは卑怯というものだ」

「卑怯か。それでも構わねぇよ。俺は名乗りたくないんだ。特に、酔いに逃げるような野郎には」


 清記は、一瞬で血が沸くのを感じた。何者か判らない。だが、少し痛めつけてやろう。そんな気分になった。


「あなたが何者か存じませんが、謝罪するなら今ですよ」

「誰が謝るこった。平山の御曹司が、お役目に嫌気がさして自棄酒をしている。それを揶揄からかいに来たんだ。面白くて仕方がねぇのに、何で謝らなきゃならねぇんだ」


 その瞬間、殺気が爆発した。跳躍しそうになった身体を抑え、前に踏み込む。扶桑正宗。抜いた。そこに男の姿は無かったが、斬光は僅かに、深編笠のひさしを掠めていた。


「ふう、危ねぇ。これが念真流かよ」


 男は、五歩の距離を空けて立っていた。


「まるで、狼だぜお前は」

「平山家を知る者か?」

「ああ。知っているとも」

「名乗れ。それから斬るかどうか決める」


 すると、男は一笑した。


「斬る」

「いいねぇ。そのかお。それを忘れるんじゃねぇぞ。江戸は、嫉妬と欲にまみれた妖怪が百鬼夜行する魔都だ。気を塞いでちゃ潰れちまうぜ」


 何とも、煙に巻いたような男だ。殺気や敵意は感じないが、どうも気に食わない。


「ま、名前ぐらいは教えてやろうか」


 清記は頷き、扶桑正宗を鞘に戻した。


栄生帯刀さこう たてわき。一応、御一門衆だが穀潰しの風来坊で名が通っている」


 清記は絶句した。栄生帯刀。現藩主・利永の実弟である。

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