第七回 鬼子(後編)

 屋敷を出ると、陽が真上に登ろうとしていた。


(さて、どうしようか)


 今日は非番である。道場の稽古も無い。藩邸の警備当番でもなければ、御手先役としてのお役目も無かった。

 ここ最近、穏やかな日々が続いている。噂によれば、又一郎の乱行もあの日以来ぱったりと収まったらしく、知らぬ間に木枯しが舞う季節になっていた。


(仕方ない。藩邸の道場で素振りでもするか)


 剣が面白い。最近になって、そう思えるようになっていた。清流館に足繁く通い、剣に打ち込んでいる。あの千葉辰之助とは、日に三本手合わせをし、その内の一本を何とか取れるようにまでなっている。殺しではない、単純な力比べがそう思わせるのだろう。

 道場の帰りに仲間に誘われて吉原や深川へ行ったが、それにはすぐに飽きた。それよりも、剣だった。流石というべきか、江戸には名だたる道場や剣客が多いのだ。

 清記は辰之助の紹介で、幾つか道場を見て回っていた。中でも最も印象に残っているのは、牛込に道場を構える天理てんり流の近藤伝助こんどう でんすけだ。竹刀稽古全盛の中にあって、伝助は常に実戦を想定した荒稽古を意識し、その剣は念真流に通じる所がある。また天理流は、乱暴で剣禅一致の対極にあるからか、田舎剣法と馬鹿にされているのだという。


(江戸とは何とも不思議だ)


 真剣を持たせれば、おそらく無双の強さを発揮するであろう剣客が評価されない。剣だけではないものが、剣の評価に関わる。それが江戸なのかもしれない。

 それでも剣の奥深さに気付けたのは、江戸に出たお陰だろう。他にも、訪ねたい道場は多くある。例えば、牛込馬場町にある壱刀流辻道場がそうだ。


「一度、行ってみてはどうか」


 そう言ったのは、東馬だった。この道場で俺は才能を開花させたのだと、手前味噌ながら言った。


(天才を育てた道場……)


 是非、覗いてみたい。そう思ったが、その反面で念真流の矜持が足を重くした。東馬には念真流の剣で勝ちたいのである。同じものを学んで勝っても、何の意味も無いように思える。

 兎も角、陰鬱な気分は剣で流す汗が洗い落としてくれた。


「よう」


 東本願寺の寺壁に沿って歩いていると、物陰から声を掛けられた。足を止めると、着流しに深編笠の男がスッと現れた。


「お前、野呂に弟子入りでもして蘭学者にでもなるのかい」

「私を張っていたのですか?」

「へへ」

「あなたというお人は」


 清記は呆れ気味に言った。

 深編笠の男。声色ですぐに判った。男が庇を上げると、帯刀の笑みがそこにあった。


「久し振りだな」


 会うのは、又一郎が暴れたあの日以来である。


「お元気そうで」

「そうかい? 相変わらず、ふらふらとしているだけよ。だから、疲れもしねぇ」


 帯刀は生まれも育ちも江戸で、若宮庄に戻る事は殆どない。誰に聞いて何もしていないというので、その言葉はあながち間違いではないのかもしれない。


「これから蘭学は重要になる。兄貴も蘭学者を雇うというし、お前さんが蘭学を学ぶのは悪くないぞ」

「何をおっしゃるのですか。蘭学には興味ありますが、今は剣です」

「そうだったな。噂で聞いたぜ? 一剣ではどうにもならぬ世だというのに、剣に励んでいると」

「ええ。有り難い事に、これがお役目ですので」

「剣術修行だったな、お前が江戸に来た〔名目〕は」

「〔名目〕ではありませんよ、本分です」

「好きなんだねぇ、剣が。まぁ、親譲りかな」

「江戸に来て、そう思えるようになりました」

「国元では無理か」

「夜須で血を吸い過ぎました。そのような場所では、楽しんではいけないと思ってしまいます」

「ふん。お前と来たら、親父に似てないな。まぁいい。ちょっと、付き合え」

「何処へ?」

「下屋敷だ。野暮用がある」


◆◇◆◇◆◇◆◇


 夜須藩邸下屋敷は、本駒込にある。清記が足を踏み入れるのは初めてで、広大な敷地内には、幾つもの蔵が立ち並んでいる他、贅を凝らした池泉回遊式の庭園がある。

 藩主・栄生利永の趣味だ。利永は花鳥風月を愛でる風流人で、数多くの文人墨客を保護し、芸術を愛する大名達と交際している事から、その分野では名高い。だが、それは夜須の領民にとって、不幸の何物でもなかった。心血を注いで実らせた米が、このような庭や風流道楽に消えるのである。

 しかも、利永は政事を犬山梅岳に任せ、顧みる事はない。かつて八代将軍・吉宗に倣って親政をしようとしたらしいが、家督継承から三年後に起こった大飢饉で政事の無力さを知ったのか、梅岳に全てを放り投げ風流の世界に逃げてしまった。噂では、梅岳がそう仕向けたという話もあるが、真偽の程は確かではない。兎も角、夜須の領民は領主に見捨てられたのだ。


(忌々しくなるな)


 内住郡の百姓の生活をつぶさに見ている清記の心中には、怒りとも口惜しさともつかぬ感情が湧いてくる。不忠だとは思うが、これでは領民への義が立たない。

 帯刀の案内で邸内を歩いていると、素読の声が聞こえてきた。

 読んでいるのは、論語だろう。下屋敷には、寺子屋まであるのかと思ったが、


直衛丸なおえまるだ」


 と、帯刀が振り向きもせず言った。


「直衛丸様」


 利永の五男。又一郎の弟になる。

 利永には、五人の息子がいる。長男は又一郎、次男は早世し、三男は生まれながら盲目で僧籍に入れられた。四男の格之助は犬山梅岳の養子となり、五男が直衛丸。

 素読の声は明朗で、透き通っていた。思わず聴き入ってしまうその声には、隠しきれない知性と慈愛の響きがあった。


「直衛丸は利口だ。又一郎とは似ても似つかぬ。家臣の受けもいい」

「私はまだ御目通りしておりませんが、あの声から十分にそれが感じられます」

「そうだろう。もの覚えもいいし、上の者には礼儀正しく、下の者には仁愛を持って接している。可愛い甥御よ」

「ですが、それが又一郎様の苛立つ原因かもしれません。家督を奪われるかもしれないと」


 すると、帯刀が清記に一瞥をくれた。


「お前、言うようになったなぁ」

「申し訳ございませぬ。つい」

「いや、いいんだぜ。俺はお前を嫌っちゃいねぇ。そうした諫言は構わんぜ。……で、お前の言う通りよ。又一郎の苛立ちや焦りの原因はそこにあるのかもしれねぇ。直衛丸は麒麟児よ。あいつが家督を継げば、押しも押されもせぬ名君となろう。だがな、それは無理だ」

「末子だからですか?」

「いや。直衛丸は病弱なのだ、生まれつきな。元服までは持つまい」


 返す言葉が無かった。帯刀の言葉には、死にゆく者への哀れみが含まれていた。

 それから無言で歩き、奥の一間に案内された。

 男が、庭園が望める縁側に座っていた。花を活けている。ちょうど、白い花を活けているところだ。花縮紗はなしゅくしゃだろうか。


「連れて来たぜ」


 帯刀はそう言うと、男が手を止めて振り向いた。

 歳は五十ほどか。頭髪は白髪交じりで薄く、面長。おちょぼ口が印象的だった。


(まさか)


 清記は慌てて平伏した。この男が、栄生利永だと気付いたのだ。元服の折り、一度だけ御目通りをした。あの時の記憶が既に遠く、すぐには判らなかった。


「お前が悌蔵の倅か」

「はっ、平山悌蔵が嫡男、清記と申します」

「そう、緊張せずともよい。まずは、おもてを上げい」


 そう言われた清記は、ゆっくり顔を上げ、利永を見据えた。


(この男か)


 改めて見ると、小さな男だった。風流人が持つ知性は感じるが、為政者としては頼りなさを覚える。


「善き面構えだのう。これなら悌蔵ではなくとも、お前に任せられる」

「いえ、まだまだ若輩者にございますれば」

「御手先役としての役目だ、清記」


 すかさず帯刀が言った。


「お役目ですか」


 驚きはない。江戸に来た。その真の目的は、江戸で人を斬る為なのだ。帯刀が言うように、剣術修行は名目でしかない。


「他言無用ぞ、清記」


 清記は、利永の言葉に頷いた。当然の事だ。御手先役の役目は、全てが秘匿である。


「又一郎の事だ。……あやつ、最近大人しいと思ったが、どうやら悪い連中とつるんでいるようでな。博打、喧嘩、強姦、そして殺しと何でも有りじゃ。しかも、堂々とはせず、変装して目立たぬようにしている徹底ぶり。夜須を継ぐ者の所業とは思えん」

「……」


 やはり。清記はそう思った。

 又一郎の乱行が治まったと思ったが、それは表向きに見えなくなっただけだったのだ。

 おそらく又一郎は、夜須で斬った岩城新之助と同様に、血の病なのだ。止めたくても止められぬ衝動。鬼子おにごとして生まれた血がそうさせるに違いない。


「清記よ、又一郎を痛い目に遭わせてくれ。又一郎の取り巻きは斬っても構わぬし、少々なら又一郎を痛めつけてもよい。あやつが懲りるように仕向けてくれ。でなければ、儂は次の手を考えねばならん。よいな?」


 清記は平伏した。これは始末屋の仕事おつとめとは違い、断りようがないのだ。


(さて、どうするか)


 主税介を誘う気はない。一人でする。それだけは、すぐに決めた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 夜。遠くで、野犬の遠吠えが聞こえた。

 高田四ツ家町を松平邸で右に折れ、雑司ヶ谷村側の畑と百姓町屋が立ち並ぶ小道である。

 清記は、提灯も持たず歩いていた。分厚い雲が空を覆い、月明かり一つない。それでも夜目が確かな清記には、何ら支障はない。

 清記の十間ほど先を、六名の男達が笑声を挙げて歩いている。先刻まで、音羽町で飲んでいたのだ。当然、こちらに気付いている気配は無い。

 男達は着流しに落とし差し。女物の洒落た小袖をそれぞれ引っ掛けている。武士にあるまじき頓痴気トンチキな格好である。

 悲しい事に、あの中に又一郎がいる。あれがいずれ主君になると思うと、悲しくなる。いっその事ここで斬り殺し、直衛丸を世子に推し立てたるべきではと思うほどだ。それほど、直衛丸の声には感じ入るものがあった。


(いかんな……)


 ここ数日、又一郎を探った。利永が言っていた通り、その乱行は確かなものだ。最近では盗賊の真似事をして、押し込みまで働いている。もし火盗改にでも捕縛されようものなら、夜須藩の沽券に関わる。それならいっその事と思ってしまう。しかし、それは大それた事だ。平山家も潰されてしまう。

 又一郎達が、道を曲がった。どうやら、鬼子母神堂の境内に入るようだ。


(しめた)


 あそこなら、人目もつかない。清記は一気に駆け足になり、先回りをした。

 鬼子母神きしもじん堂は静かだった。周囲の百姓町屋も寝静まっている。

 清記はお堂の陰に潜んだ。そして、懐から狐面を取り出す。顔を見られてはならないと、帯刀に渡されたのだ。

 声が近くなる。どうやら猥談に花を咲かせているようだ。急襲して一気に決めてしまいたいと思ったが、すぐに思い止まった。今回は又一郎に恐怖を与えるのが肝要なのだ。一瞬で決めても意味は無い。

 清記は、又一郎達の前にスッと出た。


「おいおい。何だよあいつ」

「狐が出たぜ」

「鬼子母神に狐かよ」


 と、一同が笑うが、清記は何も言わなかった。」


「何だ、てめぇ。何か言えよ」

「……」


 清記は又一郎を見据えた。一同の一番後ろ。頭領のように構えている。


「喧嘩売ってんのかよ」

「……」

「気に入らん。斬れ」


 又一郎が、冷酷に命じた。その瞬間、清記は扶桑正宗を抜いた。

 首が五つ舞い、血飛沫が上がった。一息だった。又一郎は刀の柄持ったまま、立ち尽くしている。

 清記は血刀を突き付け、一歩前に出た。


「おいっ…お前。やめろよ」

「……」

「冗談だろ」

「……」

「判った。金か? 好きなだけやる。いいな、それで手を打とう」


 清記は、扶桑正宗を横凪ぎにした。

 又一郎の着物一枚だけが切れた。


「ひぃぃっ」

「次は斬る」


 又一郎の袴の色が濃くなった。失禁しているのだ。情けない。そう思いながらも、また一閃した。

 髷が飛んだ。又一郎の意識も飛び、その場に崩れ落ちた。

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