第七回 鬼子(前編)

 突然の怒声が聞こえたのは、清流館での稽古を終えて戻った、夕暮れ前の事である。

 藩邸侍長屋の自室。疲れた身体を投げ出して微睡まどろんでいた清記は、慌てて身を起こした。

 また怒声が聞こえたと思えば、その後に女の悲鳴が続いた。


(只事ではない)


 清記は扶桑正宗を掴むと、表に飛び出した。


「兄上」


 主税介がそこにいた。竹刀に稽古着をぶら下げ、肩に担いでいる。どうやら、弟も稽古を終えたばかりのようだ。


「この声は?」

「あれですか? 我らが世子様ですよ」


 と、主税介は口許に軽薄な笑みを見せると、母屋の方へ目をやった。


「又一郎様か……」


 又一郎利之。現藩主・栄生利永の嫡男で、今年で二十二になる。ゆくゆくは夜須藩を継ぐ男だ。

 うつけ者。それが、この男に対する藩内の一般的な評価だった。粗暴で冷酷。遊興に耽るだけでなく、面白半分に夜な夜な辻斬りもしているという噂もある。江戸での乱行は夜須にも伝わっていて、又一郎が藩主を継ぐ事に戦々恐々としていた。

 その又一郎は、普段上屋敷で暮していて中屋敷に姿を見せる事少ない。こうして現れたのは、何か用件があるからだろう。

 また怒声が上がった。その内容までは聞き取れないが、足音が慌ただしくなっている。主税介は溜息を吐いた。軽薄な性格故か、こうした時には妙に冷静である。


「無視しましょうよ、兄上」

「何故?」

「関わっても、何の得にもなりませんよ。むしろ、世子様に目を付けられた方が面倒というものです」


 主税介は、どこまでも興味が無さそうだった。命じられれば止めるだろうが、そうでもない限りは動きそうもない。御手先役には、こうした男の方が向いているのかもしれないと思う事もある。


「執念深そうですしね」

「確かにそうだが、この悲鳴を聞いて無視も出来んだろう」

「出来ますよ。このまま、何も聞かなかった振りをして、部屋に戻ればいいのです」


 主税介らしい言動だ。しかし、清記は首を振った。確かに、又一郎を力尽くで止める事は憚られる。しかし、悲鳴を聞いて無視をするのも武士としての矜持に反する。


「……誰も付いて来いとは言っておらん」

「しかし、何かあれば兄を助けろ父上に言われているのです」

「それが今か?」

「まぁ、世子様にご不興を買うと、平山家のみならず穴水家にも影響があるので」


 また悲鳴がした。今度は男のようだ。


「仕方ないですね」

「ああ」


 清記は主税介と顔を見合わせ、母屋へと向かった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 又一郎が、抜き身を手に暴れていた。

 着物は乱れ、酒気を纏わせている。酷い暴れように、清記は眉を顰めた。刀を振り回し、障子を破り襖を蹴倒す。しかも、徳利を片手にだ。藩士達は、恐る恐る又一郎を遠巻きにしているだけだった。


「お、良い所に来た」


 清記の姿を認めた菊原が、慌てて駆け寄ってきた。


「どうしたのですか、これは」

「判らん。突然中屋敷に現れ、こんな具合だ」


 菊原は顔を顰めて言った。既に女中が一人斬り殺され、止めに入ろうとした藩士が左腕を切り落とされている。


「まずは止めろ。これ以上、騒動を大きくしてはならん」

「しかし、菊原様。止めるにしても、手荒にならざる得ません。そして、若殿に恨みを買えば平山家はどうなるか」


 清記は主税介を一瞥すると、一度視線を逸らし鼻を鳴らした。


「大丈夫だ。平山家は我々とは違う。たとえ若殿でも、容易に手は出せない家門だ」


 菊原がそうは言ったものの、清記は頷けなかった。利永が健在な今はいい。しかし、又一郎の代になった時、それを誰が止めるというのか。それに、不用意に目立ちたくはないという思いもある。


「どうするんです、兄上」


 主税介が耳打ちした。その声色は、何処か皮肉めいていた。だから言わんこっちゃない、とでも思っているのだろうか。


「この惨状を前に、お前さんは何もしねぇと言うのかい?」


 振り向くと、黒地に草木模様の着流しを纏った男が立っていた。


「よう」


 三十代前半。背が高く、角張った顔に、太い眉。それでいて目元は涼し気でもあり、江戸者が持つ洒脱で粋な印象がある。

 男の姿を見た菊原が、何故か一歩引いて黙礼した。


「あなたは?」

「ん? ああ、あの時は顔を隠していたっけか。二度目だな、平山の」


 清記はハッとして、慌てて頭を下げた。


「弟御には、初めて会うな」

「誰ですか、あなたは?」


 主税介の不躾な口調に、清記は慌てて一喝した。


「いいって事よ。俺は栄生帯刀ってもんだ。一応、あそこで暴れている奴の叔父になる」


 流石の主税介も、目が丸くなっている。それを見て、帯刀は悪餓鬼のような笑みを見せた。


「へへ。放蕩児ってのは、栄生の血かねぇ。兄貴はまぁ穏やかだが、風流狂いだ。なぁ、平山の?」


 そのような問いに答えるわけもいかず、清記は目を伏せた。


(何とも軽い男だ)


 清記は、出会った時に覚えた不快感を思い出した。帯刀の物言い、立ち振る舞いが洒脱な江戸っ子なのかもしれないが、武士の重みに欠け好きになれない。栄生家の一門衆なら、もう少し武士らしくして欲しいものだ。


「まぁ、お前らなら簡単に止められるだろうに」

「若宮様。今、止めるようにと命じた所です」


 菊原が言った。若宮様と呼ばれた帯刀は鼻を鳴らした。

 帯刀は、夜須の若宮庄を知行地にしている。故に、〔若宮様〕と呼ばれるのだ。それは、あの夜に出会ってから調べた事だった。


「俺が若宮様って呼ばれるの好きじゃねぇと、お前は知っているはずだぜ」

「これは、申し訳ございませぬ」


 わざとらしく菊原が謝罪する。どうやら、帯刀が乗り込んできた事への嫌味が込められている。この男も狸だ。


「だが、こいつらに止めろっていうのは酷ってもんよ」

「ですが、このままでは」

「それで、俺が参上したわけさ。可愛くない甥だが、時として厳しく指導してやるのが叔父の務めよ」


 帯刀が清記の肩を叩き、ふらふらと又一郎の前に進み出た。


「叔父貴」

「よう、又の字。暴れてんなぁ」


 次に聞こえたのは、悲鳴だった。又一郎が馬乗りになった帯刀によって組み伏せられ、刀は既に手放されていた。


「叔父貴、汚ねぇぞ」

「汚ねぇってか? お前はこれで死んでもおかしくねぇ。命のやり取りに綺麗も汚ないも無ぇんだよ」


 と、帯刀は脇差を抜くと畳に突き刺した。


「糞」

「世の中、面白くねぇなぁ。判るぜ、又の字。俺も昔は荒れたよ。お前の親父がああだろ? 俺の方が相応しいってね。だがよ、お前は嫡男だ。遅かれ早かれ、跡目を継ぐんだよ。そんなお前が、派手にやり過ぎると廃嫡されるぜ?」

「ああ、いいともさ。俺は親父の跡目なんざ継ぎたくねぇんだよ」


 更に又一郎が暴れ、喚きだした。しかし、馬乗りになり腕を固めた帯刀を振り払えないでいる。


(やはり、あの男は出来る)


 柔術だけでなく、剣もかなりの腕だろう。好きではないが、その腕前に興味が芽生えた。


「やりますね」


 主税介が口に出していた。帯刀の持つ腕を感じ取ったのだろう。清記は短い言葉で同意した。


「大体、お前は何で暴れてんだ?」

「俺の子分が殺されたんだ。病って事になっているようだが、あいつが病なんざ考えられねぇ。きっと殺されたんだよ」

「ああ、岩城ん所の坊主ボンかい?」

「岩城新之助だ。あいつはきっと殺されたんだ」


 その名前が出た時、清記は視線を又一郎から逸らした。新之助を殺したのは、自分である。大角屋徳五郎から請け負った仕事おつとめで、始末したのだ。


「それは判る。だが、此処に乗り込んだのは何故だ?」

「そりゃ、新之助を殺したのは、犬山の野郎だからよ。そうに違いねぇ。だが、犬山は夜須で江戸にはいねぇ。だから菊原に問い糺しに来たんだよ」

「おいおい。そりゃ、お門違いってもんよ。あいつは病でおっ死んだんだぜ」

「だから、そうじゃねっ……」


 不意に、又一郎の喚きが止んだ。帯刀が気絶させたのだ。帯刀は、又一郎を抱えて起こすと、梅原を呼んだ。


「お前さんに用だったみたいだぞ」

「そのようですね」


 菊原は、驚く事なく平然と答えた。


「又一郎が言っていた事は本当かい?」

「さて。国元の事は存じ上げませぬ」


 狸のような返答に、帯刀は鼻を鳴らした。


「まぁいい。死んだ女中には、それ相応の手当てを忘れるなよ。腕を斬られた奴は、傷が癒えたら若宮に送ってくれ。あっちで面倒見るよう、俺が命じておく」

「はっ。若宮様、お手数をおかけしました」

「その名で、俺を呼ぶんじゃねぇや。それより駕籠を用意しな。こいつを上屋敷に連れて帰る。兄貴や義姉ねえさんに灸を据えてもらう」


 そう言って踵を返した帯刀が、清記を一瞥した。


「これが武士ってもんだろ、平山の」


 清記は、何と答えるべきが迷ったが、帯刀は既に立ち去っていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 その日、清記は浅草の幸龍寺こうりゅうじ側にある野呂連丈のろ れんじょう宅を訪ねていた。私塾を兼ねた、中々立派な屋敷である。

 老妻に案内された一間で、総白髪の男が寝ていた。清記が名乗ると、男は身を起こした。


「久し振りだの」


 この男は本草学者で、父が親友と呼ぶ男の一人だ。幕府に国内の薬草調査を命じられた折、夜須を訪れ父がその世話をしたのが付き合いの始まりらしい。清記が生まれる前の話だが、それ以降も野呂は度々父を訪ね、野呂は清記に旅の話をよくしてくれていた。


「先生、御無沙汰しております」

「随分と立派になったな。まぁ、儂は見ての通りじゃ」


 野呂は病だった。土のような顔色をしている。昨年の秋から病んでいるらしく、薬湯と病人特有の臭いが鼻に突いた。今回野呂を訪ねたのも、父に見舞いの代行を頼まれたからだった。


「悌蔵殿は元気かえ?」

「ええ。相変わらずです」

「ふふ、壮健なのは善き事じゃ」


 野呂はそう言うと、軽く咳込んだ。


「先生。さ、横に」

「すまんのう、清記よ。だがな、儂はもう長くない」


 清記は手を添えて、野呂を寝かせた。


「何を気弱な事を仰るのです」

「いや、判る。儂は医者でもあるからの。しかし、残念よ。これから面白い世が来るというのに」


 野呂が悔しそうに言った。その表情には、声色以上に無念の色が浮かんでいる。


「私が本草とは別に蘭学を学んでいるのは存じておろう?」

「ええ、勿論です」


 野呂が御家人の青木文陽あおき もんようと共に、蘭語の習得を七代将軍吉宗に命じられたのは有名な話だ。その頃から、幕府が実用的な学問に限り、西洋文化の導入を認めたのだ。そして野呂は、我が国初となる西洋博物書〔蘭国本草和解らんこくほんそうわかい〕を著した。


「これからは、もっと西洋の文物が日本に入って来るだろう。国も開かれ、耶蘇の教会もあちこちに建つ。そして自由に外国へ渡れるようになる。それが羨ましいのよ」

「先生は、将来日本がそうなるとお考えなのですか?」

「そうだの。予想ではく、願望と言うべきか。そうなって欲しい。そうならなければ、いずれこの国は潰えるだろう。だがな、簡単にはいくまいて。西洋の物を忌み嫌う者もおろう。日本は国を閉ざし過ぎた。新しいものを恐れるようになったのじゃ」

「先生は長崎にもおられたのですよね」

「そうだ」

「私もいつかは長崎へ遊学したいと思っております」


 そう言うと、野呂の目が一瞬だけ見開いた。


「お前、儂を元気付けようと斯様な嘘を」

「いえ、嘘ではございませぬ。新しいものを見聞きする事は好きなのです。そして、それを内住の政事に活かせればと」

「殊勝な心掛けよ。悌蔵も善き息子を持ったものよ。儂の息子と来たら……」


 それから暫く、二人の息子の話を聞かされた。野呂の息子たちは、それぞれ父を継いで学者になった。長男は蘭学を学び、次男は本草学を選んだ。二人共研究熱心なのか、父が倒れても帰って来ないらしい。野呂はそれを忌々しそうに語ったが、清記には息子自慢のように聞こえた。

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