第十回 遠雷
志月を妻に迎えた。
それは、清記にとって大きな喜びだった。
卯月に婚儀を行い、晴れて夫婦になったのだ。それに合わせて父・悌蔵が隠居し、清記は正式に、家督を継いで夜須藩御手先役となった。
人並みの幸福。自分では手に入れる事は出来ない、遠いものだと思っていた。しかしそれは今、目の前にある。代官所棟から戻ると、志月が迎え出てくれる。それだけで、心は満たされた。
婚儀では藩主・利永からも祝いの言葉と品を貰い、平山家に対して加増の沙汰もあった。
また、志月を夫雄と牟呂四の
山人の婚礼衣装に身を包み、神楽のような舞や笛太鼓の演奏、そして豪勢な料理で歓待を受けた。山人にとって、自分は命の恩人という事になったらしい。そして今後も山人を頼むと、その席で夫雄に頭を下げられた。
清記は、家督を継ぎ正式に内住代官となった。表向きの事だが、今後は実務にも関わるつもりである。そして、里人と等しく山人も守ると決めていた。いくら山人が人別帳に記載が無い治外の存在であっても、内住郡に住む者には変わりないのだ。
「難しい話はいい。それより、子を早く作れよ。子どもはいいぞ、可愛いしな」
酔った牟呂四が、横から入って来た。その横では、妻の与鵙が小さい子どもを抱えている。牟呂四には女ばかり三人もいるのだ。上の二人は、忙しそうに酒や料理を運んでいる。
「何なら、今夜拵えたっていいんだぜ」
そう言うと笑いが挙がり、隣りの志月は赤面した。
志月は変わった。以前のような、暗い印象はどこにもない。三郎助に支えられながらも、懸命に平山家の正室として励んでいる。家人だけでなく村人の名を覚え、丁寧に挨拶を交わし、時には身分に捉われず話し込む事もあるのだ。
「元々そうした女だったんだよ」
そう言ったのは、東馬だった。
その東馬は、志月が平山家に落ち着いたのを見届けると、藩庁の許可を取って剣術修行の旅に出た。
山賊退治の一件で、まだ見ぬ強敵がいると知ってから、一から鍛え直す気になったらしい。何処に行くとは言わなかったが、どうやら東北を廻国するという。
「跡取り息子と言うのに呑気なものだ」
東馬の旅立ちを見送った清記が言うと、志月は首を横にした。
「兄上は家督を継ぐ気はごさいませんよ」
「ほう」
「兄上には、城勤めは無理ですもの」
そうは見えないが、ふらっと修行に出る辺りはそうなのかもしれない。そして、家督は末弟の
宮太郎は志月の二歳下の弟で、特に秀でたものはないが、生真面目な性格だった。そう思えば、東馬よりは宮太郎の方が、大和に似ているのかもしれない。
旅立つ前に、清記は一つの事を託された。それは、大和の安全である。
「一応、俺が見込んだ護衛は揃えたのだが、何かあったら助けてくれないか」
暫く沈静化していた犬山梅岳との対立が、再び熱を帯びはじめていた。切っ掛けは、犬山派の菊原の収賄だった。出入りの江戸商人から多額の賄賂を受け取り、便宜を図っていたのだという。中には公金を横領していたという噂もあった。
大和はそれを追及し、梅岳は苦笑して躱しているそうだが、いつ襲撃があるともしれない状況だった。
「この状況で旅ですか」
流石に清記は止めたが、東馬は聞く耳を持たなかった。
「まぁお前さんに頼む立場でこう言うのは心苦しいが、親父は親父。俺は俺だ」
「まったく、あなたという人は」
「なぁに、出来る限りでいい。平山家の傷にならん程度にな。それに、親父も覚悟の上だよ」
東馬はそう言い残して、旅だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
目まぐるしく季節は移ろいだ。
家督を継ぎ、代官に精励しながらも御手先役の務めがある。梅雨の時期には、飛び地である
加増したと言え、その他諸々の費用は賄えないのだ。夏前には、長雨の影響で波瀬川の支流が氾濫し、内住郡の村の一部に被害が出た。藩庁からも支援の銭は出たが、それでは足らずに平山家から復興費を補填したのである。
「お内儀をお迎えすれば、色々と掛かりが増しましょうから」
始末屋業の元締め、両替商・大角屋徳五郎は、そう言って報酬が高い
殺す相手は、関八州の治安を担う
ただ、
「生かしてはおけぬ悪党」
らしい。
清記は標的を追って夜須を発ち、そして秘密裏に斬った。死体も残さず、存在を消した。それが注文だった。
人を斬る事には、慣れている。慣れているが、憂鬱だった。志月との穏やかな日々が、よりそう思わせるのかもしれない。
久し振りに、屋敷に戻った。半月の不在。代官としての仕事も山積しているだろう。そう思うと気が重い。優秀な下役は揃っているが、最後の処理は自分が、と言い渡しているのだ。不在の間は、筆頭与力に任せるのも仕方のない事かもしれない。自分のこだわりより、郡政を滞らせない事が第一なのだ。
そのような事を思っていると、三郎助が重そうな身体を揺らしながら駆けて来た。
志月の懐妊。三郎助が飛び跳ねて言うと、清記は荷を庭先に放り投げ、志月の部屋へと駆け出していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
夜須城では、政争が激しさを増していた。
利永の信任を得て、長く権力を握っている犬山梅岳。そして、梅岳のやり方や独裁に反感を抱く奥寺大和。両者が派閥が執政府が真っ二つに対立し、今にも破裂しそうな緊張感があるという。
梅岳には古くからの家門が加担し、大和には新興家門が多く加わっている。そうした階級闘争という意味合いも、この政争にはあった。
ただ、当の利永には、勝手にしろという雰囲気があった。
「まぁ、今までに梅岳は何度も政争を勝ち抜き、敵を叩き潰して来たのだ。負けたら負けたで、大和が首席家老になるだけよ」
利永に呼び出された折り、清記はそう言われた。志月の懐妊を伝えた後だった。
「それで権力が交代するのは、健全な事だろうよ。お前はそう思わぬかえ?」
「はぁ」
「だが、お前は重々気を付けろよ。大和の娘を娶ったからの。梅岳が何を仕掛けるか判らん。一応おやつに平山に手を出すなと、釘を刺しておくが」
「御深慮痛み入ります。しかし我が一門は、何処までも殿の、栄生家の刀でございます。執政府内の政争など関わりなき事で」
「ふむ。それは心強いの。しかし、早く終わらぬものか。雰囲気が悪くて息苦しいわ」
「まことに左様で……」
「いっその事、お前を首席家老にしてやろうか」
「またご冗談を」
清記は、少し目を伏せて笑った。
「そうじゃ、今度遠乗りへ行かぬか。お前の住む内住へな。山人という輩にも会うてみたいわ」
利永は、この争いに興味は無いようだった。梅岳に我が子を養子として与えているにもかかわらず、この態度である。ある意味で達観しているのかもしれない。
ただ、政争の根本は利永並びに藩主家の浪費にある。その浪費を諫めぬ梅岳は、その費用を年貢の増額という手段に出た。大和が最も反対している点はそこなのだ。
(やはり、暗君なのだ。この方は……)
知恵が無いわけじゃない。文化人としては有名なのだ。それでも藩政を顧みない。つまり、民百姓は自分の為に存在している、と本気で信じているのだ。それは、この藩の不幸以外に何物でもない。
利永の前を辞去し部屋を出ると、前から梅岳が歩いてきていた。
清記は咄嗟に横に控えた。
胡麻塩頭に、深い皺がある。身体は小さいが、一種異様な圧力があり、否が応でも身構えてしまう。
「ほう、これはこれは。平山悌蔵殿のご子息ではないか」
「はっ」
「父上をよう支えていると聞いたぞ」
そう言った梅岳に、まだ幼さが残る青年が素早く耳打ちした。この青年は、利永の子で梅岳の養子となった格之助である。梅岳は既にいた嫡男を廃嫡してまでして、この格之助を受け入れ、嫡男として元服をさせていた。
「おっと、すまぬ。既に家督を継いだのであったな」
「左様にございます」
「内住代官としても、直々に政務を執っているとか。郡総代奉行が褒めておったのを忘れておったわ」
「過分なお褒めのお言葉にございます」
「あ、そうじゃ。奥寺殿の姫を娶ったとか」
清記は頷いた。
「この卯月に」
「それはめでたき事よ。身を固めれば、御手先役としても張り合いが出よう」
清記は返事をして、顔を上げた。梅岳の目。強い光を放っている。
「藩庁の事など気にせず、与えられたお役目に精励せよ。それがおぬしの為じゃぞ」
梅岳が一笑し、格之助と引き連れて利永の部屋へ消えて行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
志月の腹が目立つようになった。
事件は、そうした秋の盛りに起こった。
大和が、利永を加えた御前会議の場で、藩主家の浪費を痛罵したのだ。
この秋、領内の作柄が悪く思うような収穫が得られなかった。飢饉まででは行かないが、百姓の間には飢えが見て取れるようになったのだ。また上方商人への借財も嵩み、それを改善する一手を梅岳政権は見出せない。しかも結局、菊原の収賄と横領も有耶無耶にされた。そうした状況下で、利永が大規模な紅葉狩りを企画し、かつ江戸表では、あの又一郎の放蕩が再開。吉原で大金を使っているという。
そうした現状に、大和の義憤が爆発した。鷹揚な人柄だが、清廉潔白な士であった大和には我慢がならなかったらしい。
思わぬ非難に対し利永は、一瞬顔を歪めた後に押し黙り、無言で評定部屋を退室したそうだ。
その話を、代官所の御用部屋に駆け込んだ三郎助に訊いた。
朝から雨が降りそうで降り切れない、低い雲に覆われた日だった。
「戯言はよせ」
そう言ったが、三郎助は俯いたままだった。
鈍器で殴られたような衝撃。気が付けば、右手が震えていた。
すぐさま、父の隠居所へ呼び出された。
父は珍しく真剣な表情で、
「思った以上に、状況は深刻だぞ」
と、呟いた。
「今の所は登城遠慮が申し渡されたらしいが、このままでは済むまい」
「父上。志月は、志月はどうなるのです」
「判らぬ」
悌蔵は首を横にした。
「差し当たり、蓮台寺村の庄屋へ預けようとは思う」
「……」
「預かる云々の準備は、三郎助に任せよ。だが、預けた後は、許しが出るまで会うなよ。お前は平山家の当主なのだ」
「しかし」
膝行して乗り出した清記を、悌蔵は宥めた。
「今は待て。儂が殿に掛け合うてみるでな」
「父上……」
「伊達に長年仕えてはおらぬわ。……だが、もしもの覚悟はしておけよ。藩の創立以来、類を見ない事件だからな」
どうしようもない。大和の自滅に、あの梅岳が何もしないはずはない。しかも、それまで静観を装っていた利永は、これで完全に梅岳側に付いたと考えていい。
清記は、
「志月には私が伝えます」
と言って、隠居所を出た。
母屋と隠居所を繋ぐ、長い回廊をゆっくりとした足取りで進んだ。
志月に、何と伝えるべきか。言葉も見つからない。泣くだろうか。怒るだろうか。その反応も見えない所がある。
夕暮れ。いつの間にか、雨が降り出していた。清記は空を見上げた。薄暗い空が光る。雷鳴。だが、それはまだ遠いものだった。
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