特別収録
妻の一撃
<あらすじ>
宝暦十年、皐月の朔。須藩祭祀奉行与力・野村重太郎は妻の喜佐と墓参をした帰り、不逞浪人に出会う。夜須藩では、浪人の流入は御法度。伊武派壱刀流の剣客である重太郎は見過ごせず、浪人に挑みかかる。その後の人生を大きく左右するとも知らずに――。
※「巷説江戸演義小噺」に「妻恋剣 枝垂女舞衣」という題でも収録
◆◇◆◇◆◇◆◇
宝暦十年、皐月の朔。
それは、父の月命日の墓参の帰りだった。
城下から離れた、
梅雨の中休みというべき晴れ間だが、朝から蒸すような陽気が続き、重太郎の襦袢はびっしょりと汗で濡れていた。
(しかし、暑いな……)
重太郎の生まれは、江戸である。祖父の代からの、江戸詰めの藩士だっのだ。その前は、九州のさる外様藩に仕えていたという。重太郎が父に従い、国元に移ったのが十二の時。夜須に来て、まずその暑さに閉口したのをよく覚えている。
嫌な季節が来たものだ。と、毎夏の度にそう思っては、憂鬱になる。
一方、少し後ろを歩む喜佐は、相変わらずの涼しい顔だった。元より、喜佐が感情を表に出す事は少ないのだが。
喜佐は遠縁の娘で、二十五の自分より二歳年上。しかも、父の
異変に最初に気付いたのは、その喜佐だった。
「お前さま、あれを」
と、波瀬川から流れ込む、金剛寺川の河川敷を指差した。
「ん? どうした」
そこは、背の高い葦が群生している。指差した先がよく見えなかった。
「あそこでございます。尋常な気配ではありませぬ」
重太郎は姿勢を低くすると、葦の隙間から男達が何やら争っているのが見えた。
「喧嘩か? いや、違うな」
その気配を、重太郎も察した。次の瞬間、耳を劈く絶叫が聞こえた。男のものだ。重太郎は喜佐を一瞥して頷くと、咄嗟に駆けだしていた。
何故、そうしたのか。自分でも判らなかった。異変を前に、素通りできるほど厚顔無恥ではない。そしてそれ以上に、手裏剣を使う姉さん女房の喜佐の前で、いい顔がしたいだけだったからかもしれない。
青々とした葦を掻き分けると、そこには三人の男がいた。
浪人だ。すぐに判った。垢や埃にまみれ着古した着物に、伸び乱れた髷。そう認識した時、重太郎の鼓動が高鳴った。
三人。しかも、血刀を手にしている。恐怖。重太郎の全身に、恐れが駆け走った。
浪人は、歩く災厄。夜須藩ではその浪人の流入を禁止し、斬り捨てにしても罪に問われないと定められているほどの悪党集団である。
「ほう。何やらお客さんの御到着だぜ」
三人の浪人が、不敵に笑む。一人が足元に目をやった。百姓風の男が、袈裟斬りにされ斃れていた。そして、側には女。若い。まだ十三かそこらだ。放心状態で、へたり込んでいる。
「何をしている」
重太郎が糺した。しかし、三人は笑うだけで、相手にもしない。
「夜須の侍は腰抜けが多いというが、こいつは骨がありそうだな」
「そうそう。奴らは見て見ぬ振りをするからよ」
三人から、酒気を感じた。目も尋常な色をしていない。
「何をしていると訊いているのだ」
「へっ。何って、その小娘を手籠めにしようとしたら、親父がじゃましたので斬ったのよ」
「そうよ。俺はまだ蕾が開く前の花が好きでね。その花を手折って、無理矢理に花弁を開かせるのが趣味なのさ」
高笑いする浪人の前に、重太郎の恐れは怒りによって払拭れていた。
「おぬし等は浪人だな?」
「おう、浪人さ。生まれながらのな」
「浪人は、夜須に入る事はまかりならん」
「って、事になっているみたいだな。ただ、城下に入っても何も言われないぜ」
「夜須藩士は腰抜けだからな」
重太郎は、腰の大刀に手を伸ばした。
「やる気か、お前」
重太郎は頷いた。伊武派壱刀流を学び、お勤めの傍らで長柄町で道場を開いている。剣客としての自負はある。その自分が、この惨状を前にして、一刀を抜かぬ事は出来ない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
重太郎がまずした事は、葦を背にする事だった。
重太郎は、正眼に構えた。攻撃にも防御にも対応する事が出来る。それに攻防共に隙は少ない。
「背後の憂いを無くして、正眼かい」
正面の男が言った。顔が長く、
「生真面目な性格だな、お前さん。だが、それは生兵法ってものだ。素人がどう頑張っても、俺達には勝てんよ」
笑い声が挙がる。重太郎は無視して、刃の切っ先に、意識を集中した。恐れは通り過ぎた。あとは、この火中から如何にして娘を救い出すかだ。それに、この葦の向こうには喜佐もいる。
素人。そう言われれば、否定できない。剣術は修めたが、実戦の経験がない。一度だけ真剣で立ち合ったが、相手の腕を軽く斬っただけで終わった。
だが、そんな事はどうでもいい。経験に勝るもので挑めばいいのだ。
重太郎は、深く長く息を吐いた。
無駄な力みが抜け、意識の深部に沈んでいく。浪人達の声も遠い。
やる事は一つ。伊武派壱刀流の剣客として、武士の務めを果たすだけだ。弱きを助ける。その為に自分は、剣を学んだのだ。
心気が整い、意識が刀と一致した。
伊武派壱刀流の秘奥、
右の浪人。切り込んできた。気付いた時には、刃は寸前だった。
鼻先で躱し、刀を振った。そして、左の浪人。身を低くして、刀を突き出した。
二人の男が、声にならぬ声を挙げて崩れ落ちる。吹き出した血の臭いで、自分が二人を斃したのだと気付いた。
全身から汗が噴き出していた。瞑深の効果はあったようだが、大して動いてもいないのに息が苦しく、肩が意に反して大きく上下している。
「見掛けによらずやるね」
頭領格の男が言った。仲間を二人斬られても、薄ら笑みを浮かべている。
「だがな、俺はそう簡単にはいかんよ」
頭領格が抜いた。刃の光が、他の者とは違うように思えた。
頭領格は下段。重太郎は、正眼のままだ。
(くそっ……)
息が苦しい。必死で整えようと思うが、思い通りにはならない。
焦り。吹き出した汗が目に入り、沁みる。
瞑深をしようと念じた。しかし、中々心気が整わない。
頭領格が、笑んだまま踏み出す。重太郎は地擦りで下がる。頭領格の圧力がそうさせた。
だが、背後は葦。重太郎は舌打ちをした。必勝の策が仇となったようだ。
頭領格の剣氣が、凄まじかった。対峙しているだけでも、身体が重くなる。刀を構えているだけでもやっとなほどだ。
何人も人を斬った者が持つ、魔性の剣。自分とは違う。棲む世界が、そもそも違うのだ。
頭領格が、下段から構えを八双に変化させると、気勢を挙げて猛進してきた。
重太郎も踏み出そうとした。が、足が地中から這えた無数の手に掴まれているかのように見えた。
そして、次の瞬間には転がっていた。斬光が、目の前を過ぎていく。転がる事で避けたのだ。本能だろう。起き上がりに一閃されたが、何とか立ち上がる事が出来た。
「小癪な奴よ。ちょこまかと……」
そう言いながらも、頭領格は余裕の表情だった。獲物を前にして、舌なめずりする獣。まさしくその顔だ。
重太郎は及び腰に構えた。斬られたのは肩口。血が着物に滲んでいる。
「そろそろ死ね」
大上段からの一撃。その時だった。
頭領格の動きが止まるやいなや、背中を仰け反らせた。そして、その顔はみるみる紅潮し、怒りの表情に変わった。
「何、だと?」
振り返る。その視線の先。着物の袖を絞った喜佐が、そこに立っていた。
喜佐は手を振り下ろした。無数の光。それは、空を斬り裂く音を立て飛来した。頭領格の身体に、何かが次々と突き刺さる。
「この野郎」
頭領格が片目を抑え、声を挙げた。左目には、棒手裏剣が突き刺さっていたのだ。
「お前さま、今よ」
喜佐が叫ぶ。と、同時に重太郎は、刀を振り上げて踏み出していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その話を聞いた時、喜佐は嫌な予感を覚えた。
夜須藩首席家老・
穂波郡の一件から、二十日後。重太郎にとっては、良い風向きになっている最中の事だった。
浪人三人を斬った武功から、その剣名は高まり、長柄町の道場に入門希望者が殺到。上役の祭祀奉行・
「いずれは加増もありえる」
と、内示を受けたという。今回の呼び出しも、その話かもと、重太郎は言っていた。
(そうならいいのだけど……)
台所に立つ喜佐は、鍋の中身をかき回しながら思った。
漠然とした不安がある。梅岳は海千山千の権力者。ただ褒める為に、わざわざ呼び出すとは思えない。
父の高円は犬山派に属し、その関係で何度か話した事がある。人懐っこい笑みを見せるが、その目の奥は笑っていない。信用してはならない男だと、その時は思ったものだ。
(やはり、一人で浪人を斃した事にしない方が良かったのかもしれない)
穂波で、喜佐は重太郎を助けた。父に内緒で母から授けられた、〔
母は、父以上の手裏剣達者だった。父の前では本当の力を出す事はなかったが、その実力は〔犬山派の刺客〕を十分に果たせたほどだ。
喜佐も、母の血を濃く受け継いだ。あの三人の浪人を斃す事など容易い事だ。そして、実際にそのお膳立てをした。
しかし、それは夫婦とその側にいた百姓の娘ふき、三人だけの秘密である。女に助けられたとあれば、剣客としての名声は地に落ちてしまう。だから、重太郎一人で三人を斬った事にした。しかし、それが仇となったのかもしれない。
重太郎は弱い。いや、剣術は上手い。そこらの武士には負けないだろう。だが、それ以上の相手に勝つ腕は無いのだ。所謂、道場剣法の域を脱していない。
喜佐はそうはっきりと言い切れる。それは、父に遠野流手裏剣術を学び、そして母と共に〔犬山派の刺客〕として働いてきた経験があるからだ。勿論、その事を重太郎は知る由もない。
(あの人、お断り出来るかしら……)
生真面目で実直な人柄の男だ。責任感も強い。命令とあれば、実力以上のものでも引き受けそうだ。
竈の火が、弱くなっていた。
「あらいけない。ふき、ふき」
喜佐が表に向かって叫ぶと、勝手口から陽に焼けた少女が飛び込んできた。
あの日助けた、百姓の娘である。父親以外に身寄りがないという事で、重太郎と相談して引き取ったが、喜佐にはそれ以上に、秘密を共有した者を手元に置くという意味もあった。
「奥様、何か御用ですか?」
「ええ。薪をもう少し持って来てちょうだい」
「あい」
ふきが元気に飛び出していく。父が死んだというのに気丈なものだ。
少女の頃から、多くの死を見てきた。そして、心に幾つも傷を負ったが、それを重ねていく内に麻痺してしまった。今では人の死に動じる事は無い。しかし引き取って以来、気丈に振る舞うふきを見ていると、かつての傷の
「おーい」
表で声がした。重太郎の声だ。生真面目で面白味は無いが、憎めない年下の夫。唯一、この人との時間だけが、刺客ではなく、一人の夫を愛する女でいさせてくれる。何とも愛くるしい男だ。
「今、参ります。ちょっとお待ちくださいな」
そう喜佐は返事をして、台所を出た。
<了>
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