41~50

41

 鐘の音が鳴る。朝露で足元が濡れる。靄が包む公園の片隅で、私と彼女は向かい合う。彼女の輪郭はぼうっと滲み、水蒸気の向こうへ、溶け出していくかに思える。

「これが本当のお別れです」

「本当の?」

「そう、本当の」

 伏せた瞼のふちの、睫毛の震え。私はやっと、全てが幻だと悟る。鐘の音が鳴る。鳴る。

ほんとうのお別れ



42

 闇にも深さがあると教えたのは彼女だった。

 大学構内には、おびただしい数の生物の気配があった。蛙や虫の声、草花の匂い、濃密な生命の息吹。

「生命力って暴力的だよね」

 笑う彼女の輪郭が初夏の浅い闇に滲み出す。

 それが僕の見た最後の姿だ。彼女は獰猛な生命力に呑まれたのだろうか。僕にはもう分からない。

―命は呑む



43

 古今東西、超常の力が宿るとされた楽器といえば笛である。私は笛の音に魅入られ、魔笛・妖笛の民俗学という学術分野まで拓いた。

 その私が今やこの様だ。周りには人骨が散乱し、見上げれば夜空は僅かに覗くのみ。私はどうも心奪われすぎた。そら聴け、笛の単旋律が闇を縫うのを。今宵もにえが降ってくる。

―笛に呼ばるる穴底の



44

 逃げて欲しい。私はいつか君を喰ってしまうかもしれない。

「逃げないわ」

 瘴気しょうきに蝕まれ、深い森の洋館で慎ましく暮らしていた私の元をふらりと訪ね、そのまま棲み着いた少女は答える。喰われそうになったら、代わりに貴方を喰ってあげる。笑んだ口元から、化物ばけものの片鱗たる牙が覗く。ああ、ならば安心だ。

―化物の心得



45

 俺を宇宙に連れてって、と病床の彼が言う。

「君が宇宙飛行士になれたらさ、遺灰をそらから撒いてよ。そしたら俺は流れ星になれる。絶対綺麗だよ」

 死ぬ人は勝手だ。私は宇宙飛行士を志望して宇宙工学を専攻に選んだのでもないし、もしなれても、その流れ星を私が見ることは叶わないのに。

 本当に、勝手だ。

―私を宙まで連れてって



46

 誰もいない部屋で、蓄音機が動いている。レコードが回り、プツプツというノイズ混じりの愛の喜び――おそらくはクライスラーの自作自演――が、花のように開いた喇叭ラッパから流れ続ける。演奏はやがて止むが、さて、ここで疑問が生じる。

 聴く者のいない音楽は、果たして演奏されたと言えるのだろうか、と。

―音楽の実在性についての命題



47

 今日も帰りの電車は賑やかだ。通勤鞄を抱えて本を読む幕末の偉人に、漫画を読む小学生サイズの肉食恐竜、熱心に携帯をるファンタジーゲームに出てきそうな格好の若者。

 僕にはその人が読んでいる小説や漫画の人物として他人が映る。自分しか見えないらしい光景に胸を躍らせ、僕は自分の文庫本を開く。

―手の中の別世界



48

 窓の外には静寂が満ちている。殆どの生物種は死に絶え、人間の生き残りもどのくらいいるのかもはや見当もつかない。

 耳に痛いほどの静けさ。それは原初の地球や遠々しい星、ひいては全宇宙を満たすものと同質のものであろう。そのことに安らぎを覚えるといったら、些か倒錯していると思われるだろうか。

―孤独≒安堵



49

「地獄には二種類あってな」

 硝子の破片を踏みしめる靴が項垂うなだれた私の視界に入り、第一声が放たれる。

「今の監獄同然の地獄と、好き勝手できる地獄さ。選びな」

 二番目、と答えると、銀髪に半ば隠れた目元が緩んだ。

「地獄で暴れるのは結構楽しいぞ」

 伸ばされた大きな手を取って、だから私はここにいる。

―かわいい君のための地獄/君のためのかわいい地獄



50

 彼女はまばゆく笑っている。液晶の中で。

 毎日一緒にいた頃は、彼女の笑顔があんなに輝かしいなんて気づきもしなかった。僕は一体何を見ていたんだろう。そりゃあ彼女は料理も掃除もからきしだったけれど、朗らかで穏やかな日々以上にどんな大事なことがあるっていうんだ?

 彼女は眩く笑っていた。僕の隣で。

―彼女はテレジェニック

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