第9話


 「あ」


 沈鬱な面持ちをしていたカナハが、楽器屋の店頭に置かれていた初心者用のベースに目を留めた。二人の間に漂う暗い空気を変えようと、私は無理にテンションを上げながらベースを指差した。


「好きなの?ベース」

「はい。ペチカにハマった中学校のときから弾くようになりました。これ、子供の頃から貯めていたお年玉をはたいて買った、初めてのベースなんです。すごく、懐かしい」


 そう言いながら、カナハは頬を緩めた。紫色のベースに、愛おしそうに触れる手つきがとても優しい。「弾いてみてよ。ちょっと、聞いてみたいし。」と言った私の声を聞きつけて、店員さんが小さなアンプを差し出してくれた。


「全然、上手くないですよ。それでもいいですか?」


 ベースを抱きかかえながら申し訳なさそうに恐縮するカナハに、「大丈夫だよ」と頷いてみせると、彼女は安心したような笑みを浮かべた。大きく深呼吸すると、右足でリズムを取りながら弦を弾きはじめる。太い低音が耳に心地いい。音楽のことはよく分からない私でも、その技術の上手さが分かるような演奏だった。

 カナハの細い体が楽しそうに揺れる。彼女の表情が次第にリラックスしていくのが分かる。聞き惚れている店員さんの拍手が聞こえたのか、カナハは夢から覚めたときのような驚いた顔で私を見上げた。


「すみません!ちょっと、没頭してました」

「いいよ。カナハって、すごくベース上手なんだね。びっくりした。」

「そんなこと、ないです」


 照れたように笑うカナハの笑顔がすごく可愛らしく見えて、思わず目をしばたかせる。教室で見るときとはぜんぜん違う表情に驚く。


「そんなことあるよ。今も、ベース弾いてるの?」

「今は、してないです。最初は動画サイトに上げてたりしたんですけど、ちょっと、色々あって」

「そうなんだ」


 色々、について踏み込んだ質問をすることはできなかった。カナハは別れ際に、「今日は、本当にありがとうございました」とお礼を言った。それから少し迷ってそのまま、踵を返して背中を向けていった。

 一人きりの帰路には夕日が射していた。足先からのびる大きな影が、私の前を歩いている。


 その日家に帰ったあとすぐに、動画サイトにアクセスしてカナハの上げていたという動画を探した。「ペチカ」「弾いてみた」というタグを打ち込んでみると、すぐにその動画は見つかった。

 マスクをして顔半分を隠しながらベースを弾くカナハの隣には、ピンクのふりふりしたジャンパースカートをまとっている女の子が座っていた。彼女はアコースティックギターを弾きながら、ペチカの歌を口ずさんでいる。

 演奏が終わると、ふたりは仲睦まじくじゃれあうように笑った。まるで小さな花が春の予感にほころぶようなカナハの笑顔を見て、私の胸は軋むようにかすかに痛んだ。


 動画が終わると、私は次に、カナハの横にいたロリータ少女の名前を検索バーに打ち込んだ。「れんげ」という名の少女はこの界隈で有名なアイコンだったらしく、某掲示板にはいくつものスレが立っている。私はいくつかのそれに目を通して、カナハと「れんげ」の間に起こったある事件の事情を知った。

 あの子が人と関わりたがらない理由はここにあるんじゃないかと勘ぐってしまうほどに、それはカナハをひどく追い詰めてしまうような事件だった。

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