第7話 花街の彼女
父はとても厳格で、昔から私の生活や行動を縛る習癖があった。学業ばかりを強いられ、余り自由を与えられなかった私は、穏やかに流れる時間を求め、よく優しい祖父の法律事務所を訪れていたように思う。故に、私が祖父の姿を追って弁護士を志すようになったのも、ごく自然な事なのだと感じていた。今でも祖父の面影と優しい記憶の残るあの事務所は、私の好きな空間のひとつなのだ。
休日の二日間を調査に費やしてしまったため、昨晩は遅くまで机に向かっていた。ある程度の勉強をしないと落ち着かないところを見ると、父の築いた習慣が今でも私を束縛しているのだと感じられる。
前日の夜更かしに惑わされる事もなく起床し、遅れず講義に出席はしていたが、一つとて内容を記憶することが出来なかった。
無意識に昨日の出来事が頭の中を巡る。これからどうすれば最良の結果が得られるのかという議題が意識の中心に居座っているようだった。
数えきれないほどの思考を巡らせ辿り着いた結論は、依頼主である
本来なら逆の順をとるべきなのだろう。しかし、二人の間に何らかの
講義の合間に
どうしても先に進みたい気持ちが抑えられず、午前中の講義を終えると直ぐに大学を飛び出していた。
カラカラと勢いに任せて扉を開けると、その音に驚いた壱弥さんは口をあんぐりとさせながら此方を見た。仕事用の椅子に身を預け、右手には飲みかけであろう缶珈琲が握られている。
「どうしたん、吃驚するわ」
「午後やから来たんです」
「確かに午後やけど、大学は」
「細かいことは気にしたらあきません」
扉を閉めて事務所に上がり込むと、部屋いっぱいに珈琲の香りが広がっていた。恐らくまたろくな食事もせず、珈琲ばかりを口にして空腹感を紛らわせていたのだろう。
ヒールが鳴らす高く澄んだ音に合わせ、近づく私を壱弥さんは不思議そうに追視する。
「お昼まだですよね」
私が鞄の中に入れていた売店のおにぎりやサンドイッチを袋のまま差し出すと、壱弥さんの表情がぱあっと明るくなり神を拝むかの如く合掌した。
「壱弥さん、メッセージ送った事なんやけど」
「あぁ、俺もナラの意見に賛成や」
もごもごと鮭おにぎりを頬張りながら壱弥さんは軽い口調で言った。
すんなりと彼に肯定されると落ち着かない気持ちになるのは、日頃の彼の態度によるものなのだろう。意見は一致しているものの、どうやって話を進めていくべきか、戦略は一つとして浮かんでいなかった。
壱弥さんはどうなのだろう。
「壱弥さんは、花田さんにどんな話をするか考えてはるんですか?」
「そうやなぁ、取り敢えずは『
壱弥さんはツナマヨおにぎりを片手に、さらりと言った。
つまり私に伝える策はないということなのだろう。今回も何らかの情報を隠しているのか。もしくは、本当に成るように成ると考えているのか、食事に夢中になっている壱弥さんの表情からは読み取ることは困難だ。
彼は私の不安など微塵も気付いていない様子で躊躇いなくBLTサンドの封を切る。
「まぁ、理屈的な事は置いといて、葵ちゃんと会って話をしてもらえるように彼女を説得するべきやろうな。戦略は相手の出方次第や」
「簡単に言うけどなぁ」
「勿論ナラには協力してもらうで、宜しく」
「私が役に立つと思わんのやけど……」
壱弥さんは瞬く間に食事を平らげると、残っていた珈琲を口に含む。
「俺は花田さんの性格を知らんどころか会ったことすらないやろ。他人の俺よりも、友人のナラの方が話は通じやすいはずや。それに弁護士を目指しとるんやったら、口頭コミュニケーション能力は必要やろ?」
手についたパン屑を払いながら、壱弥さんは当然のように言った。理には適っているが、そんな能力を今求められても困る。
「言いたいことは解るんやけどなぁ」
愚痴を溢すように呟くも彼の耳には届いていないようで、壱弥さんは満腹感から幸せそうに珈琲を飲み干した。
「じゃあ、着替えてくるからそこに座って待っとり」
ひらりと手を揺らしながら、部屋へと消えていく。仕方なく彼の言う通りに、私は応接用のソファーへと腰を下ろした。
壱弥さんに促されるがまま、私達は目的の店を目指し、祇園甲部の
月曜日であるにも拘わらず大勢の観光客が行き交い、騒々しい程の活気が溢れている。
見上げる長身の壱弥さんは涼しげなスーツに身を包み、街を歩む女性たちの視線をたっぷりと受けていた。あまり街中で彼の隣を歩くことがない私は、桃色の視線に居心地の悪さを感じ、少し離れた後ろを静かに付いていった。
小路を数回折れた所で、漸く目的地へと辿り着いた。道路を挟んだ向かい側には変わらず喫茶店があり、この場所が間違いでないことを確信する。しかし、店先にあったはずのメニューはどこにも見当たらなかった。
「ここか。またまあ奇妙な雰囲気の店やな……ほんまにカフェしとんのか?」
壱弥さんの声に向き直ると、彼は地下へと続く階段をじっくりと覗き込んでいた。そこは昼間にも拘わらず妙に薄暗く、階段の脇には数段飛ばしに小さな
「丁度合間みたいですね」
「あぁ、その方が好都合や」
壱弥さんは顔色を変えずにカツカツと革靴を鳴らしながら階段を降りていく。彼の後を追って進んでいくと、艶のある小振りの扉が目の前に現れた。彼は躊躇いなくその扉を開く。
「すいません」
呼び声さえも溶ける程に、店内は暗く沈んでいた。広がる静寂が扉の中から迫り出すように溢れ出し、飲み込まれてしまうような錯覚に陥れる。
一歩、足を踏み入れると視界の両端に柔らかい光が灯った。それは友禅のような美しい和柄が刻まれた有明行灯で、細い廊下を点々と照らしていた。
仄暗い光に目を奪われていると、鮮やかな紅色が目の前で翻った。
ふわりと漂うお茶の香りと共に、燃え上がる様な色の着物を召した女性が姿を見せる。四十歳前後であろう黒髪の綺麗な女性は、身体の前で腕を組みながら訝しい顔で私たちの姿を見つめていた。
私が会釈をすると、彼女もゆったりと頭を下げる。
「どないしはりましたか。店は四時からですが」
「いえ、客と違うんです。少しだけ花田二葉さんにお会いできませんか」
壱弥さんが名刺を差し出すと、彼女は滑らかに手を伸ばし、それを受け取った。
「探偵さんですか……。どうぞ此方へ」
女性はひらりと袖を翻しながら店の奥へと歩んでいく。後に続くと、すぐに開けた場所へと辿り着いた。地下であるために窓はなく、光源は足元の行灯と机の蝋燭、天井から下げられた小さなランプ一つであった。店内の一角には木製のカウンターが設置されており、私達はそこへ座るように促された。
背後にある座敷の前には視線を遮るように短歌が綴られた屏風が立てられており、小さな灯りを受けてぼんやりと浮かぶ。壁にぴったりとくっついた年代物の棚には、色鮮やかな
温かい茶の入った器が目の前に差し出される。
「二葉ちゃんには何と伝えたらよろしいやろか?」
「高槻ナラ、とお伝え頂けますか」
私が答えると女性は緩やかに微笑み、襖の向こうへと姿を消した。
「名乗って大丈夫なん」
「知り合いなら名乗った方が確実やと思いますので」
説明をすると壱弥さんは「ふうん」と軽く相槌を打った。
唐突に、頭上の小さな灯りが落ちる。驚いて反射的に目を閉じ隣の壱弥さんのスーツを摘まむと、彼は私の手をそっと掴んだ。
暗闇に順応出来ないうちに再度灯りが宿る。
壱弥さんの手が離れ、目を開くと、そこには艶やかな藤色の振り袖を着た女性が俯きながら着席していた。重ねられた半襟や、金色の帯、水色の帯揚げなどの全てが彼女を彩っている。ゆっくりと顔を上げた彼女は僅かに微笑んだ。肌は抜けるように白く弾み、黒目がちの瞳は天井の灯を映して魅惑的に光る。筋の通った美しい鼻、ふっくらとした薄桃色の唇が女性らしさを印象付けていた。焦げ茶色の髪は後ろで綺麗に纏められ、着物に合わせた薄紫の髪飾りがしゃらりと揺れる。
「花田さん……」
暗闇に浮かぶ彼女は、溜め息を漏らすほどの美しさを秘めていた。
花田さんは大きな目を少しだけ細めて淑やかに会釈をする。
「そちらの方は?」
「探偵の春瀬と言います」
「どうぞよろしく」
壱弥さんが名乗ると、彼女はまた丁寧に頭を下げた。
「私達がここに来たんは、どうしても伝えたいことがあったからなん」
一息ついてから用件を切り出すが、彼女は視線を手元に落としたまま此方を見ようとはしなかった。もしかすると何か疚しく思う事があって、彼女はそれを追求される事を不安に感じているのかもしれない。そんな気持ちが、平静を装う彼女の目や口元、定まらない視線から漠然と伝わってくる。
私は彼女に、葵の名を伏せたままここに至った経緯をゆっくりと話していった。
「私達は花田さんの居場所を探してる中で、貴女が周囲の人たちに嘘を吐いたって知ったんやよ」
「嘘?」
「そう。下鴨にあるカフェの
私の言葉を受けて花田さんは困った様に眉を下げ、溜め息を吐きながら漸く私の顔を直視した。色のない視線が私に刺さる。
「それで?」
感情を隠すような抑揚のない台詞が暗闇に響いて消える。彼女の悪びれない態度にどきりとした。
「それが何なん?」
再度彼女は私に問う。
「……嘘吐かれて葵が傷つくとは思わんかったん?」
「嘘はついたけど傷つけてへんはずやろ。実家に居るって伝えてあるだけやし。もし高槻さんが私のことを心配して探してくれてたんやったら、迷惑やから放っといてくれる?」
「迷惑って……」
彼女の突き離すような態度と冷たい言葉受けて、私は一瞬言葉を詰まらせた。
無音の時間を作ってしまったことで、気まずい空気が漂っていく。
壱弥さんは組んでいた手を解き、左手で右の手首を軽く握った。指で手首を撫でる仕草が、ほんの少しの苛立ちを感じさせる。傍らで仄かに揺れる蝋燭の炎が、彼の瞳に緋色の光を灯していた。
恐らく壱弥さんは花田さんの態度に少し嫌悪感を抱いたのだろう。私は彼に牽制するよう視線を送った。すると壱弥さんは少し口先を尖らせながら、また気持ちを静めるように手を組んだ。
再度花田さんの姿を映すと、彼女は無表情のまま変わらず目の前に座っている。
「私達は葵からの依頼でここを探して来たん。葵は花田さんがここに居るのを知ってるんやよ」
私がゆっくりと諭すように告げると、彼女は表情を強張らせた。先程まで纏っていた空気が一変し、みるみるうちに不安の色に染まっていく。
「花田さんのことを心配してるんは私やなくて葵なん。花田さんが葵の前から姿を消したのにも、嘘を吐いたのにも理由があるんやろうけど、葵は何も知らんのやで。ただ花田さんに嘘吐かれて、自分の前から消えてしまったことしか。もしかしたら自分が何かしたんかもしれへんって悩んで、ずっとずっと花田さんのことばっか考えてた。でも自分の力ではどうしようも無くなったから、春瀬さんに本当の居場所を隠してまで依頼をしたんやよ。だから……」
どうにかして葵の気持ちを伝え、彼女を説得しようと思ったが、言葉を上手く続けることができなかった。葵の抱く感情はもっと複雑で、哀しみで溢れていて、きっと彼女を責めるようなものではない。
黒目をうろうろと泳がせている彼女を前に、私は冷静になれるようにと深呼吸をした。
「……だから、葵に会って本当の事を話してあげて」
それが精一杯の望みの言葉だった。
しかし、花田さんは苦い表情で首を横に振り、私の願いを拒む。
「探偵さんが私のこと調べたんなら知ってると思うけど、母が半年前に亡くなったん。元々母と二人暮らしやったから、私は母の妹夫婦に引き取られた。けど、叔母にも高校生の子供が二人いて、私を面倒みることなんてできへんって言われた。だから迷惑かけられへんくて、何とか自分で生活しようって決めたん……」
とても小さく消えてしまいそうな声で、花田さんはゆっくりと思い返すように言葉を紡いでいった。
「うちは元々裕福やないし、当然バイトだけで生活するのは難しくて、学費が工面できんくて大学は辞めるしかなかったん。家賃も勿体ないから、バイトしてたこの店で住み込みで働かせて貰うことになった」
「じゃあ、何で嘘を」
壱弥さんが問い詰めるように言うと、花田さんは下唇を噛む。
「お金がなくて学費が払えへんなんて友達に言えるわけないやん。それに葵は優しすぎるから絶対私のためにどうにかしようとする。だから、嘘をついた。……心配させたくなかっただけやのに、私の嘘が葵を傷付けてたなんて、ほんま私アホやし最低や。葵にはどんな顔して会ったらええんか分からへん」
「そしたら葵が傷付いたままでええん? 本当のことは花田さんの言葉で伝えやな意味ない。それに、一番会いたがってるのは葵やねんで」
彼女の嘘は葵の事を思ってのものだったのだろう。彼女の気持ちは良くわかる。しかし、その嘘が葵を傷付けた事実は変わらない。
だからこそ、二人の関係を取り戻すためには、彼女が自分の言葉で葵に真実を告げる他はない。そう感じていた。
もしも彼女がちゃんと葵に向き合い、真実を伝える事が出来たのなら、きっと葵は彼女を笑って許すだろう。彼女が優しい人だと感じる事ができるのだから。
「……私も……会いたい。会って……ちゃんと謝りたい」
花田さんは泣き出しそうな顔で、途切れ途切れに言葉を紡いでいった。
小さな蝋燭の炎が、温かい光で彼女の優しい心を照らしているようだった。
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