第3話 空っぽの部屋
どんよりとした雲の多い空が今にも崩れ落ちそうに揺らぐ朝だった。天気予報では降水確率は二〇%と示されてはいたが、厚い雲を見ていると傘を持参しなかったことを少し後悔した。
開いた扉の向こうには、机に向かいパソコンのキーを打ちながら午前中の仕事をこなしている
「おはようございます、
「おはよう、壱弥さん」
葵がした挨拶の流れに乗って、私は小さく手を上げながら壱弥さんに声をかける。ごく普通の流れなら、彼が私に微笑むのだろう。しかし、目の前の男は不満気に口先を尖らせた。
「なんや、ナラも来たんか」
私には微笑みもせず、目を背けるように目の前のパソコンの画面へと視線を戻し、当然のようにキーを打ち始める。三十オーバーの良い大人の態度とは思えない壱弥さんの言動は、私をからかう為だけの愉快犯である。真面目に受け取ってはならない。そう自覚はしているものの、露骨に嫌悪感を示されては、少しばかり心痛してしまう。
「はいはい、邪魔で結構です」
「べつに邪魔ではないけどな」
壱弥さんは一段落したところでパソコンを閉じて立ち上がると、そこへ座れと手でソファーを示した。白いシャツに締められた爽やかなアイスグレーのネクタイが壱弥さんの動作に合わせて揺れる。
私達がソファーに着くと、壱弥さんはカウンターの向こうで淹れた温かい紅茶を一つずつ目の前の机にそっと差し出した。茶器からふんわりと立ち込める湯気に乗って、ほんのりと紅茶の香りが鼻先を掠めていく。
「これ、『
軽い甘さの紅茶を口に含んだ葵は、手元の茶器をじっくりと覗き込み、淡い水色を確認する。再度香りを感じたあと、葵は閃いたように彼に尋ねた。
「ようわかったね」
「茶道を嗜んでるんで、お茶には強いんです。椿木屋のお茶はどれもおいしいんで良く飲みますよ」
「俺は詳しくはないんやけど、お客さん用にちゃんとしたお茶は準備しやなって思っててね」
壱弥さんはカウンターの奥へと戻り、今にも落としそうな危なっかしい手つきでティーポットをカチャカチャと片付けながら言った。ずぼらな壱弥さんにお洒落な紅茶など似合わないにも程があるが、彼の言葉を聞いてなんとなく納得した。フロアの片隅の棚には、来客用のグラスや茶器、ティーカップなどが一式揃えられてある。その上段にはきっちりと緑茶や紅茶、珈琲などが準備されていた。それを家事が至極苦手な彼が一生懸命になって淹れていると思うと少し微笑ましくも感じられた。
ティーポットを片付けた壱弥さんは手を拭いてから、仕事机に置かれていた白い紙を取り、私達の側へと近づいてくる。そして二枚の紙を、音が立たないほど滑らかに机上に並べていった。
「約束の書類な」
そこに示されたのは、昨日約束していた依頼に関する書類であった。一枚は依頼の内容と調査方法が記されている説明用紙で、もう一枚は調査期間と金額が記載された契約書である。壱弥さんは手にしていた瑠璃色の万年筆を書類の隣に並べ、向かいのソファーへと身を預けた。
「それじゃあ改めて説明するわ」
壱弥さんの落ち着いたトーンの声に、葵は背筋を正し、姿勢を改めるように手を両膝の上に乗せた。
「お願いします」
葵の目が真剣な色に変わる。
壱弥さんの説明は凄く分かりやすいものであった。書類に記載された難しい言葉が柔らかく噛み砕いて述べられる故に、知識に乏しい私達の頭にもすんなりと収まっていく。少し反応が鈍ると、それを察し再度別の角度から付言する。仕事柄なのか、説明することには慣れている様子だった。
一通りの説明を聞いたあと、壱弥さんは万年筆を左手に持ち、葵の手の高さに差し出した。
「調査員は俺一人やから、おそらく二人にも協力してもらうことになると思う」
葵は深く頷き、右手で万年筆を受け取った。
おそらく私は問答無用で雑用係なのだろう。今までも時折応援を申し付けられることがあった。しかし、大半は目的の場所の下見調査や買い物等の簡単なものであり、ここまで全面的にかつ探偵らしい調査への協力をすることは今回が始めてだった。
腕の立つ探偵だと言われている壱弥さんの仕事姿を、私は殆ど知らない。そのため、彼の知性を生かし機知に富んだ姿を拝めることに期待を膨らませてしまう。英俊豪傑と評される通りの彼を見られたのなら、いつものアバウトな態度でさえ許せてしまうような気がした。
「ここに、サインしたらいいんですよね」
現実に引き戻すように葵は人差し指で署名枠を示す。
「そう、サイン貰ったら正式に契約したことになるからね」
葵は躊躇いなく、壱弥さんに借りた瑠璃色の万年筆を握った。筆を走らせる度に美しいインクブルーが紙に文字を形成していく。葵は万年筆の扱いに馴れていないようで、少し苦労しながら一画一画を丁寧に書き込んでいった。壱弥さんは整った字で記入された葵の名前を確認し、私達の目の前で自分の印鑑を二枚の用紙に押した。
「ありがとう、契約完了や」
出来上がった二枚の書類を纏めながら、壱弥さんは礼を述べる。
説明の内容によると、本日の午後から早速調査を開始するということであった。何事も出だしが肝心とはよく言われることだ。そのため、壱弥さんならきっと幸先の良い調査方法を考えているのだろうと、妙な安心感を抱いていた。その一方で、これからの行動があまりにも非日常的であるゆえに、いまひとつ現実と
「これから、何をするんですか?」
私が問うと、壱弥さんは企むように笑った。
「先ずは下宿先を訪問して帰宅状況を確認する。そして必要に応じて聞き込みをして、彼女の外出先や行動パターンを調べていく。その後は臨機応変に対応や」
昨日の会話からおおよその予想はついていたが、改めて壱弥さんの口から告げられることで、漸く「調査」という言葉に現実味を帯びた。
「やけどその前にひとつ問題があってな」
葵と共に意気込んでいると、空気を乱すように壱弥さんは深刻な顔で私達に向かって言った。その言葉に、葵は眉を下げて不安を浮かべている。考えてもいなかった問題について思考を巡らせていると、静寂を切るように壱弥さんは静かに口を開いた。
「……腹が減りすぎて死にそうやねん」
「は?」
ぽつりと呟かれた言葉の内容に、私は愕然とした。
あまりにも下らない問題に、最早つっこむ気力さえも湧いてこない。しかし、そんなことには構いもせず、壱弥さんは当然のように私に食事の提供を求めてくる。いつもならすぐに甘やかしてしまうのだが、先程のやりとりによる脱力感が甘い気持ちを奪い取ってしまった。
「自分で作る努力してください」
突き放すように言うと、壱弥さんは拗ねるように口先を尖らせる。
「包丁が握れんねん」
確かに、先程のティーポットを片付ける手つきを見る限り、手先が器用とはお世辞にも言えない。彼が包丁を握る姿をイメージしても、「料理の出来る素敵な男性像」は形成されず、当然不安ばかりが生まれるだけであった。
仕方なく私は溜め息を吐いてから席を立った。
昼食を終えた午後十二時前、私達は花田さんの下宿先へと向かう。
土曜日の京都はどこか騒がしい。観光客で溢れる市バスを避けるように、壱弥さんに促されるまま彼の愛車に乗せて貰うこととなった。
事務所から百メートル程離れた場所に駐車場を借用しているというため、どんよりとした空の様子を伺いながら早足で駆ける。出不精である壱弥さんの愛車は、あまり使用されていないものだとばかり予想していたが、想像以上に手入れが確りと施され、白く輝いていた。
近づくとカチャリとロックの外れる音が響く。壱弥さんは左側の扉を開き、手をこまねきながら葵に乗車を促した。
「ナラは後ろな」
「言わんくても分かってます」
と、私は小さく頷いてから自分で扉を開き、後部座席へと乗り込んだ。
葵曰く、花田さんの下宿先は左京区の下鴨周辺にある小さな年代物のアパートで、外壁は爽やかな空色で可愛いらし見た目なのだという。葵の案内通りに車は進み、
車から降り、見上げた目の前のアパートは、葵の言う通り淡い空色の外壁で、いかにも若い女の子が好みそうな愛らしい雰囲気を纏っていた。
「二階の角の部屋が二葉が住んでるところですよ」
「取りあえず、直球に呼び鈴鳴らしてみよか」
「そうですね」
冷たい鉄の色が涼しさを与える階段を上り、二階部屋の玄関が並ぶ筋を歩く。
「もし花田さんが部屋にいたら、これで依頼完遂なわけですよね」
「まぁそういうことになるな。そんな上手くいくはずないけど」
花田さんの部屋の前に到着すると、壱弥さんは間髪を入れずに呼び鈴を鳴らした。一分、二分、いくら待てど返事は聞こえない。休日昼間ゆえ、何処かへ出掛けているのかもしれないが、葵は諦めきれない様子で何度も繰り返し呼び鈴を鳴らす。その間、壱弥さんは扉をじっと見つめていた。
「やっぱりおらんわ」
いつもの葵は、しょぼくれたままこれで引き上げてしまうのだろう。壱弥さんが居なければ到底考え付かなかった重要事項、「帰宅の有無」を示す痕跡を探すため、私は葵にアイコンタクトを送る。葵も思い出したように頷き、慎重に周辺を見回していった。しかし、幾ら探せど私達の目に不審な点は映らない。
無機質な茶色の扉には一切の飾り気はなく、シルバーのドアノブと鍵穴がそこにあるだけだ。扉に備えつけられたポストには、真新しいマンションの広告が一枚ねじ込まれているだけで、他の郵便物が放置されている形跡もない。ただ、何の変哲もない扉に視線を落としていた壱弥さんは一瞬困った顔をしたと思うと、考え事をするように腕を組んだ。
「壱弥さん、どうしたんですか」
「ああ、大家さんに確認したいことができた。二人ともここで待っとり」
「ちょっと待って」
思い立ったように踵を返す壱弥さんを引き止めようと服の裾を掴むと、彼は面倒くさそうに私を見下ろした。
「何かわかったんやったら教えてください」
「推測やから裏を取りにいくんやけど、おそらく家には帰ってない。というか、既に引き払ってる可能性が高い」
「嘘や」
淡々と告げられた彼の台詞を受け入れられないと拒むように葵は否定した。親友がここには居ない可能性を突きつけられ、少し涙ぐんでいる葵を見た壱弥さんは、あからさまに目線を反らしながらばつが悪そうな顔で頭を掻いた。
「良く見てみ。入り口のドアノブに砂埃がかかってるやろ。何日も人が出入りしてない証拠や」
示されたドアノブを近くで見ると、確かに目を凝らさなければ気付かない程の砂埃がかかっていた。壱弥さんが扉を開けるようにドアノブに手をかけると、それはいとも簡単に消え失せた。
「でも、放置されてるような郵便物はないですよ」
私が指摘すると彼は僅かに笑う。
「出入りがないのに郵便物が溜まってないってことは、郵便物だけが外から回収されてるか、ここに誰も住んでないってことやろ」
あくまで可能性とは言えど、ほぼ確証に近いそれは葵の心を掻き乱しているようで、彼女は目を游がせていた。
親友の居住場所を知っている安心感が一気に崩れ落ちたのだ。何より自分に一言も告げずに引っ越しをしてしまったという事実こそが、親友という絆に深く打撃を与えているのだろう。
私が気の効いた言葉も言えずに黙り込んでいると、涙を堪えている葵の黒髪を、壱弥さんが難しい顔をしながらくしゃくしゃと撫でた。
「自分の意思で立ち去ったんやったら、事件に巻き込まれた可能性は低いやろ。親友と無事に再会できる確率はうんと高くなったってことやで」
壱弥さんの言動は大雑把ではあるが、葵を励まそうとしていることは良く分かるものだった。
乱れた髪を直しながら、葵は「ありがとうございます」と泣き出しそうな顔で笑った。
壱弥さんは元来た階段に向かっていく。その後ろに続く葵を追いかけようとした時、鉄格子の隙間から壱弥さんの車の端に不審な物陰が動くのが見えた。驚いて道路を見下ろすと、空色のTシャツに白いエプロンをした中年女性が壱弥さんの車を撫でるように見つめていた。
「壱弥さん、なんか変なおばさんが車の中覗いてる!」
階段を下りかけていた壱弥さんは、怪訝な顔で私の隣から視線を落とす。
中年女性は一頻り車内を覗いたと思うと、手でボンネットを叩きながら大声をあげた。
「誰や、人ん家の前に無断でこんな車停めたんは!」
私と葵はそのドスの効いたおばさんの姿を見ているだけで顔面蒼白の思いであったが、対照的に壱弥さんはにやりと笑った。
「ついてるで」
「えっ、何が?」
私の問いにも気付かない程、足早に階段を下りた壱弥さんは、瞬く間に例のおばさんの側まで歩み寄っていった。
彼がおばさんに張り倒されはしないかとドキドキしながら、私たちはアパートの影から彼の様子を伺う。
「すみません、それは僕の車です。ご迷惑をおかけしてすみません」
壱弥さんは悪気のない好青年を装いながら、頭を下げる。そしてとびきりの笑顔でおばさんの両手を取り、身体を屈めて彼女を見下ろすように顔を近づけた。
「この謝罪は改めてさせていただきますので、よろしければご婦人のご住所とお名前をお教えいただけませんでしょうか」
相手の個人情報を聞き出そうとするその声は、相手を誘惑するように柔らかく透き通る。
端正な顔立ちの青年に間近で囁かれたご婦人は、頬を赤らめまんざらでもないように自身の名前を溢していた。
「もしかして、ご婦人はこの『
その言葉を聞いたとき、全てが繋がった。壱弥さんの企むような微笑みも、似合わない王子様ボイスの好青年も、大家であるこの婦人の気を許すためのものだったのだろう。同時に、自分の顔が人よりも整っていることを自覚しているタイプのイケメンなのだと気付かされる。
隣の葵も「なるほどねぇ」と関心するように呟いた。
「実は今しがた貴女にご連絡差し上げようと思ってたばかりなんですよ」
「まぁ」
「これも何かのご縁かもしれませんね。僕は探偵の春瀬と申します」
壱弥さんが丁寧に名刺を差し出すと、大家さんはそれを受け取り、「探偵さん?」と頬に手を宛がって小首を傾げる。
「ここの二〇一号室に住んでいた『花田二葉』さんと連絡が取れへんくて、居場所を探してるんです。彼女は既にこの部屋を引き払ってますよね?」
「えぇ、先週の月曜日に出てってますよ」
「やっぱりそうですか。因みに彼女がどちらに引っ越したのかご存知ではありませんか?」
「流石にそこまでは知らんけど、私の所へ挨拶に来た時は四十代くらいの綺麗な女性も一緒やったわ。部屋の荷物はその女性の車に積み込んで出てったみたいやね」
大家さんは左上をぼんやりと見上げ、その時のことを思い出しながらゆっくりと話す。壱弥さんは葵に目配せをするが、彼女もさっぱりわからない様子で首を大きく横に振った。
「そうですか、その女性の特徴は何か覚えてはりますか」
「綺麗な長い黒髪で、和服姿やったけど。あと、お茶のええ匂いがしたわ」
その表現を聞いて壱弥さんが少し考え込んでいると、大家さんはまた何かを思い出した様子で言葉を続けた。
「そうそう、二葉ちゃん。ご近所のカフェのオーナーさんにも挨拶に行ってたわ。常連さんやったみたいで。この道を真っ直ぐ行って、次の角を右に曲がった突き当たりにある店やよ」
「ありがとうございます、このお礼は後日必ず」
壱弥さんは深くお礼をして、影に隠れていた私達に「いくで」と声をかけ、車に乗り込んだ。大家さんは飛び出てきた私達に驚いた様子ではあったが、特に咎めることもなく、手を振って見送ってくれた。
「なんか大家さん、優しい人やったねぇ」
葵が和やかに言った。
「壱弥さんマジックやと思う、あれは」
「使えるもんは使わな損やでな」
壱弥さんはどこか得意気に笑った。
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