第10話 青い宝石の理由
冷蔵庫から取り出した冷水をグラスに注ぐと、まあるいビー玉のような泡がこぽこぽと音を立てて消えていった。グラスの結露が作る輪を、しっとりと中指でなぞる。すると、指先から身体が冷えていくような心地がした。
暑苦しい虫の声が、庭の木々から迫り上がるように鳴り響く。
透き通る冷水を一口だけ含んだとき、廊下からふらりと父が姿を見せた。
「ナラ、
その言葉にどきりとした。
まだ朝の七時三十分を過ぎたばかりなのに、彼の名前を聞くことになるとは思いもしなかった。
「え、ほんまに?」
「ほんまや。彼はしっかりしてはるし、男前やな」
そう意味深な言葉を溢しながら父は手にしていた紙袋を机に置いた。その紙袋には兵庫県にある有名なケーキ屋の名前が記されている。そこは数ヵ月前から予約をしないと手に入らないという幻のクッキーが人気のお店だった。
何故こんな早朝に壱弥さんがやって来たのだろう。
私は彼の姿を確認するために急いでサンダルを履き、玄関を飛び出した。緑溢れる庭の飛び石を一枚ずつ踏み進め、その先の門まで辿り着くと壱弥さんの白い車が見える。落ち着いたインディゴブルーのスーツを召した彼は、ただぼんやりと私を待っている様子だった。
「壱弥さん」
名前を呼ぶと壱弥さんは私の姿を目に映し、左手を小さく上げた。
「おはよ、出掛けるで。って何やその格好」
そう、高校生の頃の青いジャージを着た私の姿を見て眉を寄せる。
「さっき起きたばっかやねんもん」
「やからってそのままでよう出てきたな、はよ着替えて来い」
壱弥さんは呆れながら追い払うように手を払った。
これは私見ではあるが、恐らく世の中の女子大生の半数が高校ジャージを部屋着として使用しているだろう。割とよくあることで、特別おかしいことではないはずだ。それなのに、彼の言葉を受けると何故か恥ずかしいことのように思えてくる。
私は妙に納得できないもやもやとした気持ちを抱えながら、彼の言う通り元来た道を引き返した。
東の空で太陽が白く輝き、その周囲には濃い水色が淀みなく広がっている。道の端には鮮緑色の街路樹が並び、その景色を見送りながら車は真っ直ぐに国道を進んでいた。
自宅を出発してから十五分ほどになるだろうか。思えばまだ私は行き先を知らず、ただ彼に言われがるままに助手席に着席しているだけだった。
隣の壱弥さんに視線を向けると、相変わらず無駄に整った横顔が見える。すっと通った鼻筋と、違和感のない首元までのライン、くっきりとした二重瞼の目のバランスがとても美しく、気が付くと彼の横顔ばかりを見つめてしまう。
彼は立派な成人男性ではあるが、どこか少年のような無垢な面影を秘めた不思議な雰囲気を纏っていた。
視線を窓の外に戻すと、まだ彼に菓子折のお礼を告げていなかったことに気付く。
「なぁ壱弥さん」
名を呼ぶと、瞳だけが僅かに動き、私を一瞥した。
「お菓子ありがとう、あれ幻のクッキーやんな。兵庫行ったん?」
「いや、伯母が送ってきたやつやよ。俺が
そう言えば、壱弥さんは京都の高校に進学する前は兵庫県に住んでいたのだと以前母が話をしていた。まるで兄を追うように同じ大学に進学し、今でも同じ土地に住んでいる。そう思うとやはり仲の良い兄弟なのだと改めて実感できる。
正直、彼らの家族については余り触れたことがない。ご両親はまだ兵庫県に住んでいるのだろうか。ただ、祖父の話を聞く限りでは幼い頃には京都に住んでいたようであり、何らかのきっかけで兵庫県へと移住し、また元の地に戻ったのだろう。その理由はどんなものであるのかは分からないが、余計な詮索はやめておくことにした。
「伯母さんにもお礼を伝えておいてください」
「ん、言っとくわ」
壱弥さんはこくりと小さく頷いた。
「ところで、壱弥さんがスーツ着てはるってことは、今から仕事に行くんですよね」
「あぁ、そうやよ」
彼は左手で左折を示すウインカーを点滅させると、そのまま滑らかなカーブに沿って走り、
あっさりと肯定されてしまった事実に少しだけ不安を覚え、再度質問を投げ掛ける。
「昨日、出掛けるんは仕事の後って言いませんでした?」
「まぁそれはそうや。でも、ナラって観光とか好きやろ?」
「……好きですけど」
彼の言葉の意味がよくわからない。
私がまた首を傾げると、壱弥さんは自信に満ちた表情で告げた。
「
「行きたい」
彼の言葉をきいて、頭で考えるより先に口が滑った。
「せやろ。仕事で行くのは隣町の
私はなるほどと相槌を打った。
京都市から天橋立のある
「でもさ、壱弥さんが仕事してる間、私どうしとったらいいんですか」
「それは大丈夫や。先方にはちゃんと『助手』を連れていくって伝えてあるから」
「助手ですか」
唐突に告げられた重役に私はたじろいだ。
本来彼の仕事を間近で見ることはとても貴重な経験なのかもしれない。ただ「助手」という肩書きがある以上、何も出来ないというわけにはいかないが、素人同然の私にで彼のサポート役が務まるとは思えなかった。
私の不安を察してか、壱弥さんは柔らかく笑った。
「心配しやんでも大丈夫やよ。難しいことは何もしやんでええし、俺の隣で証言や事実をメモしてくれたら一番助かる。一応今回の依頼内容について、現時点で分かる限りは伝えるわ」
壱弥さんの口調が想像以上に穏やかで、私の心を落ち着かせるようだった。
「じゃあ、それもメモしておいていいですか」
鞄から取り出した手帳を開くと、彼はそれを肯定した。
「依頼者の名前は
話は以下に続く。
今回捜索を依頼されたものは、先月に他界した彼の実母の遺品「ブルーサファイアの指輪」である。実物の写真はなく、彼も何度も目にしていたわけではないため、その記憶は曖昧な点が多い。しかしそれは実母がとても大切にしていたものであり、どうしても探し出したかったが、遺品整理を繰り返すも中々見付からない所以、一縷の望みをかけて壱弥さんへ依頼を持ち込んだのだった。
「まぁ、電話で聞いた話と身辺を調べてこんなもんか」
壱弥さんは話を終えると、一息つくようにドリンクホルダーのアイスコーヒーを口に運んだ。
一つずつ情報を落とさないように手帳に記載をしていく。そして簡単な
「状況は理解しました。因みにですけど、依頼者のお父様はご健在ですか?」
「いや、結構前に亡くなってはる」
壱弥さんは思い返すように少しだけ目を細め、言った。
「それじゃあ
追加で情報を書き込みながらそう告げると、壱弥さんは私に視線を向けふっと口元を緩めた。
「流石、法学部生やな。恐らく確認は済んでるやろうけど、姉が所持してる可能性の排除も行うつもりや。あんまり姉とは仲良くないみたいやで」
「そうなんですね、遺産相続で揉めてる可能性は無いんでしょうか」
「相続についての協議は済んでるそうやから」
「……それなら、ややこしくは無いですよね。宝石や貴金属も遺産になりますけど」
「恐らくは」
何となく自信がなさそうにも聞こえる彼の返答には疑念を抱かざるを得なかった。しかし今考えて解決できるものではないと思い、手帳の片隅に書き留めておいた。
壱弥さんは少し間を置いて口を開く。
「今回は捜索対象が『遺品』やから、もしかするとナラの知識を借りることになるかもしれへん」
彼は真っ直ぐ前を見据えながら、いつもの低い声でそう告げた。
高速道路を降りて進んでいくと、とても鮮やかな緑色の芝生が広がる場所を通り過ぎた。そこは役場の直ぐ近くにあるシーサイドパークという名の公園で、その場所からも天橋立が横一文字に眺望できるそうだ。車の中からでは公園の向こうにある阿蘇海をはっきり見ることは出来なかったが、遠くがキラキラと光っているのが分かった。きっとそれが海だったのだろう。
それからほんの僅かで、
事前に指示されていた場所に壱弥さんは車を停車させる。時刻は午前九時五十分過ぎで、約束の時間は午前十時だという。
「じゃあ、ゆっくりと行こか」
壱弥さんは右腕の時計で丁度十時になったことを確認し、来訪者用の呼び出しベルを押した。
『はい』
「
『お待ちしておりました。鍵を開けますので、そのまま門を閉めて真っ直ぐ入り口までお進みください』
向こう側から聞こえてくる声は、とても柔らかい男声だった。指示を受けた通りに門を過ぎ真っ直ぐに進んでいくと、今度は建物の入り口へと辿り着いた。硝子越しに人影が動き、扉がゆっくりと開いていく。
目の前に現れた人物は、シンプルな格好ではあったが、気品のある雰囲気を纏った男性だった。半袖のシャツに濃い灰色のネクタイをきっちりと締め、艶のあるシルバーのタイピンがそこにしっかりと留められている。背格好はとりわけ珍しくもない中肉中背で、細いメタルフレームの眼鏡が知的で誠実な印象を与えていた。
「おはようございます、遠くからご足労いただきありがとうございます。私が
彼は私たちの前で深く頭を下げた。
「おはようございます。どうぞよろしくお願いします」
呼応するように緩やかに告げると、壱弥さんは差し出された手を握った。にっこりと微笑む源さんの視線はゆっくりと移動し、私に注がれる。
「あなたが『社会勉強中の助手』さんかな? とても可愛らしい御嬢さんですね」
「えっ、はい。高槻ナラと言います。本日はよろしくお願い致します」
「こちらこそ、宜しくお願いしますね」
勢いで肯定してしまったが、何か余計なものが聞こえたような気がした。壱弥さんが隣でケラケラと笑っている様子を見ると、それが彼の仕業なのだと気付く。
「社会勉強中って……」
「春瀬さんがそう仰るんで、娘さんでも連れてきはるんかと思いました」
そう、源さんは破顔した。
「まだ社会勉強が必要な学生やってことには変わりませんし、お手柔らかにお願いします」
壱弥さんの最後の一言を聞くと、私が緊張しないように言葉を添えてくれていたのだと気付く。彼の言葉はただの無意味な嫌がらせなのではない。私の立場を考えた優しさ故なのかもしれない。そう感じた。
壱弥さんが流し目で私を見遣ると、源さんも穏やかに笑った。
やや古めかしい雰囲気のある手入れの行き届いた廊下を進むと、幾つかの襖が現れた。外観こそ武家屋敷のように仰々しさを秘めてはいたが、内装は思っていたよりも昔臭くはなく、よく見る大きな旧家のそれであった。
「此方へどうぞ」
廊下は夏の蒸し暑さに曝されたように温められていたが、襖を越えた客間は私たちが来ることを見越し、快適な温度に調整されていた。座敷へ座るように促されると、礼を告げてから敷かれていた座布団に腰を下ろす。ひんやりとした布座布団の感触が、田舎に帰ったようなどこか懐かしい感覚を呼び起こすようだった。
源さんは予め準備していたグラスを盆の上で返し、お茶を注いでいく。そして可愛らしい竹細工のコースターにグラスを乗せ、私たちの前にゆっく差し出した。
源さんが向かいの席に着くと、壱弥さんは鞄からファイルを取りだし、彼の目の前に差し出すよう右手で書類を一枚ずつ並べていった。
「早速ですが、依頼内容の確認と契約書類の説明をさせていただきます」
壱弥さんの説明は変わらず理解しやすいものだった。二人の間に交わされる会話はとても滑らかで、滞りなく進んでいく。
今回の以来内容はここへ来る前に壱弥さんが話した通りであった。亡くなった実母の遺品整理は既に完了しているため、近親者間での過去の贈答の有無、彼女の遺品がどこかに隠されていないか調査をするということだ。
「贈答に関してはまず無いとは思います。あの指輪は若い頃に父が母に贈ったもので、本当に大事にしておりましたので」
調査内容を聞いた源さんが告げる。
「それも一理あるとは思いますが、念のため調査はさせていただきます」
「そうですか……もし他人の手に渡っていたら、どうなりますか」
「その経緯にもよりますが、御母様の意思でそうなっていた場合は僕がどうこう出来る問題ではなくなりますね」
壱弥さんが顔色を変えずにきっぱりと言うと、源さんは少し悲し気な表情をみせた。
彼にとってその指輪はどれ程価値のあるものなのだろうか。「母が大切にしていた指輪」を形見として側に置いておきたい気持ちは分からなくはないが、見つからないその指輪である必要があるのだろうか。何か決定的な理由があるはずだと私は憶測した。
サインが記された契約書を受けとると、壱弥さんは自身の印鑑を押した。そして契約書をファイルへ仕舞うと、私に視線を送る。はっとして鞄から手帳と金魚柄のボールペンを取り出すと、壱弥さんは視線を正面に戻した。
「その指輪について詳しくお聞かせ頂きたいのですが」
「ええ、写真が無くてすみません。指輪はシルバーの流線型のリングに15㎜ほどのサファイアが装飾されたものです。やや紫がかった深い青色で、海みたいな色だと母が良く言っておりました」
「その指輪を御母様が大切にされていた理由は何かご存知ですか?」
「先程も言いましたが、あれは父が母に贈ったものです。父が原因で喧嘩をした時に、父が母に謝罪とともに渡したそうです。ブルーサファイアには『誠実』『慈愛』という意味があって、一途な愛を貫くというメッセージを持つと言います。それを贈ることで、父は母に『一途な愛』と『深い愛情』を込めて、永遠を誓ったそうです。母はそれを、父の愛情が詰まったものだと言って大切にしておりました」
源さんは記憶を慈しむように、穏やかな表情をしていた。その彼の様子と言葉から、先ほどの疑問は一気に打ち払われた。
ただ、去った両親の想いが詰まった指輪を取り戻したいという純粋な気持ちなのだろう。他のものではない、それだからこそ価値のあるものだということがよく伝わってくる。
情報として手帳に記載していると、彼は再び言葉を紡いでいく。
「もしも指輪が見つかったら、私はそれを妻に贈ります。もうすぐ結婚して25年目の記念日なんです。父と同じように、私も妻に永遠を誓いたい。この年で、おかしいかもしれませんけどね」
源さんは少し照れ臭そうな微笑みを浮かべていた。その彼の想いが余りにも純粋で、私は胸がドキドキする感覚を覚えていた。
「凄く、素敵だと思います」
私がそう言うと、彼は目を細めた。
「ありがとう、ナラちゃん。今日の午後に妻のところへ見舞いに行く予定なんですけど、仕事に差し支えがなければお二人も一緒に行きませんか。若い子の話は、きっと入院中の妻の刺激になると思うんです」
彼の言葉を聞いて、夢から覚めるように思い出す。そう言えば、始めに聞かされていたはずだった。数年前から病気療養中である七海子さんは現在も病院にいるということで、それを聞くと彼が指輪を贈りたいと思った気持ちが更に複雑なものであるような気がした。
私の意見では決められない為、隣の壱弥さんに視線を向けると彼はゆっくりと口を開く。
「奥様がよければ是非。僕たちもお話したいと思っておりましたので」
先ほどまで話を聞きながら真顔で考え込んでいた壱弥さんが、一変して爽やかな声で返答した。いくらかの会話を交わしながら、とても愛嬌のある顔で笑う。
おそらく源さんの目には彼が好青年として映っているだろう。しかしその不自然な爽やかさと、凪いだ琥珀色の瞳が、私にとっては何処か気味の悪いもののように感じられた。
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