第二章『わだつみと白砂の城』
第9話 宵山と夢幻
私には夢が二つある。
一つ目は、祖父のような優しくも強かな心を持った弁護士になること。
そして二つ目は、大好きな人と
優しい旦那さんと手を繋いで宵山を歩く。それが私の理想を詰め込んだ大きな夢なのだ。
京都三大祭の一つである
八坂神社は京都市東山区祇園北側に位置しており、
きっと夜が更ける頃には、祭囃子の賑やかな音や彩りのある騒ぎ声が窓の外から聞こえてくるのだろう。そんな夜を想像するだけで心が踊るようだった。
わだつみと
肌をじりじりと焼き付けるような夏の日差しが、自転車のベルに跳ね返り眩しく瞳に映り込んだ。
土曜日、宵山の午後。私は
真夏日を記録しているにも拘わらず、その男性は長袖のシャツに爽やかな青色のネクタイを締め、黒いパンツをすらりと履きこなし、壱弥さんの車を丁寧に磨き上げていた。シルエットこそ壱弥さんとそっくりではあったが、短い茶髪と緑色の瞳が別人である事を示している。
彼は壱弥さんの実の兄である。
「
動かす度にキラキラと光る腕時計に目を細めながら、私は貴壱さんに声をかけた。すると彼は私に気付き、鋭い視線のまま振り返った。
「ナラちゃん、久しぶりやね」
「何してはるんですか?」
「あぁ、壱弥の車綺麗にしとってん」
「これ手入れしてたん貴壱さんやったんですね」
部屋の掃除もろくにできない壱弥さんに、手間のかかる車の手入れが出来るとは思えない。そう、以前から感じていた疑問が一瞬で解決した。
「ナラちゃんこそどうしたん?」
「今から壱弥さんの部屋の掃除にいくんです。貴壱さんも休憩どうですか。
「いつもありがとうなぁ、喜んでご馳走になるわ」
貴壱さんをお茶に誘うと、彼は手を止めて快諾した。
言葉からすると喜んではいるのだろう。しかし貴壱さんは相変わらずの無表情で、本当に嬉しいのだろうかと少し不安になる。しかしそんな事はお構い無しに彼は手早く周囲の物を片付け、此方へと向かってくる。
特に貴壱さんは日本人離れした色素の薄さから、透き通る冷水のような美しさを纏っていた。
「何かあった?」
貴壱さんはぼんやりとしていた私に問いかける。
「いえ、何もありません」
私は彼の容姿に見惚れていた事実を笑って誤魔化し、赤い自転車を押して歩き始めた。
壱弥さんの事務所は平安神宮から伸びる神宮道を南へ下がり、ほんの少し脇へ入った小路にひっそりと佇んでいる。昼は賑やかな通りを巡る観光客の声が小さく届き、夜は神宮の神聖な空気を受けて奇妙な色を纏う。
幼い頃から祖父の事務所として馴れ親しんだ私でさえも、その不思議な空気感は少しだけ畏怖の念を抱くものがあった。
そんな事務所へと向かう途中、
「そういえば今日は宵山ですね。貴壱さんはお祭りは好きですか?」
貴壱さんは隣を歩く私に視線を流す。
「人混みは得意とちゃうけど、宵山の限定グルメはええよな」
「分かります。私は水あずきが飲みたいです。あとベーコンエッグ鯛焼きもいいですね」
「あぁ、ええなぁ。俺、今日はオンコールやから行けへんけど、壱弥でも誘ってみ。どうせ暇してるやろうし」
貴壱さんは表情を崩さないまま、冗談混じりの柔らかい口調で告げた。
彼は大学病院で働く消化器内科医で、オンコールとは緊急や急変の患者がいた場合に電話を受けて対応する医師のことを言うそうだ。つまり、電話があれば直ちに病院へ赴かなければならず、余り自由に出掛けることはできないのだろう。
「壱弥さん、行ってくれるかなぁ」
出不精である壱弥さんにとってみれば、宵山に出向くなど火に入るようなものだった。
そう溢すと、貴壱さんは僅かに微笑んだ。
「ナラちゃんとなら行くやろ」
その声は私を撫で、鮮やかな空に抜けていった。
相変わらず無防備に鍵の開いた事務所の入り口を潜ると、汗ばんだ肌を刺激する涼しい空気がさらりと流れ出した。
炎天下に晒されていたはずの貴壱さんは、汗の一つもかかずクールな顔で凛と背筋を伸ばしている。壱弥さんは私達の訪問に気付いていないのか、こちらを見ようともせずに虚ろな目でデスクに向かっていた。
「壱弥、ナラちゃん来てくれたで」
貴壱さんの声に、漸く彼はパソコンのキーを打つ手を止め、顔を上げる。
「いつの間におったん」
「さっき来たばっかや」
壱弥さんは眉間に皺を寄せた。
休日ゆえか、白のTシャツにグレーのチェックパンツという軽装で、癖のないさらりとした黒髪はいつものようには整えられておらず、少しだけ幼い印象を受ける。
疲弊した表情と大きく伸びをする仕草をみると、長時間机に向かっていた事がよく分かった。
「疲れてますね」
「んー、昨日の仕事が終わらんくて殆ど寝てへんからなぁ」
「そしたらちょっと休憩にしましょう」
彼に見えるように清洛堂の紙袋を頭の近くまで持ち上げて見せる。すると壱弥さんは柔らかく表情を綻ばせた。
彼の部屋に入った瞬間、透き通る優しい香りが全身を包み込んだ。嫌みのない白百合を連想させるこの香りは、壱弥さんの纏う香りと同じ。これが香水によるものなのかはよく分からないが、幼い頃に感じていた古書の埃っぽい臭いは一切感じられない事だけは確かだった。
白い壁や暖かいオークのフローリングは変わらない。それなのに過去と現在が切り離されたような奇妙な感覚に陥ることがしばしばあった。
「ナラ」
壱弥さんが私を現実に引き戻すように呼名した。促されるがままにソファーへと座り、紙袋から和菓子を取り出して広げていく。
とりどりの和菓子に、壱弥さんは嬉しそうに瞳を輝かせた。清洛堂の看板商品でもある豆大福と、きな粉がたっぷりとかかったわらび餅、甘い餡を挟んだどら焼き、夏らしく煌めく琥珀糖。どれも、目移りしてしまう程の魅力を秘めている。
二人は示し合わせたように豆大福に手を伸ばした。
「そういえば壱弥さん、仕事はいつ頃終わりそうですか?」
「あと一時間くらいで報告書はできそうや。そしたら明日の依頼の準備をして終わり」
「じゃあ、夕方くらい?」
「せやな」
壱弥さんは遠い目をしながら終わらない仕事について思いを巡らせる。
「じゃあ、もし嫌やなかったら、仕事の後一緒に宵山に行きませんか?」
私が緊張を隠しながら告げると、彼は目をぱちくりとさせた。
「は? デート?」
「何でそうなるん」
冗談なのか本気なのかわからない返しに、反射的に突っ込みを入れる。すると、壱弥さんは豆大福をかじりながら怪訝な顔をした。
「宵山グルメが食べたいんですけど、私一人やと心許ないから、壱弥さんみたいなおっきい人が付いてきてくれたら心強いなって」
「なんやそういうことか。何でわざわざ地獄みたいな人混みに行くんやと思った」
壱弥さんは含んだ大福を飲み込むと、納得した様子で言った。
「ナラちゃん一人ではあの人混みに行かせられへんやろ?」
そう、貴壱さんはフォローをするように言葉を添えてくれる。
宵山の人混みは想像を越えるもので、一人で飛び込むことに少なからず不安を抱いていたのは確かであった。しかし、そうやって改めて庇護的な言葉を堂々と紡がれると、何となく恥ずかしい気持ちになってしまう。
貴壱さんの言葉を聞いた壱弥さんは、目を閉じてうんと考え込んだ。無理強いはしないことを伝えようと口を開いた瞬間、彼の目がぱっと開かれる。
「わかった、一緒に行ったろ」
「ほんまに?」
私が念を押すように問うと、珍しく優しい目で笑った。
しかし、その期待はあっさりと裏切られることになった。
本来の目的である部屋の掃除を終えた頃、気が付くと壱弥さんはソファーに埋もれながら静かに寝息を立てていた。掃除の手伝いをしてくれていた貴壱さんは、彼のその姿を見るなり鬼のような形相で壱弥さんを叩き起こそうと手を伸ばす。
私はそれを制止した。
「宵山行けへんくなるけど、ええん?」
「はい、壱弥さん疲れてはったし、宵山なんてまた来年もあるんで」
壱弥さんの状況を考えると仕方のないことだった。私の我が儘よりも、彼の体の方が大事に決まっている。
私がそう告げると、貴壱さんは私の頭に手を乗せた。
「優しい子やな」
陽が落ちる時刻になると祭の灯りが遠くの空を染め、仄かな橙色がとても鮮やかに見えた。歩行者天国になっているであろう
貴壱さんは病院から呼び出しの電話を受け、少し前にこの事務所を発った。おおよそ予想はしていたのだろう。慌てる様子はみられず、緊急の連絡にもそのクールな表情を崩すことはなかったが、別れ際に私に向かって慈しむような顔を見せ、小さく「ごめんな」と呟いた。今思えば、それは彼の中にある自然な優しさの表れだったのだろう。
貴壱さんが去ってから三十分程が経った頃、壱弥さんは眠そうな声を漏らしながらうっすらと目を開く。その直後、彼は悪夢から目覚めたように唐突に上体を起こした。
「今何時?!」
「夜の七時過ぎです。おはようございます」
「おはよう。って、え、しちじ?」
寝起きの頭では処理をするのに時間がかかるのか、彼は片言で私の言葉を復唱する。そして左手で目を擦り、改めて周囲を見渡した。
「やってしもた、ごめん……」
その台詞と共に、彼の表情が曇っていくのが分かる。今から仕事に取りかかっても、きっと終わる頃には深夜になるだろう。
「全然大したことじゃないですし、気にせんとってください」
私が笑いながらそう言っても、彼は苦い表情をしたままだった。
僅かながらにも彼も祭りを楽しみにしていたのだろうか。壱弥さんは暫く自己嫌悪に陥ったように考え込んでいたが、唐突に何か思い立った様子で私を見遣った。
「ナラ、明日暇か?」
「はい、特に何も予定はないですけど」
「そしたら明日空けといて。仕事の後になるけど、ええとこ連れてったる」
壱弥さんは先程までの暗い表情とは一変し、にやりと笑った。それは彼がよく見せる企むような顔つきで、それを易々と受け入れてもよいものなのかと躊躇ってしまう。
しかし、さらりと揺れる黒髪の隙間から覗く琥珀色の瞳がとても真っ直ぐで、どうしてか先程まで抱いていた不安感は綺麗に消え失せた。
「わかりました」
私が頷くと、壱弥さんは嬉しそうに微笑んだ。そしてどこか安堵の表情を浮かべたあと、再び口を開く。
「そういえば兄貴は?」
「病院から電話が来たんで、帰らはりましたよ」
「緊急? やっぱり医者って大変やな~」
言葉では労るようには見せていたが、その事実を鼻で笑い、「ざまあ」と小声で呟いた。驚いて彼の顔を見ると、あっけからんとした表情で目を逸らす。
「今なんか聞こえた気が」
「気のせいや」
「……二人って仲良いんか悪いんかどっちなん?」
「まぁ、五分五分くらいちゃう」
私が問うと、壱弥さんはグラスにお茶を注ぎながらあまり興味がない様子で曖昧に言った。
「三つしか離れてへんからなぁ。年が近いと馴れ合いも喧嘩もするわな」
「兄弟ってそういうもんなんですかね。私は一人っ子なんで、ちょっと羨ましいです」
世間ではやはり歳を重ねると付き合いが希薄になっていく兄弟が多いのではないだろうか。しかし二人の姿を見ていると、冷めた現代社会を感じさせないような堅い信頼関係が根底にあるような気がした。そのせいか、壱弥さんも兄の言葉には少しだけ素直になるところもあるのだろう。
「私、貴壱さんみたいなお兄ちゃんが欲しいなぁ」
貴壱さんの優しさを思い出すと、自然とそうこぼしていた。
「……別にお兄ちゃんって呼んでもええと思うよ。もう家族みたいやもんやし」
壱弥さんは目線を合わせず、どこか照れ臭そうに呟いた。
「そしたら壱弥さんも私のお兄ちゃんですね」
「まぁ、俺はナラを妹にしたいとは思わんけど」
「なんなんそれ」
彼はいつもの如く私をからかうように笑っていたが、その声はどこか貴壱さんと良く似ていて、撫でるように優しい滑らかな音だった。
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