第8話 葵花咲く


 暑苦しい程の青天井の下で、青草の臭いが風に乗って吹き抜けていった。爽やかな薫風を受けてあおいの水色のスカートが翻ると、彼女はいつも通りの笑顔で振り返った。

 注ぎ込む太陽が、彼女の輪郭を柔らかい色に染め上げる。その眩しさから目を細めると、葵は明るい声で私の名前を呼んだ。



 講義を終えた学生達が各々にスクラッチタイル張りの校舎の陰を抜けていく。

 時計台記念館の中にあるカフェに辿り着くと、明るい窓際の席に着く壱弥いちやさんの姿があった。彼は雑誌のページを捲りながら退屈そうに大きく欠伸をする。

「壱弥さん、お待たせ」

 声をかけると、壱弥さんはゆっくりと顔を上げた。

「思ったより早かったなぁ」

「めっちゃ急いで出てきましたよ~」

 葵がゆるりと告げると、壱弥さんは和やかに表情を綻ばせた。

 彼の好意でご馳走になった飲み物を机まで運ぶと、私たちは席に着いた。

 氷の浮かぶアイスティーにミルクを注ぐ。隣にいる葵は幸せそうな顔でマンゴー味のフローズンドリンクにストローを挿した。

 壱弥さんは何も言わないまま、変わらず眠そうな顔でアイスコーヒーを口にする。緩やかに流れていく時間に痺れを切らしたのか、先に口を開いたのは葵だった。

「今日は調査の報告でいいんですよね?」

 壱弥さんは小さく頷いたあと、漸く言葉を紡ぎ始めた。

「そうやよ。調査は全部終わったから、その報告と最終仕上げってとこやろか」

「それじゃあ二葉ふたばの居場所、わかったんですね」

「あぁ。でも、彼女の居場所は君も始めから知ってるやろ?」

 予想外の言葉に葵は驚いた顔を見せたが、すぐに穏やかな表情に戻る。そして、当然のように微笑んだ。

「やっぱり、嘘ってわかりましたか」

 静かな空間に響く彼女の声は別人のように凪いでいた。黒い目はぶれることなく真っ直ぐに壱弥さんの姿を捉えている。

「というか気付かれること解ってて嘘吐いたんやろ」

「そうですね」

 笑顔で発せられた彼女の台詞は耳を疑うものだった。

 葵は始めから壱弥さんにばれる事を知りながら嘘を並べ、壱弥さんは葵がばれる事を前提に嘘を吐いたと理解している。そして当然のように交わされる会話を聞くと、私が気付かないところで、二人は互いを探り合っていたのかもしれないと思った。そうであれば、葵の嘘に気付いた時、壱弥さんが楽しそうに笑っていた理由が分かったような気がした。

「ちなみにどこで分かったんですか?」

「あぁ、土曜日に葵ちゃんと別れたあとやよ。花田さんの実家を調べて誰も住んでないって分かった時、そこで初めておかしいと思った」

「……流石ですね。思ってたより早かったです」

 壱弥さんはにやりと笑う。

「疑ってしまったからには裏を取る必要があるやろ。それで、悪いけど日曜日に葵ちゃんの行動を監視させて貰ったんやわ」

「えっ」

「俺やなくて、ナラが」

 その瞬間、葵は隣にいる私の顔を見る。

 本当に私の尾行に気付いていなかったのだろう。彼女は愕然とした表情でアイスティーを啜る私を見つめていた。

「もしかしてそれで二葉の居場所を割り出したってことですか……」

「聞き込み調査より一番手っ取り早いでな」

「あたしを利用したんですか」

「君も俺のこと利用したやろ」

 壱弥さんは淡白な声で葵を牽制すると、彼女は口をつぐむ。狼のように光る壱弥さんの冷たい琥珀色の瞳が、葵の身体を串刺しにしてその場に貼り付けているようだった。葵は眉を下げる。

「嘘の依頼したんやから、やっぱり怒ってますよね……」

「怒ってへん」

 消えてしまいそうな声で葵が呟くと、壱弥さんは足を組んだまま低い声で否定した。

「寧ろ嘘吐く必要があったんやと思ってる。始めから先の見通せへん曖昧な依頼持ってこられても、俺は受けようとは思わんし」

 それを聞いて、葵は無意味に嘘を吐いたわけではないのだと漸く理解した。

 花田さんの居場所を知っていたにも拘わらず、葵が彼女に会いに行かなかったのは、姿を消した理由が分からなかった故なのだと思った。もし自分が彼女に会いに行ってしまったのなら、彼女の気持ちを知らないまま自分勝手に行動したのなら、今度は本当に自分の前から姿を消してしまう、そんな気がしたのだろう。

 だから、葵は遠くから彼女の姿を眺めていた。まだ自分の近くに居るということを確認するために。

「君の本当の望みは分かってる。彼女と元の関係に戻りたいだけやろ? 心配せんでも、俺がちゃんと平穏な大学生活を取り戻したるから」

 それが、葵の本当の望みだった。

 壱弥さんは撫でるような穏やかな表情で告げる。

 先程までの落ち着いた態度とは変わって、葵は壱弥さんの顔を見つめながら泣きそうな表情で頷いた。

「もうすぐ花田さんがここに来るはずや。姿を消した理由は、彼女の口から直接聞くんやよ」

「……ありがとうございます、春瀬さん」

 葵は涙を堪えながら、震える声を落ち着かせるように呟いた。



 時計台記念館の入り口が開き、黄色い花柄のフレアワンピースを着た花田さんが控えめに歩いてくる姿が見えた。白い鞄を肩に提げた彼女は、不安気な表情を浮かべながら静かにこちらに向かってくる。

 私の目線の先を確認した葵は花田さんの姿に気付き、緊張を圧し殺すように水色のスカートをぎゅっと握りしめた。

「花田さん、来てくれてありがとう」

「ううん、高槻さんこそありがとう。ごめんね」

 私に向かってそう告げると、彼女の表情が少しだけ和らいだような気がした。

「そしたら、私と壱弥さんは外で待ってるから」

「うん」

 空のグラスを持って席を離れると、花田さんは空いた正面の椅子をゆっくりと引き、腰を下ろした。さらりと結い上げられた髪が揺れる。

 グラスを返却口に戻したあと、横目で彼女たちの姿を見ると、二人はぎこちない表情で笑っていた。

 扉を潜って外に出ると、壱弥さんの白いシャツが日差しを反射させ、眩しく光っているように見えた。遠くの花壇には、桃色の花が風に吹かれながら鮮やかに咲いている。

 壱弥さんは木陰のベンチに腰をかけ、脱力するように背凭れに身を預けて大きく空を仰いだ。私も彼を真似てベンチに座り天井を見上げる。

 その先には鮮やかな夏空が広がっていた。視界いっぱいの溢れだすような水色と、どこかへ向かって飛んでいく飛行機が、映画の一場面のように見える。そしてその景色は切り取られ、全身を包み込むような絶景に変わり、風の音を立体的に届けてくれる。見つめているだけで、そんな感覚に陥れた。

「ここ来るの何年ぶりやろなぁ」

 無気力にだらけていた壱弥さんが空を見上げたまま徐に呟いた。

「何年って、卒業したんはもう十年くらい前とちゃうんですか?」

「失敬やな。まだそこまではいってへん」

「あれ、壱弥さんって何歳やっけ? おっさん臭いからよく分からんくなります」

 私がわざとらしく笑いながら言うと、彼は半目で眉間に皺を寄せ私を睨んだ。

「そういえば壱弥さんは何学部の出身なんですか?」

「それは秘密や」

「えぇ、そこ隠す必要ある?」

 彼はいつもの如くにんまりと口角を上げる。

「でも、探偵って何学部出たらなれるん? まさか探偵養成の秘密機関とか」

「あほか」

「じゃあ経済?」

「さぁ、どうやろな」

 意地悪に笑う壱弥さんはどこか子供のように見える。大した結論も見つからず、問い質す事を諦めると彼は傍らに置いていた雑誌を退屈そうに広げた。

 どれ程の時間が経ったのだろうか。参考書に視線を落としていた私は、立ち上がった壱弥さんの影に、顔を上げた。彼の横顔を追視する。

 砂利を踏むような足音が止むと、視線の先には二人の姿があった。

 花田さんはいつもの落ち着いた雰囲気を纏ったまま凛と背筋を伸ばし、確かな足取りでそこに立つ。対称的に葵は濡れた子犬のように小さくなって、時々零れ落ちる涙を手の甲で拭っていた。

 きつと花田さんが既に大学を辞めていた事実を知ったのだろう。私は立ち上がり、葵を抱き締めながら背中を撫でた。

「ちゃんと話できたか」

 壱弥さんが保護者のような台詞を花田さんに投げ掛けると、彼女は壱弥さんに向かって深く一礼をした。

「本当にありがとうございました。これで心残りなく大学を辞める事が出来ます」

 彼女の目はとても澄んでいた。もう迷うことなど何も無いと言わんばかりに、まっすぐに壱弥さんを見上げている。

 しかし、壱弥さんは彼女の言葉を否定するように小さく首を横に振り、不敵な笑みを浮かべた。

「それが、君に関する俺の仕事はまだ終わってないねん。もう一つ聞いてほしい話があるんやけど、ええかな」

 花田さんは訝しい表情でゆっくりと頷く。

「実はもう一人、君に会いたいっていう人がいるんや」

「……え?」

檀弓まゆみいつきという名に聞き覚えは?」

 花田さんはその名を聞いてはっとした。そして懐古するように表情を和らげる。

いつきは、私の実の兄です……」

 壱弥さんの話は続いていく。

 日曜日の夜、檀弓さんから事務所へと連絡が入り壱弥さんは新大阪駅で彼と会う約束をした。そこで彼もまた花田さんの居場所を探していた事実を知る。壱弥さんが彼に花田さんの居場所を知っている事を告げると、彼はどうしても花田さんに会いたいのだと言った。

 何故、檀弓さんは壱弥さんの連絡先を知っていたのだろうか。そう思ったが、答えは単純なものだった。

 檀弓さんは唯一の手がかりであった花田さんの下宿先の大家さんへ電話で連絡をしたそうだ。勿論彼女の居場所は解らなかったが、代わりに同じように彼女を探している壱弥さんの存在を聞き、連絡先を教えて貰ったのだ。もし壱弥さんが大家さんへ名刺を渡していなければ、彼と巡り会うことはなかったのだろう。そう思うと、少しだけ運命的なものを感じるような気がした。

 しかし、花田さんの表情は暗く沈み、重苦しく口を開く。

「……兄とは幼い頃から疎遠なんです。両親が離婚した時、兄は父の会社を継ぐ跡取りとして引き取られて、父が母との縁を完全に切ったんでそれ以来関わりはありません」

「それは檀弓さんからちゃんと聞いてる」

「それなら何で今になって私を探したんですか。私には全く理解できません……」

 彼女は視線を落とし、小さく首を振った。

「彼は君が大学を卒業できるように支援をしたいって言ってるんや」

「何でそんな話今更……! もう退学届け出してるん、春瀬さんだって知ってるやないですか……! なのに何で」

 話を聞いた花田さんは悲しい顔で壱弥さんに向かって鋭い言葉を投げつけた。やり場のない気持ちをぶつけるように、敵意を込めた目を壱弥さんへ向ける。

 しかし、壱弥さんは落ち着いた態度で彼女の言葉を受け止めた。

「君のその反応は正しいと思う。でも、俺が無意味なことを言うわけないやろ」

 重く低く響く壱弥さんの言葉は、それが冗談ではないと悟らせる。その意味は直ぐには理解できなかったが、彼の真剣な表情を見ていると、カフェで葵に言った言葉を思い出した。

 彼は間違いなく、「平穏な大学生活を取り戻す」と言ったのだ。それは決して嘘ではないはずだ。

 涙を流していたはずの葵も、壱弥さんの言葉に顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「君が二週間前に退学届けを提出したのは間違いないことや。でもそれが確実に受理されたっていう確信はあるか?」

 その瞬間、鳥肌が立った。

 つまりそう言うことなのだろう。けれど、余りにも出来すぎた話に信じられないという気持ちが勝る。

「……でも、不備があったら連絡が来るはずやし」

「その連絡先は何処や?」

「叔母の家……です」

 花田さんは両手で口元を覆った。

「大学からの連絡は君の叔母さんの家にあったんや。その時に君の退学意思と理由を知った叔母さんは、直ぐにその退学届けを破棄した。だから君の籍はまだ残ってる。それが事実や」

「嘘や……」

「嘘やない」

 大きな瞳から溢れる涙が、日差しを受けてキラキラと輝きながら地面に吸い込まれていく。

「やって、叔母さんは私のこときっと嫌いやったはずやし、疎ましく思ってたのに……」

「疎ましいなんて思ってへんかった筈や。君の事をちゃんと心配してたんやろ。君を助けるために檀弓さんに連絡をしてくれたんやから」

 優しい事実に、花田さんは目を閉じて涙を拭う。そして目を開くと、壱弥さんに向かって頭を下げた。

「変な八つ当たりしてすみませんでした。……兄に会わせて下さい。ちゃんと話して助けてもらえるように自分からお願いします」

「あぁ、よう言ったな」

 花田さんの強い意思を表す言葉を聞いて、壱弥さんは優しい表情で彼女の頭を撫でた。

 零れ落ちる涙を拭いながら、花田さんは戸惑う葵に笑いかける。途端、葵は笑顔で彼女に抱きついた。

「二葉!」 

「心配かけてごめんな」

「ううん、ほんまに良かった」

 夏はまだ始まったばかりだというのに、初夏の鮮やかな花のように笑う彼女達の姿が、真夏の太陽と同じくらい眩しく見えた。



 花田さんを見送ったあと、葵は私に言った。

 今まで花田さんは自分が片親であることを卑下し、整った環境で育った私達に劣等感を感じていたのだと。葵とは親友だった。しかし、どれだけ仲のよい友達であってもどこか別世界の人であるような感覚が拭いきれなかったそうだ。

 それでも、自分の為に涙を流す葵の姿を見た彼女は、それが自分が勝手に作っていた壁なのだと気付いた。だからこそ、彼女は差しのべられた手を取って立ち上がることが出来たのだ。

 あの日、下鴨のカフェで秋帆あきほさんが言った言葉を思い出す。

「それが、彼女の虚しさやったってことか」

 壱弥さんが確認をするように告げると、葵はくるりとスカートを翻しながら、私達に背を向け西の空を見上げた。

「でもそんなんとっくにどっか行ってしもた。全部探偵さんのお陰ですね。ほんまに、ありがとうございました」

 斜陽が、彼女の笑顔を優しい色に染めていく。

 振り向いた葵は私達に向かって大きく手を振り、別れを告げると軽快に歩き始めた。


 鮮やかに笑う彼女の姿を見ていると思い出す。

「そういえば、葵の花って太陽に向かって咲くから『仰ぐ日』で『あふひ』って言われるんやって」

 私の言葉に、壱弥さんは私を一瞥した。

「そしたら、葵ちゃんの名前の由来も似通ったところがあるんかもしれんな」

「そうかもしれませんね」

 そう考えると彼女はいつも明るい未来を見つめながら生きているような気がした。そしてこれからもきっと太陽のように未来を明るく照らしながら生きていくのだろう。

 初夏に輝く桃色の花は沢山咲いていた。

「壱弥さんはこんな歌知ってる?」


 梨棗なしなつめ きみあはつぎ くずの のちはむと あふひ花咲く


 私が諳じた和歌に、壱弥さんは怪訝な顔をした。

「なんそれ?」

「万葉集の中の一首です。これは『あなたにまた逢いたい』『あなたに逢える日は花が咲くように嬉しい』っていう意味の歌なんです」

「それって、恋の歌か」

「そう、恋の歌です。葵が『逢う日』と掛けられるから良縁に繋がるって信じられてたんです」

 私の言葉に、壱弥さんは穏やかに目を細めていた。

「良縁って、恋のことだけやないですよね。一生大切に出来る友達も、良縁のひとつやないんでしょうか」

「葵花咲く……か」

 繰り返すように彼が呟いた葵の歌が、全身を取り巻き流れていく。それは、彼女たちの姿を映すかのように。

 せる初夏の陽光の下で、葵の花は鮮やかに咲いている。光り輝く太陽を仰ぎながら。





――第一章『初夏に輝く花』終

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