第13話 秘密の手紙


 壱弥さんは天井まで続く本棚に並ぶ背表紙を、端から端へと順に目で追っていく。彼が言った有名な詩人の本の中に、指輪に辿り着く手がかりが隠されているのかもしれないと考えた所以である。しかし、中々見つからないのだろう。壱弥さんは大きく溜め息を吐いた。

「何でこうも英文学ばっかやねん。捜しにくいわ」

「英語ばっかみとったら疲れるもんな」

 目的のものが見つかったとは言えど、膨大な量の本の中からたった一つを見つけ出すのはかなり手間がかかる作業であった。しかも並ぶ文字が英語となれば、認識も遅くなってしまうだろう。本は著者別に並べられているようではあったが、その並びはアルファベット順でもなければ、五十音順でもない。それなら、どんな順番に並んでいるのだろうか。壱弥さんは一歩下がり、今一度大きく聳える本棚を見上げていく。そして数十秒。ゆっくりと視線を落とすと、口元に手を当ててゆっくり考え込んだ。

「本棚は全部で十四段か……」

 何を考えているのだろうか。序列の規則性を考えるよりも、一通り見て探す方が手っ取り早いのではと私は思う。彼の足元で本棚をじっくりと眺めていると、壱弥さんが独り言のように何かを呟き始めた。

「イギリス文学……ウィリアム・ワーズワース……十四……」

 そこで、彼は何かに気付く。

 一番下の右端の本を手に取った。何ら変わったところのない、古い表紙の本だ。しかし彼はにやりと笑う。

「トマス・ド・クインシー」

「誰ですか、それは」

「イギリスの評論家や。ワーズワースと交友があったとも言われてる」

 交友関係があった、ということは著者の交友関係や出身に関連して並べられているということも考えられるのだろうか。

「じゃあ、もしかしてこの近くに『オード』っていう本もあるんですか」

「何でそうなる」

「やって、その人と友達やねんろ?」

 私が壱弥さんの手にしている本を示すと、彼はそれは序列には関係ないと否定した。どうしてそう簡単に否定できるのだと不服に思ったが、彼に確かな推理があるという証拠なのだろう。

 続いて、下から二番目の右端の本を手に取る。

「ジョン・ゴールズワージーの『林檎の樹』やな」

「あ、ノーベル賞の人やんな」

 壱弥さんはにっこりと表情を綻ばせた。

「比較的近代の英文学やでな。日本の文学作家にも影響を与えたような有名な人や」

「それで、その二人に何の関係があるんですか?」

 私がそう問うと、彼は二人の名前を滑らかに復唱する。

「例えばこの本棚の一列を、一つの文やと見立てたとき、文章が十四行あることになる。そうしたら、一番右端は文末になるやろ。その文末にくる単語として著者の名前を置いていく。……何か思い浮かばんか?」

 本の話なのだから、恐らくそれに関するものなのだろうということは分かる。例えば十四行で構成された文章とはなんだろう。イギリス文学の中でも広く知られたものといえば――。

「ソネット?」

「そう、ソネットや」

 私の言葉を、壱弥さんは直ぐに肯定した。

「ワーズワースはソネットを一番多く書いた詩人やって言われてるんや」

 ソネットとは、ヨーロッパで流行した十四行から成る定型詩である。イタリアで創始されたのもであるが、英詩としても人気があり、イギリス風ソネットと呼ばれる形式さえある程だ。イギリス風では、詩人が女性に向けた愛情を綴る事が多く、決められた押韻構成がそれをより一層美しく見せるものだった。

「因みにイギリス風ソネットには、『A-B-A-B-A-C-D-C-E-D-E-F-E-F』の押韻構成があるんや。それに当てるなら、下二つは『E』と『F』になるはずやけど、『Quinceyクインシー』と『Galsworthyゴールズワージー』はたぶん『G』や。そうやとしたら、これはイギリス風ソネットの中でも、シェイクスピア風ソネットやと思う」

 訊くと、シェイクスピア風ソネットの押韻構成は『A-B-A-B C-D-C-D E-F-E-F G-G』なのだという。シェイクスピアのソネット集はとても有名な作品だ。三つの四行連と一つの二行連で構成され、文節のアクセントも規則的で流れるように美しいものだ。恐らく、英文学好きでシェイクスピアのソネット集を知らないものは居ないだろう。

「……それなら、『Wordsworthワーズワース』は何になるんですか?」

「そうやな、音が一番似てるんは『C』やろな。ってことは、上から五段目か七段目や」

 そう言うと、彼は手が届かない程の高さにある本を見上げていく。しかし、余りにも高い位置にある為か、結局備え付けの梯子を使わなければならいようだった。壱弥さんはじっくりと梯子を睨みつけたあと、パラパラと『林檎の樹』を読んでいた私の頭を叩きながら声を掛けた。

「ちょっと今左手痛めてるから、高いところ登るんあかんのやわ。可哀想やと思って、代わりに上から五段目ぐらい見てきてや」

 彼はにんまりと笑っている。いつ、どこで、どのように左手を痛めたと言うのだ。捲られた袖から見える彼の左手を見てみても、骨ばった手が覗いているだけで、怪我をしている様子は伺えない。きっと梯子を登るのが嫌な故の言い訳なのだろうとは思ったが、小さくて長い梯子を見る限り彼が嫌がる理由もわからなくはない。きっと体の大きい壱弥さんよりも、私が登った方がはるかに安全だろう。むう、と考え込むふりはしたが、その胡散臭い言い訳を飲み込むことにした。

 入口の扉と同じ藍色の梯子をゆっくりと登っていくと、天井がどんどんと近づいてくる感覚に少し心を躍らせていた。梯子は本棚にしっかりと固定されており、簡単には外れない仕組みになっている。

「えっと、いち、に、さん、し、ご、ここやね」

 きっちりと間違えのないように数え、五番目の一番右の本を手に取った。

 タイトルはよくわからないが、間違いなく英語で『ウィリアム・ワーズワース』と記されている。彼の推理通りソネットの押韻構成を真似て、著者の名前が美しい順序で並べられていた。それを考えるとき、きっと彼女はワクワクしていただろう。その遊び心が、彼女がどれだけ英文学を愛していたのかを表しているように感じられた。

「はい、壱弥さん」

 手に取った本を、バランスを崩さないように気を配りながら壱弥さんに差し出すと、それを受け取った彼は直ぐにパラパラとページを捲り、中の確認を行っていく。しかし、望んでいたものとは違っていたのか、彼はその本を私に突き返した。

「これやない、『オード』が収録されてるやつや」

「そんなん言われてもわからんもん」

「じゃあ全部取れ」

 その言いぐさに、やっぱり登るんじゃなかったと後悔しても後の祭りだった。仕方なく並んでいる本を一つずつ彼に手渡していく。数冊の本を渡し終えると、私はゆっくりと梯子を降りた。

 彼は順番にページを捲っている。恐ろしいことに、その全てが日本語訳のない原文ではあるが、それを簡単に取捨選択していると思うと、それもまた不気味な事実だった。

 壱弥さんは手を止めた。

「あった」

 彼の開いていたページには、探していた『Odeオード』の文字があった。

 しかし、壱弥さんは本文を読み進めるのではなく、本をぱたりと閉じてしまう。そしてそれを裏に向け、背表紙を開く。

「あっ」

 開かれた背表紙を見て、私は思わず声を上げた。よく見ると、背表紙の内側に楕円形の筋と小さな窪みがある。そこに親指の爪を立て、壱弥さんはぴったりと嵌る蓋を少し強引に取り除いた。

 厚い背表紙に作られていたのは、ほんのわずかな空間であった。楕円形にくり貫かれた背表紙に、同じ形の木の蓋が嵌められている。その蓋を外した時、中に隠されていたのは5cm程度の小さな鍵だった。

 動かないようにテープで固定された鍵を取り出して、壱弥さんは何度も裏表に返し、確認する。少し古びた黒色の鍵には美しい螺鈿らでんが細工されている。壱弥さんがそれを返す度に、淡く光を反射させ、キラキラと輝いていた。

「また変なもん出てきたな」

「変なもんって、どう見ても鍵やん」

 壱弥さんは、あほか、と私に吐き捨てた。

「そういう意味ちゃう。鍵ってことは、どこの鍵か探さなあかんやん。ぱっとみた感じやとこの部屋に漆塗りの螺鈿細工なんてどこにもない。また時間かかるわ」

 私たちがこの家に来てから、既に二時間は経過しているだろう。確認した時計の時刻は、午前十一時を過ぎている。けれども、のんびりと休憩をしていては、指輪を見つけることもできなくなってしまうかもしれない。

「このまま、続けるで」

 腹をくくったように、壱弥さんが言った。

 今度は鍵と同じ、螺鈿細工のあるものを探さなくてはならない。螺鈿といえば、思い出すのは漆器だ。そして鍵がかかるとなると、何らかの箱になるのだろうか。

 壱弥さんは本棚の向かい側にある、ジュエリーボックスの前に立った。一番上は硝子張りのケースとなっており、その下にいくつもの収納が続く。全ての引き出しを開けてみるが、宝石は一つとして残ってはいなかった。

 壱弥さんが螺鈿細工を探している間、私は寝室で見つけた英文と先程の本について記録しようと、部屋のソファーへと腰を下ろす。鞄から手帳とお気に入りの金魚柄のボールペンを取り出すと、ゆっくりと英文を書き写していった。次に、壱弥さんが言っていた日本語訳を思い出す。

「なんやっけ」

 壱弥さんが口にした翻訳がそっくりそのまま欲しい。けれども思い出せない。一度手帳とペンを机に置いて、壱弥さんの方を振り返った。

「なぁ、壱弥さん」

 その瞬間、お気に入りのボールペンが手帳から転げ、そのまま机から落下する。慌てて手を伸ばすも金魚さんはコロコロと床を泳ぎ続け、水色のキャビネットの下に吸い込まれていった。

「あーーー!」

「何や、人の名前呼んどいて」

「用事あったんやけど、たった今それどころやなくなった!」

 直ぐに立ち上がり、キャビネットの下を覗き込むが、薄暗くて先がよく見えない。手を伸ばしてみても、ペンらしきものには触れず、私は一度上体を起こした。壱弥さんが怪訝な顔で私の行動を見つめている。

「何か落としたんか?」

「金魚さん……」

「あぁ、ボールペンか」

 ふう、と息を吐きだした壱弥さんは低い声でそう告げた。そして滑らかに私の前へと出ると、問題のキャビネットに手を掛け、それを動かそうと力を込める。しかし、どうしてかそれは全く動かない。

「これ、備え付けやな。動かせるもんやなさそうや」

「そうなんですね……」

 仕方なく、私はスマートフォンの明かりを点灯させ、再度キャビネットの下を覗き込んだ。奥の方の陰に、赤い金魚が浮かび上がる。それと同時に、視界の上方で何かが輝いた。

 ――螺鈿だ。

「壱弥さん! ここ見て!」

 私が興奮気味に声を上げると、彼も体を屈め覗き込む。その螺鈿細工の施された底板を確認したあと、ゆっくりと体を起こし、顔にかかった黒髪を手で払った。

「まさかこんなところに螺鈿細工があるとはな。金魚さんも役に立つもんや」

 壱弥さんは真顔でそう言った。

 漸く金魚柄のボールペンを救い出した私は、それを撫でながら鞄に仕舞う。彼は螺鈿細工の鍵を握り、窮屈そうにしながらも底板にあった鍵穴にそれを差し込んだ。

 一体何を開く鍵なのか、未だによくわからない。

 そのキャビネットは落ち着いた水色のアンティーク調の外装で、外枠にぴったりと嵌るように五つの引き出しが縦に並んでいる。中身は何もない。それを引き出すと、閉じている時にも見えていた外枠の内側に、隠れるようにもう一層枠が存在しているのがわかる。つまり、枠組みが二重構造なのだ。その点が、恐らくこのキャビネットに仕掛けられた謎のヒントになるのだろう。

 かちゃりと解錠したであろう音が、小さく耳に届く。

 私にはまったく理解できない構造ではあったが、壱弥さんはそれを簡単に解き進めていった。

 彼はキャビネットの引き出しを上から順に確認するように開き、慣れた手つきで真ん中の引き出しを抜き取った。次にぽっかりと開いた空間に手を忍ばせると、左側の壁にあった小さな窪みに手を掛け、ロックを外すように銀色の金具を引き上げる。そしてそのままパズルを解くように、壱弥さんは内枠ごと全ての引き出しを手前にずらし、ゆっくりと慎重に抜き取っていった。

「ちょっとそこ危ないから離れや」

 壱弥さんは内枠を抜き取ろうとした。しかし、完全に外す直前に、カチャンと何かが嵌るような金属音が響く。その音源を確認すると、抜き取る直前に外枠と内枠の金属パーツががっちりと嵌り、蝶番の役目を果たして扉のように開く絡繰りだった。

 確かめるようにその扉を開く。

「まるで絡繰り箪笥やな」

 現れたキャビネットの奥を見つめながら、壱弥さんは腕を組み、小さく呟いた。

「そうですね……」

 私たちの視線の先には、銀色に輝く大きめのセーフティボックスが、どっしりと佇んでいたのだった。


 大きく伸びをすると、扉の向こうからはじめさんがやってくる姿が見えた。初めの休憩スペースで昼食を取った後、壱弥さんはパソコンで仕事をこなし、私は気になっていた『林檎の樹』を読んでいた。彼に向ってそれぞれに頭を下げる。

 時刻は午後一時を過ぎたばかりで、窓から夏の陽射しが変わらず眩しく注ぎ込んでいた。

「まさかこんなに早く見つけて貰えるとは思ってませんでした」

 斜め向かいの椅子に座った源さんが微笑みながら言うと、壱弥さんは柔らかくそれを否定する。

「僕たちにあの金庫は開けられへんので、まだ中は確認してないんです。指輪がそこにあるのかどうかは見てみやな何とも」

「そうですか、それなら私が見てみます。もしかしたら開けられるかもしれません」

 ほんの少しだけ息をついた彼は、すぐに席を立った。

 母の部屋に足を踏み入れると、大きく開け放たれたキャビネットに、彼は感嘆の声を漏らしていた。まだ片づけずに机上に置いたままの幾つかの本を見つけると、源さんは驚いた様子で眉を下げた。

「もしかしてここの本を全部調べたんですか?」

「まさか」

 壱弥さんは笑って否定すると、キャビネットに辿り着いた経緯を簡潔的に話していった。全て聞き終わったとき、源さんは素直に感心している様子だった。

 ゆっくりと、後ろの本棚を見上げる。

「母は昔、大学で英文学を教えてたんです。いずれはこの本棚も整理しやなとは思ってたんですが、その前に見つけていただけて良かったです」

 彼は、思い入れのある母の本を見上げながら、その本を手に取る彼女の面影を思い出しているのだろう。微笑む彼の優しい横顔が、当時の穏やかな時間を感じさせるようだった。

「それじゃあ、金庫を見せてもらいますね」

 眼鏡を直しながら源さんは本棚に背を向けると、キャビネットへと向かっていった。問題のセーフティボックスの前に腰を落とすと、彼は少しだけ考え込んだ。そして、重厚な扉にかけられた暗証番号を一つずつ解いていく。全ての数字を入れ終わったのだろう。源さんはその扉を静かに引いた。

「開きましたね」

 にっこりと穏やかに微笑む彼に、私たちは驚きを隠せなかった。

「中は」

 壱弥さんが告げる。

 源さんが中から取り出したのは、三枚の紙封筒だった。

 一つには、『はじめへ』と書かれ、もう一つには『七海子なみこさんへ』と書かれている。そして最後の一つを目にしたとき、彼の顔色が変わった。

 その封書には確かに、『遺言書』と記載されていたのだ。

「ほんまにですか……」

 源さんは動揺した様子で、遺言書の封筒を裏返す。日付は今年の一月で、恐らく自筆証書遺言に当たるものなのだろう。それを開封しようとする源さんの姿を見て、私は大きな声を上げながら彼の腕を掴んだ。

「待ってください!」

 その声に、目の前の二人は驚いて私の顔を見る。

「どうしたんですか、ナラちゃん」

「絶対に開けたら駄目なんです! 見つかった遺言書は未開封のまま家庭裁判所に提出して検認して貰うのが民法で定められてるんです」

「そうなんですか……」

「もし、開封してしまった場合は罰金になるし、このまま隠匿したら相続欠格になってしまうんで、必ず検認の手続きが必要なんです」

 それを聞いた壱弥さんは、緊張感をほどくように大きく息を吐きだした。

「お前、そういう事は先に言え」

「やってまさか開けるとは思わんかったもん。っていうか壱弥さんも知らんかったんですか」

「んなもん知らんわ」

「法曹界では常識なんです! 探偵さんやって最低限の法律は勉強してますよね」

「さすがに遺言書のことまでは知らんやろ、法曹界の人間と一緒にすんなや」

 しばらく源さんも驚いて手を止めていたが、私たちの会話を聞いて吹き出した。堪えきれない様子でクスクスと笑っている彼の姿に、私は恥ずかしくて先ほどまでの壱弥さんとの言い合いを闇に葬りたい気持ちになった。壱弥さんも少しだけばつが悪そうに頭を掻いた。

「ナラちゃんは弁護士を目指してはるんですか?」

 源さんが私に問いかける。

「はい、法学部に通ってます」

 彼はにっこりと笑っていた。

「それより、手紙が」

 私がそう告げると、源さんは思い出したように手にしていた手紙を目線の高さまで挙げる。そして緊張感に息を殺しながら、自分宛の手紙をゆっくりと開封した。



『源へ

 この手紙を見ているということは、きっと指輪を探しているのですね。

 七海子さんは笑っていますか?

 もしもあなたが七海子さんのために指輪を探し、この手紙に辿り着いたのであれば、その手紙を七海子さんに渡しなさい。

 わたしは、あなたたちがいつまでも幸せに笑っていられることを願っています。』



 その手紙を読んだ源さんは、ゆっくりと目を閉じた。そして、苦い表情で手紙を畳む。

「……母は、私たち夫婦がこの先どうなっていくんか、わかってるんでしょうか」

 恐ろしいものでも見たように、源さんはぎゅっと強く拳を握りしめた。その問への返事は私たちにはできなかった。ただ、静かに悲しみを抑える源さんの姿を見つめ、凪いだ瞳の七海子さんの姿を思い出す。

 彼は顔を上げた。

 きっと、手紙を七海子さんに渡すと決めたのだろう。

「今から七海子のところへ行ってきます。この手紙を渡せば、妻の考えてることが何かわかるような気がするんです」

 壱弥さんはゆっくりと頷いて、彼を見送った。夫婦の大事な時間を邪魔してはいけないと思ったのだろう。私たちはこの屋敷に残り、散らかした部屋の片付けと、まだ見つからない指輪探しを続けることとなった。


 それから半刻程が過ぎただろう。

 漸くキャビネットを戻し、元通りに本を仕舞うと、妙な疲れがどっと押し寄せた。壱弥さんも同様にぐったりとソファーに座り込んだ。ネクタイを緩め、重い身体を沈めていく。

「あかん、完全に集中力切れた」

 彼の右腕の時計は、もうすぐ十四時を示す。

 ふう、とため息を吐いたとき、ポケットに仕舞われていた壱弥さんのスマートフォンがけたたましい音で鳴り始めた。画面を覗き込むと、どうやら電話の主は源さんのようだった。

「はい、春瀬です」

 壱弥さんが何食わぬ顔で電話に応答したと思うと、すぐに訝しい顔へと変わる。

「はい。……いえ」

 一体何を話しているのだろう。電話の向こうから聞こえる音が、どこか乱れている。

 壱弥さんの声が低く、室内に響き渡った。 

「……奥様が病院から居なくなった?」

 私たちは同時に立ち上がった。


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