第12話 見えない


 午前九時。

 光り輝く青い海を右手に眺望しながら、約束の時刻を目前に倭文しとり家邸宅を目指していた。右隣に座っている壱弥いちやさんは、涼しい水色のシャツにドット柄のグレーネクタイを締めている。暑さ故か、珍しく上着は着ていなかった。

 お詫びに天橋立あまのはしだてへ連れて行ってもらうという約束は果たしたが、本日も壱弥さんの助手として同行させて貰うことになった。どうしても倭文夫婦のことが気になり、依頼の行く末を見守りたいと思ってしまったのだ。

「なぁ壱弥さん」

「なんや?」

 壱弥さんは私を見遣った。

「昨日の七海子なみこさんの言葉、どう思う?」

「……あぁ、母親が一番、ってやつか」

「意味深ですよね」

 その台詞を吐く彼女の声色は、恐ろしく冷たかった。光が途切れた深海のような瞳。思い出すだけで彼女の闇に触れたような不安な気持ちになる。

「旦那は割と楽観的やけど、妻は何か思うことがありそうやな」

「そういえば最後に壱弥さんがした質問、かなり怪しかったと思いますよ」

 あの時、彼は既にわかっていることを確認するように聞いた。

 私が茶化しながら指摘をすると、壱弥さんはにんまりと口角を上げる。

「それでええんや」

「ええ、って。まさかあんな変な質問したんは罠なんですか?」

 そう問うと、彼は罠というほどのものでもないと、笑ってはぐらかした。

 彼は一体何を考えているのだろうか。職業柄、言葉の駆け引きが重要であるとは理解しているつもりだ。しかし、彼は当たり前のように私にもその真意を包み隠す。彼の心がわからない、と私は再度七海子さんの言葉を思い出し、反芻した。

 壱弥さんは変わらない無表情で、フロントガラスの先を見据えている。

「……七海子さんは、指輪を見つけることに賛成しとらんのかな」

 また質問を投げかけると、壱弥さんは透き通った美しい色の瞳を動かした。

「そういう訳ではないやろ。彼女も指輪の価値はちゃんと理解しとったやろ」

「じゃあなんであんな事言ったんやろ」

 私が言うと、彼は視線を戻す。

「病気のこともあるし、旦那の言動に神経質になっとるだけかもしれんな」

 そう、独り言のように言った。

 病気――その言葉が重い。

 楽しそうに話す彼女は、随分と調子がよさそうに見えた。それでも、神経質になるほどの病を抱えているということなのだろう。

「治る病気やったらええな」

 壱弥さんは肯定も否定もしなかった。


 気が付くと、既に倭文家の屋敷に到着していた。

 昨日と同じ穏やかな物腰のはじめさんが私たちを出迎えると、長い廊下を進んでいった。彼のあとを追うように入り組んだ廊下を歩き進めると、昨日の和室とは随分と雰囲気の異なった洋間へと躍り出た。

 藍色を基調にしたアンティーク絨毯に、木で仕立てられたヴィンテージの家具。大きい部屋ではないが、きっちりと纏め上げられたこの部屋を目にした壱弥さんは、無意識に感嘆の声を漏らしていた。中央には小ぶりの机と椅子が並び、左右の壁には藍色の扉が一つずつ確認できる。

「この扉の向こうの部屋が、母の自室だった場所です。ほとんどそのままにしてあるんで、好きに調べていただいて構いません」

 部屋のすぐ右手にある扉を示しながら、源さんは優しい口調でそう言った。

「ありがとうございます」

「因みにこっちの扉は何ですか?」

 左手の扉を指しながら私がそう訊ねると、源さんはにっこりと表情を和らげる。

「そこは母の寝室です」

「そちらも見せて貰うことは出来ますか?」

「別に構いませんよ。大したもんは無いと思いますけど」

 穏やかに目を細めた彼は、そのまま中央の椅子に座るようにと私たちを誘導していった。促されるままに椅子に腰を下ろすと、よく冷えたお茶と簡単なお菓子が手際良く差し出された。勧められて、私はレモン味のチョコレートをひとつ摘まむ。暑い夏なのに、爽やかな風が吹き抜けるような涼しさにも似た酸味が口の中をたっぷりと満たし、ホワイトチョコレートにも近いむせるような甘さが後から広がっていった。

「疲れたらいつでも此処で休憩してくださいね」

 源さんが頬を緩める私の顔を見て優しく微笑んだ。反対に、壱弥さんは何かを考え込むように冷茶の注がれた丸いグラスをじっと見つめている。

 源さんは彼に視線を向けると、ゆっくりと話始めた。

「昨日は妻が変な事を言ったみたいで、すみませんでした。不快な思いさせましたよね」

 彼は眉間に皺を寄せ、私たちに向かって静かに頭を下げた。

「妻があんなことを言ったんは、恐らく私が母の遺品のことばっかりしてるから、不満を感じてたんやと思います」

 あんなこと、とは恐らく壱弥さんと話していた言葉のことなのだろう。

 私は彼の言葉を記録しようと、鞄の中から取り出した手帳を膝の上に広げた。

「実は遺産相続のことで姉と揉めてまして、そっちの事で妻のところに行く時間が少なくなってるんも事実なんです」

 彼の言葉はどこか憂いを帯びる。まるで自身の妻とは分かり合えないと言わんばかりに、それでも彼女の理解はあったはずなのだと呟いた。

「それなら余計早く指輪を見つけて、一途な愛を伝えやなあきませんね」

 私がそう繕うと、源さんは思い出したように、そうやね、と微笑んだ。その様子を確認した壱弥さんは彼に声をかける。

「さっき遺産相続のことで揉めてるって言わはりましたけど、指輪はそれに関係してるんでしょうか」

 その言葉に、源さんは少し考え込んだ。

「……無関係とは言えんかもしれません」

 彼はそう呟いたあと、ゆっくりと思い返すように言葉を並べていく。

 おおよそは七海子さんの言う通りだった。しかし、遺言書には「サファイアの指輪」を現物のまま源さんに相続させるという記載があったのだという。姉は指輪が母の大事なものであると知っており、それを欲しがった。勿論、遺言書通りにいけば指輪は源さんに相続されるのだろう。しかし、その指輪はどこにも見当たらなかった。姉は相続者指定のない遺品は全て自身が相続をしようとしている様子だという。もしも、このまま現物が見つからなければ遺言書の内容は無効になるのだろう。そうなれば大事な指輪も姉に奪われてしまうかもしれない。それを危ぶんだ源さんは、早急に解決をしてくれるであろう、壱弥さんへと依頼をだしたのだった。

 私は彼が告げた事実を箇条書きに纏めていった。捜索対象が遺産協議に関係しているとなると、のんびりとはしていられないというのが事実なのだ。壱弥さんに目を配ると、彼は私と同じことを考えていたのか、小さく頷いた。

「相続協議に関係あることを黙っていてすみません」

 源さんが謝罪すると、壱弥さんは柔らかく微笑んで言う。

「いいえ、僕が直接遺産相続に関与するわけではないんで、どちらにせよ僕は依頼通りに指輪を探すだけです」

 彼は深く頭を下げた。



 源さんが自身の書斎で仕事をしなければならないそうで、彼の立ち会いはなく、調査は二人だけで行うこととなった。何かあればいつでも呼んでくれて構わないとは言っていたが、彼を呼び寄せるとなると、何らかの成果を持っていかなければならないような気持ちになっていた。

 冷たいお茶を喉に流し込んだ壱弥さんは、立ち上がりネクタイを締め直した。

 部屋に繋がる扉を開けると、生温い風がふわりと吹き抜けていく。あまりにも唐突に髪を揺らす風に、私は思わず目をぎゅっと瞑った。再度目を開くと、天井まで続く大きな本棚が現れる。それは壁に備えつけられた大きなもので、まるで外国の家のように洗練されたお洒落さを醸し出していた。扉を潜り、ぐるりと辺りを見渡す。本棚は奥の壁の半分ほどを満たし、その隣には落ち着いた水色のキャビネットが置かれている。反対側の壁には宝石を飾ってていたであろう、ドレッサーやジュエリーボックスなどが並んでいた。陽射しを通す一面の窓が、部屋全体を明るく見せる。

 気が付くと、壱弥さんは真っ先に目に飛び込んで来た大きな本棚を見上げていた。私よりもはるかに背の高い彼であっても、恐らく一番上の棚には手が届かないだろう。それ故に、天井まで届く木の梯子が傍らに設置されている。ただでは手に取ることが出来ない程、高く並んでいる古い革張りの本が、どこか覆いかぶさるような禍々しい威圧感を放っていた。

「えらいまた大掛かりなもんやな」

 そう、彼が一冊の本を手に取ると、埃っぽい匂いが鼻先を掠めていった。きっと、母親以外は手を触れていなかったのだと、容易に想像ができた。

「ここ、調べるんですか……」

 並んでいる本をさらりと数えてみると、数百は優に超えていた。全てが著者ごとに並べられており、彼女が几帳面な性格なのだとわかる。もしも彼女の思い入れのある本がわかれば簡単に調べることが出来るのだが、わからない限りは虱潰しに探す他はない。一冊ずつ開いて確認しなければならないとなると、当然一日でどうにかできる作業ではなく、壱弥さんはうん、と考えるように低い声を上げた。

「……取り敢えず、寝室も覗いてみるか」

 彼は珍しく弱気な口調で、手にしたはずの本を静かに元の隙間に収める。

「そうしましょうか」

 彼の提案に賛同し、私たちは心を落ち着かせるように一度彼女の自室を退室した。

 壱弥さんはそのまま真向かいの寝室の扉を開ける。自室と同じ大きい窓にはカーテンが掛けられており、光が遮断されている。それを開放するように、壱弥さんがスイッチ押すと緩やかにカーテンが開けていった。

 明るくなった寝室には、大きめのアンティークベッドが一つ。奥一面のクローゼットは既に整理がされており、何一つとして残ってはいなかった。

「せやから、大したもんはないって言ったんか」

 本当に何もない。

 何もないとなればどう調べるべきかも悩んでしまう。どこかに取り残されたものがないか。――例えば、家具の隙間やベッドの下に落っこちてしまっていたり。いや、でもその程度であれば遺品整理の際に簡単に気付くだろう。

 反対に、何処であれば彼が気付かないのだろう。

 そう思考を凝らしていると、一つの可能性が頭に浮かび上がった。

「なぁ壱弥さん」

 声を掛けると同じように考えていた壱弥さんが振り返る。

「例えば、部屋のどっかに別の部屋が隠されてるって考えたらどうやろ。日本家屋でもあるやん、絡繰り扉とか」

 私の言葉に、壱弥さんはなるほどと言うように数回頷いた。

「パニックルームか。それを倭文さんが知らんのやったら、話の辻褄は合うな」

「どういう場所にあるんかはわからへんけど」

 部屋を見渡す壱弥さんは、徐にクローゼットの扉を開き、中をじっとのぞき込む。私も一緒になって覗いてはみたが、何もおかしな点は見つからない。

 パニックルームといえば、思い浮かぶのは「クローゼットの奥」「ベッドの下」「壁」「本棚」その辺りだろうと壱弥さんが話す。

 どちらの部屋もカモフラージュとなるような壁はなく、探すとなれば後の三つが有力だろう。

「クローゼットは何もなかったから、次はベッドの下やな」

 彼の指示に従って、私はベッドを移動させるために足元側に手をかけた。そして足を踏ん張りながらいっぱいに力を込める。しかしベッドは想像以上に重く、私の力ではびくともしない。それなのに、何故か壱弥さんが持ち上げた頭側だけがふわりと浮き上がった。

 その様子を見た壱弥さんは半目で眉間に皺を寄せた変な顔で、呆れたような冷ややかな視線を私に注ぐ。

「お前そんなか弱くないやろ。ぜんぜん重ないし」

「うっさい、上がらんもんは上がらんねんもん」

「しゃあないから俺が一人で片方ずつ動かすわ」

 そう面倒くさそうにため息を吐いて、私に代わって彼は右手をかけた。しかし持ち上げる直前に彼は何かに気付いた様子でしゃがみ込み、木製の足を見つめながらそっとベッドの下へと手を入れた。その直後、カチャンと何かが外れる音が響き渡った。

「床に固定されとったみたいやな」

 壱弥さんが立ち上がり、手を払いながら言った。

「何や、それで重たかったんですね」

「そういうことや、はよ持て」

 彼は私を追い払うように手を翻す。

 持てて当然と言われることにもなんとなく不満はあったが、彼の言う通りにベッド持ち上げると、すぐ隣に移動させた。一見、ベッドの下には何も変わった様子はない。部屋一面に敷かれた絨毯が、ベッドの4本脚の形に合わせてくり貫かれているだけだ。

「何もありませんね……」

「いや」

 がっかりとした私の言葉を否定するように、彼は言った。ベッドの下の絨毯をゆっくりと指でなぞる。

「ナラ、ここ見てみ」

 彼の指が示す先をじっと見つめると、ほんの僅かに絨毯の柄がおかしいことに気が付く。周りと同じ、一枚一枚の花弁が緻密に描かれた美しい薔薇の花だ。彼の示す場所に違和感を感じたのは、整っているはずの花弁が少し歪に見えたからだった。

「……微妙にずれてる?」

「あぁ、何か細いもんか薄いもんないか」

 首を傾げる私に目もくれず、彼は絨毯を見つめたまま手を差し出した。私は直ぐに斜めに提げていた鞄からペンケースを取り出し、その中のお気に入りの定規を壱弥さんに手渡す。すると壱弥さんはその黒猫柄の定規を、躊躇いなく絨毯に突き刺した。

 ――あぁ、私の猫ちゃん。

 絨毯に突き刺さる黒猫を心の中で悲鳴を上げながら見つめていると、彼は手際よく定規で掬い上げるように絨毯を引き剥がした。四角く切り取られた絨毯の下に現れたのは、30cm角の床下扉だった。

「隠し扉や」

 私は壱弥さんから定規を受け取って、一呼吸置いた。

 壱弥さんが扉を開く。

 簡単に開いたその先は想像以上に小さいスペースで、一般的な小さめの金庫が一つ収まるほどの空間だった。恐らくはそういった類のものを隠す場所なのだろう。

 しかし、覗き込んだその中には二つに折り畳まれた小さな紙が入っていた。それを手にとって広げてみると、いくつかの英文が記されていた。


 What though the radiance which was once so bright

 Be now for ever taken from my sight


 壱弥さんの嫌味のない音読が響く。


 かつてあれほど輝いていた光が、今はもう永遠に私の視界から失くなったとしても


 私が和訳を問うと、彼は直ぐにそう返答した。

「何かの一文ですかね」

「あぁ、これはウィリアム・ワーズワースの『オード』っていう詩のかなり有名な一文やよ」

 どうや、と言わんばかりに壱弥さんは高々に言った。詩人などに一切興味がなさそうな壱弥さんに、何故そのような知識があるのかという疑問が過ったが、今はそんなことはどうでもいい。

「視界から失くなったっていうことは、大事なものが見えなくなった、ってことですか」

「いや、大事なものを失った、ってことや」

 壱弥さんは紙切れを覗き込みながら、さらりと返答する。しかし、その目は何か難しいことを考えている様子だった。

「それより、この文章って指輪に関係あるんでしょうか」

 そう告げると、ほんの数十秒の間を置いて、彼は何かに気がついた様子で勢い良く立ち上がった。

「本棚や。もしかしたらあの中に『オード』があるんかもしれん」

「なるほど」

 直ぐに壱弥さんは本棚に向かう。私は慌ててそれを追いかけた。

 私は彼の口遊む和訳を聞いて、どこか落ち着かない気持ちになっていた。その文章が妙に倭文家の現状を表しているように感じたからだった。母という大事な人をくした二人。指輪という大事なものを失くした源さん。そして、鮮やかな海が見えなくなった七海子さん。全てが、彼らにぴったりと重なるように感じてしまう。

 母の言う、眩しく輝くほどに大事なものとは何を指しているのだろうか。彼女はこんなメモを記し、残された二人に何を伝えたいのか。青い大切な指輪はどこに隠されているのか。彼女はその全てを知っているのだろう。けれども、その全てが今の私たちには見えないのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る