第20話 優しいひと


 もう一冊の古書を静かに閉じた壱弥いちやさんは、その物語の意味を噛み締めるように小さな吐息を溢した。ゆっくりと顔を上げ、私を見遣る。

 あさひさんから受け取った真実は、本当に彼女の望みを叶えられるものなのだろうか。現実は残酷で、私は胸が押し潰されるような感覚を抱いていた。それでも、彼は確かな答えを見つけたのだろう。その表情は瑞瑞しく潤い、琥珀色の瞳を燦爛と輝かせていた。

 大丈夫、壱弥さんならきっと二人の心を埋めてくれるだろう。私には出来なくても、この人であれば必ず。


 壱弥さんに連れられて訪れた場所は、温かみのある木目調の家具に囲まれた病室であった。澄んだ窓硝子の向こうには、未だにのっぺりとした灰色の雲が広がっている。その下には、どんよりとした灰空を映したような表情で俯く美咲みさきさんの姿があった。

 壱弥さんがその名を呼ぶと、彼女は視線を此方へと向ける。そして、ずっと待ち望んでいたと言うように、勢いよく立ち上がった。

春瀬はるせさん……!」

 そう、今にも泣きだしそうな声で呼名する。そのすぐ傍らのベッドには、すずさんが静かに身体を休めていた。

 壱弥さんの推理通り、美すずさんは急性心不全と診断を受けていた。正確には慢性的に抱えていた心不全の急性増悪で、直ぐにこの大学病院を紹介され、入院となったそうだ。年齢や既往症もあり、私たちが想像しているよりも事態は深刻だった。

 本来ならば面会も避けるべきなのかもしれない。それでも、今だからこそ伝えなければならない真実があった。二人から受けた依頼を解決するため、私たちはこの場所を訪れたのだ。

 不安気な少女に向かって柔らかく微笑み掛けた壱弥さんは、美すずさんの傍へと歩み寄った。

「美すずさん」

 低く耳打つ声に、彼女はうっすらと目を開く。そして、私たちの姿を瞳に映すと、皺の刻まれた目元を柔らかく細めた。

「あら、お客さん?」

 起き上がる体力のない彼女に向かって、壱弥さんはふんわりと口角を上げる。

「お借りしていた古書を返しに参りました。それと、古書の贈り主も無事に見つけましたよ」

「……ほんまに?」

 そう、苦しそうな息遣いで紡がれる言葉を、彼は静かに首肯する。その僅かな緊張感を感じ取った美咲さんは、眉を下げながら祖母の手を強く握り締めた。

「──美すずさんが探してはった彼の本当の名前は『吉野真貴まき』さんというそうです」

 壱弥さんは優しい声音で、その真実を二人に手渡した。

 その名を聞いた美咲さんは、はっとして顔を上げる。

「吉野の……おじいちゃん?」

 確かめるように復唱された親しみのある呼び名に、再度壱弥さんは頷いた。やはり、真貴さんと常盤ときわ家は良く知れた間柄だったのだろう。ずっと探し続けていた人がすぐ近くに居たという事実に、美咲さんは驚いていた。それと同時に、私が抱いていた不安を悟った様子で、彼女は視線を落とす。

 壱弥さんは変わらず落ち着いた口調で告げた。

「ご存知かとは思いますが、真貴さんは五年前に亡くなっていますよね」

 だから、初恋の人に会うことは出来ないのだ。

 美咲さんは悲しそうな表情でこっくりと頷いた。会いたいと願っていた初恋の人はもうこの世には居ない。どれだけ努力をしたとしても、美すずさんの望みを叶えることは出来ない。それが真実だった。

 それなのに、壱弥さんは鮮やかに光を宿した瞳で前を見据えていた。まるで、まだ望みは消えていないと示すように。

 美すずさんは告げられた事実を受け止めるよう、小さく頷きながら口を開く。

「あの人が真貴まさたかさんやったんやね。ありがとう……。それが分かっただけでも、十分やわ」

 そう、彼女は優しい口調で言う。しかし、壱弥さんは静かに首を横に振った。

「確かに、真貴さんに会うことは出来ません。でも、彼の想いに触れることなら出来ます」

 壱弥さんの台詞に合わせ、私は抱えていたもう一冊の古書をゆっくりと開く。そして、美咲さんに向かって一枚の写真を差し出した。

「真貴さんは、この写真を大事に持っていたようです」

 写真を受け取った美咲さんは、美すずさんにも見えるように目の前に翳す。

 それは古書に挟まれていた古い写真だった。壮年の男女と小さな女の子、その隣には佇む男性の姿が写っている。それが一体誰なのか、今ならば直ぐに分かる。

 寄り添う男女はきっと美すずさんと夫で、間の少女はその一人娘――つまり、美咲さんの母に当たる。そして隣の男性が、紛れもなく真貴さんなのだろう。

「ずっと昔、あなたたちはもう一度同じ、この京都の街で出会っていたんです」

 その瞬間、美すずさんは少女のように澄んだ瞳で壱弥さんを見上げた。

「その時、あなたは真貴さんが初恋の人やとは気付いてへんかった。でも、彼はあなたがあの時の女性やって直ぐに気が付いたんです」

 壱弥さんの言葉に、美すずさんは目を見開いた。

 私は旭さんから借りたもう一冊の古書を壱弥さんに手渡す。

「真貴さんは、美すずさんが約束を守れへんかった理由を、ちゃんと知っていました。それに、あなたに謝ってほしいなんて少しも思ってへんかった」

 真貴さんの抱えていた想い、願い、苦しみ、喜び、その全てがこの古書へ鮮やかに記されていた。彼がどんな気持ちで約束の日を過ごしたのか。どんな気持ちで彼女への愛しい想いを断ち切ったのか。そして何を願ったのか。その一つ一つが、優しく紡がれる。

 壱弥さんはパラパラと古書のページを捲り、ある場所で手を止めた。そして、そのページを開いたまま美すずさんに見せる。

「この本は、恐らく美すずさんと別れてから数年後に書かれたものやと思います」

 壱弥さんの言葉を聞いて、美すずさんはゆっくりと古書に手を伸ばす。その重さにふらつく手を、美咲さんがしっかりと支えた。

 彼女は淡く焼けた紙に刻まれた文字を、ひとつずつ確かめながら読み進めていく。


 僕は確かに彼女を愛してゐた。この戀はこれで終わりを告げる。やがて僕たちは互いに幸せな人生を歩んで行くことになるだろう。叶うのならば、もう一度彼女と出会いたい。初戀の相手ではなく、これからの幸せを願いあえる良き友として。


 その彼の望み通り、二人は長い年月を経て再び出会った。まるで運命のように、互いに家族に囲まれて幸せに過ごしていた最中に。そして、彼が亡くなるまでの数十年間、二人は良き友人として多くのことを語り合った。

「……でもなんで友人として、なんでしょうか。初恋の相手に会えたんやったら、昔の気持ちを伝えたらよかったのに」

 そう、訝しい表情で美咲さんは言った。壱弥さんはその疑問を緩やかに否定する。

「普通ならそう思うかもしれん。でも、真貴さんはきっと美すずさんに選んだ幸せを後悔して欲しくなかった。やから、彼は悲しむことを止めて、自分の想いをこの古書に閉じ込めたんです」

 だからずっと笑顔の綻ぶその写真を、彼は古書と共に大切に保管していたのだ。

 彼女の幸せを願うように。

 自分の正体を明かさなかったのも、彼女に想いを告げなかったのも、全て真貴さんの美すずさんを思い遣る優しい心だったのだろう。

「そっか……吉野のおじいちゃんて、不器用やけど優しいひとやったんやな」

 その想いに触れた美咲さんは、祖母の手を握り締めながら表情を綻ばせた。それにつられて美すずさんもふんわりと微笑む。

 穏やかに笑い合う祖母と孫の姿を目に映した私は、ある大切な事を思い出した。

「実はもう一枚、お渡ししたいものがあるんです」

 今度は旭さんから預かった新しい写真を美すずさんに渡す。それを覗き込んだ美咲さんが、驚いた顔で声を上げた。

「これ、お祖母ちゃんと私や」

 そして、その隣に立つ歳を重ねた優しい面差しの男性、それが真貴さんだった。まだ手を引かれて歩く幼子の美咲さんは、キラキラとした笑顔で美すずさんと真貴さんの手を強く握りしめていた。

 写真を裏に返す。


「美しく咲く花の如く」

 ――美すずさんと美咲ちゃん。


 そう、記されていた。古書のタイトルと同じ、流れるような達筆で。

「これは僕の憶測ですけど、もしかして美咲さんの名前は真貴さんが付けたものやないですか」

 壱弥さんが美すずさんに問いかける。その言葉を聞いて、私は漸く抱いていた既視感の正体に気が付いた。

 彼女の名前だ。

 美すずさんは、ゆっくりと首を縦に振った。その姿に、美咲さんは驚いた顔で祖母に目を向ける。

「何で、吉野のおじいちゃんが?」

「美咲ちゃんが生まれた時、お母さん死んでしもたやろ。それで美咲ちゃんのお父さん――悠生ゆうせいさんが母親の代わりに私に名前を付けて欲しいって頼んできはったん」

 美すずさんはゆっくりと言葉を紡いでいく。

「お父さんはね、『娘さんを死なせてしもてすみません』って私に何回も謝った。自分のことを責め続けてたん。全然あの子のせいとちゃうのに」

 何処にも存在しない責任の在処を自身に押し付けて、身をすり減らしていく彼の姿に、美すずさんはどうすれば良いのか分からなかった。そのため、彼女は親しい友人であった真貴さんに相談をしたそうだ。

 その時、真貴さんは真摯な瞳で彼女を見つめながら言った。

 ――きっと、美すずさんや悠生さんの悲しみを溶かしてくれるんは、その子なんやろうね。やから大丈夫。彼女がおれば春は必ずやってくるよ。

 そして、真貴さんはある願いを込めて彼女に名前を贈った。

 寒い冬を乗り越え、強かに土を割って芽吹くスプリング・エフェメラルのような、鮮やかで美しい花を咲かせてくれるように、と。

 スプリング・エフェメラル、その名の通り、春の花は儚いものなのかもしれない。けれど、生き抜く強さは確かにそこにある。人々に笑顔を与えてくれる小さな花のように、彼女は希望に満ちた存在だったのだ。

 そして、常盤家の幸せを願った真貴さんもまた、美すずさんにとって優しくて眩しい存在だった。

 美すずさんは、初恋の人の顔を憶えていないのだと言った。けれども、今ならば鮮明に思い出せるはずだ。初恋の人であり、良き友人であった彼の顔が。

 そして、もう彼は思い出だけの存在ではなくなったのだ。

 確かにそこに居たと示す彼の優しい想いが、美咲さんの中に生きているのだから。

 美すずさんはゆっくりと顔を上げ、壱弥さんを見遣る。

「ほんまにありがとう、壱弥くん。やっぱりあなたはあの人によう似てはるわ。……やって、優しいひとやもの」

 そう、穏やかに微笑みながら、彼女はいつまでもその写真と二冊の古書を抱きしめていた。



 それから、美すずさんが鬼籍に入ったと報せが届いたのは、わずか五日後のことであった。



 変わらない暑さに茹だる八月の終わり、高校生にとっては夏休み最終日でもあった。

 千本通せんぼんどおりから折れた静かな袋小路に、心地の良い風鈴の音が微かに響く。その音源を辿るように格子戸を開くと、黒いエプロンを身に着けた旭さんが、丁度古書を書架に納めたところであった。

 彼は私たちの姿を目に映し、ふんわりと手を振った。

「いらっしゃい、ナラちゃん。今日は先輩も一緒なんやね」

 私は小さく手を振り返し、頭を下げる。すると、旭さんの言葉に違和感を感じた壱弥さんが、後ろを振り返った。

 私たちは、美咲さんと共にこの「吉野書房」を訪問したはずだった。しかし、彼女の姿はそこにない。

「あれ、美咲ちゃん?」

 壱弥さんが声を掛けると、彼女は店の外からひょっこりと顔を出した。少し恥ずかしそう目を伏せながら、ゆっくりと店の中に足を踏み入れる。

「久しぶりやね、美咲ちゃん。って言うても一週間ぶりか」

 旭さんの言葉に、彼女はこっくりと頷いた。

「お葬式に来てくれはって、ありがとうございました」

「いいえ。それより、今日はどうしたん?」

 その問いかけに、美咲さんは「はい」と短く答え、ぎこちない手つきで一冊の本を鞄から取り出した。

 それは、旭さんから譲り受けたはずの真貴さんの古書だった。

「……やっぱり、この本はお返しします」

 彼女はそれを旭さんに差し出す。

「そっか、僕は美咲ちゃんが持っててくれた方が嬉しいんやけどな」

 僅かに眉を下げながら、旭さんは困った顔で呟いた。

「でも、これは私が持ってるべきとちゃうんです。二冊とも私が持ってたら、旭さんはこのこと忘れてしまうかもしれへん。それに、真貴さんが帰ってきた時、この本がなかったら読みたくても読まれへんもん」

 そう、真っ直ぐに紡がれた彼女の台詞を聞いて、旭さんは驚いた顔を見せた。そして、慈しむような眼で彼女を見遣る。

「そうか、きみは祖父のこと思ってくれてたんやな。……ありがとう」

 差し出された古書を大事そうに手に取った旭さんは、美咲さんの頭をぽんと撫でた。途端、彼女は言葉にならない声と共に頬を染め上げ、ぶんぶんと大きく首を振った。

 そして、心を落ち着かせるように深く息を吐きながら顔を上げる。

「あともうひとつ、お願いがあるんです」

 旭さんは再度、彼女に目を向ける。

「来年の古本まつり、私もお手伝いさせてください」

 それは、強かに紡がれた。

「え?」

 旭さんは大きな目を更に大きく開き、彼女に聞き返す。すると、美咲さんはある写真を手帳から取り出した。美すずさんと真貴さん、そして幼い美咲さんが写る、あの幸せそうな写真だった。

 それを旭さんに見せる。

「これ、古本まつりで撮った写真やと思うんです。多分、このお祭りにはお祖母ちゃんや真貴さんの思い出が沢山詰まってる。やから、私もそれに触れてみたいって思ったんです」

 彼女は、澄んだ声で旭さんに笑いかけた。

 八月の盆に開かれる古本まつり。きっと、帰ってきた二人は変わらずまつりの空気を楽しむのだろう。そして古本まつりの最終日の夜、京都の五つの山に灯る送り火が、彼らを送り出す。

 来年も、再来年も、優しい記憶は美咲さんや旭さん、そして二人の祖父母を繋いでいく。そうであってほしいと、私は心から願う。

 旭さんは穏やかに目を細め、ゆっくりと頷いた。


 帰り際、私はあることを思い出し旭さんに問いかけた。

「そういば、真貴さんと壱弥さんの笑い方が似てるって美すずさんが言わはったんですけど、どう思いますか」

 すると、彼は少し考えたあと、ゆっくりと口を開く。

「何となくわかる気はするよ。祖父も先輩も、笑い方がわざとらしいっていうか」

「作り笑いみたいな感じですか?」

「そう、でも実際はちょっと不器用なだけで、優しいひとなんやと思うよ。祖父も、先輩も」

 その瞬間、壱弥さんは吹き出した。

「恥ずかしいこと言うなや」

「ほんまの事ですよ」

 二人の様子を見ていた美咲さんは、小さな春の花のように可憐に微笑んだ。

 私は、美すずさんが最後に壱弥さんに掛けた言葉を鮮やかに思い出す。


 ――やって、優しいひとやもの。





――第三章『故き神奈備の贈り物』終


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る