第5話 揺れる紫陽花色の情景
午前八時前に目が覚めると昨日の雨は綺麗に上がり、雲間には青空が鮮やかに広がっていた。
湿り気を残す地上には、夜の嵐が通り過ぎたばかりかのように、点々と水溜まりが形成されている。背の低い庭木には、鮮やかなスカイブルーの紫陽花が花飾りのように彩っていた。
本日は午前十時に、「
それよりも問題なのが変装だ。葵に見つからないように、完璧な別人を装わなければならないらしい。どんな格好をすればいいのかと頭を抱えていると、机の上に置いていたスマートフォンが爽やかな音で鳴り響いた。
画面には幸いにも「壱弥さん」と表示されていた。
「もしもし、壱弥さん」
『おはよう。起きてた?』
つい先程まで夢の中にいたような、眠気の残る低い声が耳を抜けていく。
「おはようございます。起きてましたよ」
『それならよかった。今日の約束の時間が十一時に変更になってん。大和路が朝から大事な納品をするらしくて』
「そうなんですね」
『あと、悪いけど帰りに女将さんから俺宛の荷物を受け取ってきてほしいんやわ』
壱弥さんは沈むような声で言った。顔の見えない電話越しにでも伝わってくる、壱弥さんの申し訳なさそうな様子が珍しい。
私は荷物の中身をぼんやりと想像した。
呉服屋ということは、和装小物かその類いの物なのだろうか。それよりもまず、彼は和服を着るのかという疑問が浮かぶ。
壱弥さんはくっきり二重の日本人離れした印象的な目鼻立ちであり、和服のイメージとは似つかわしく、想像するだけで面白いものが出来上がった。
黒い
今時そんな人が居るものかと、私は頭を振って想像を掻き消した。
「はい、大丈夫です」
『ありがとう、助かる。ちょっと高価なものやから壊さんように注意してや』
「そんなすぐ壊れるもんですか?」
『いや、踏んだり投げたり本気で振ったりせん限りは大丈夫やと思うけど』
私は胸を撫で下ろした。それが伝わったのか、壱弥さんは電話の向こうで微かに笑った。
『まぁ取り敢えずは、任務をがんばってや』
「うん、でさぁ壱弥さん。今日の変装ってどんな感じがええと思う?」
『変装? あぁ、それは大和路の女将さんがしてくれはるから気にせんでええよ』
壱弥さんは然も当たり前のように、さらりと大事なことを告げた。彼の言う通りであれば、大和路で和服に着替えるということだろう。
そのようなことを考えていると、また違和感の塊でしかない和服姿の壱弥さんが笑いながら脳裏を掠めていった。そして昨日の言葉を思い出す。「変装して尾行するにはナラの方が適任」だと壱弥さんは言っていた。
「なるほど……」
妙に納得した。
『今、俺の和服想像して似合わへんとか思ったやろ』
「えっ、何でわかったん。怖い」
『いや、そこは嘘でも否定して』
壱弥さんが口先を尖らせる様子が目に浮かぶ。
しばらくの雑談を終えて、私は礼を告け電話を切った。
変更になった約束の時間まではあと三時間ほどもあり、ゆっくりと身支度をすることにした。
日が高く昇り始めた頃、私は
服装は悩んだ挙げ句、白いパンツに白いシャツブラウスを合わせ、淡い水色のカーディガンを羽織ったいつもと変わらないシンプルなものを選択した。
約束していた時間の約十分前に、大和路呉服店の最寄である
外観は黒塗りの木造建築で、すっきりとした店先が独特の高級感を漂わせている。屋根の下から垂れ下がる生成色の布幕には、黒い文字で「きもの」と記され、いつもならば立ち入ることのない特別な場所なのだと改めて認識させる。
私は高鳴る心を落ち着かせるように深く息を吐き、硝子窓のある引き戸を開けた。
柔らかく冷えた空気がふんわりと溢れ、心を落ち着かせるような微かな香の匂いが全身を包み込む。
「おこしやす」
柔和な京言葉で、クリーム色の上品な和服を纏った女性が静かに私を迎え入れた。少し遠慮がちに頭を下げると、彼女はにっこりと微笑み、私に近づいてくる。
「もしかして、あなたがナラちゃん?」
「はい」
「話はいっくんから聞いてます。私は
「よろしくお願いします」
とても違和感のある呼び名ではあったが、それが壱弥さんを指すものであるということは直ぐに分かった。
店内をふわりと進んでいく都子さんの後についていくと、途中で細やかな
「今朝は時間を遅らせて貰ってかんにんなぁ。この簪の納品があってね。綺麗やろ?」
「はい、ものすご綺麗です」
視線の先に広がる簪は、花を象った飾りがあしらわれているものだった。
花弁の一枚一枚が薄い硝子細工のようなもので形成され、光りを通し、触ると壊れてしまいそうな程の繊細さと、息を飲む美しさを秘めている。薄桃色の可憐な
キラキラとしたそれを眺めていると、店内の奥にある戸がカラカラと開き、若い男性が顔を出した。
彼もまた和服姿で、「おこしやす」と言いながら私に穏やかな笑顔を向ける。その女性と見紛うような柔らかい顔立ちが都子さんとそっくりだった。
「これは息子の
「今日は僕も手伝わせて貰います。よろしくね」
「よろしくお願いします」
私はぺこりと頭を下げた。
すると主計さんは私の姿を頭から爪先まで真っ直ぐな視線で撫でたあと、ゆっくりと傍らまで歩み寄ってくる。そして、紫陽花の簪を滑らかな手つきで摘まみ上げ、私の髪に優しく添えた。
「きみには青が似合いそうやね」
彼の手の動きに合わせて、耳元でしゃらりと飾りの音が鳴る。
「私も紫陽花がええなぁと思いました」
「ほんまに? そしたら今日はこれに合わせて着物も見立てることにするよ」
「え、でもこんな高価なもの、お借りするのはちょっと怖いです」
硝子細工のようなそれは、少し揺すっただけでも壊れてしまいそうに見えた。そんなものを頭に挿して走りでもすれば、すぐに傷付けてしまうのではないか、そんな不安が生まれる。狼狽えていると、主計さんは私を安心させるように微笑んだ。
「これ、硝子に見えて実は樹脂やねんで。結構丈夫やし、そんな簡単には壊れへんよ」
「そうなんですか?」
不安は残っていたが、和服に簪など二度と経験することはないかもしれないと感じ、彼の提案を受け入れることにした。その意志を伝えると、主計さんは「任せて」と得意気に言った。
鏡に映された和服姿の自分が、何処か遠くの別人のようで、胸を高鳴らせた。
光る清流を切り取ったような柔らかい水色と白が混ざり合う布地に、桃や紅の花が散らされ、安らぎのある可憐さを纏っている。目を引く華やかな朱色の帯と、深い青色の帯締めに、絡みつく淡い紫色と若草色の紐で形成された花が、まるで紫陽花のように美しく揺れていた。
「これ、主計が見立てたんよ。自分で着付けられへんの、悔しがってたわ」
改めて聞くと、主計さんはきっと繊細な感性の持ち主なのだと思った。自身ではなく、異性を着飾ることができるほどの美的センスに感嘆をもらす。彼の纏うシンプルな和服とは余りにも異なった艶やかさに、驚きを隠せなかった。
都子さんが店番をしている主計さんを呼ぶと、彼はすぐにひょっこりと顔を出した。少年の面影を残す悪意のない笑顔で、都子さんに「さ、母さんは店に戻って」と促す。都子さんは苦笑しながらも、主計さんに強引に押し出されるように、店へと出ていった。
「良かった、きみにぴったり似合って」
一呼吸置いた主計さんが、優しい声で私に告げた。
「ほんまに綺麗でびっくりしました」
私が言うと、主計さんは嬉しそうに私を見ながらぐるりと周りを歩く。ほんの少しだけ帯を整えると、私の両肩をぽんと叩いた。
「次は髪を整えるから、座って貰ってもいいかな?」
促されるままに鏡の前の椅子に座ると、主計さんは大きめの手で優しく私の髪をとかし始めた。その滑らかな手つきと、後ろで響く澄んだ声が凄く心地良い。彼の手にかかれば、私の伸ばして切り揃えただけの質素な髪も、素敵に変身させてくれるのだろうと期待が膨らんでいく。
「ナラちゃんの髪は綺麗な白茶色やね、すごいキラキラしてる」
髪を丁寧に分けながら、主計さんはゆったりとした口調で言った。
「そうですか? 主計さんの髪こそ優しい栗色でものすご綺麗やと思います」
「男の髪を誉めてどうすんの」
私の言葉を聞いて、主計さんは吹き出すように言った。とりわけ誉めることを意識をしたつもりはなく、ただ率直な気持ちを述べただけだった。しかしケラケラと笑う彼の姿を見ていると、自分が見当違いな事を言ってしまったような気がしてとても恥ずかしくなった。
主計さんは私の髪を結い上げながら、視線を手元に落とす。彼は何を考えているのだろう。じっと見つめてみても、主計さんは表情や口調からは内面を悟らせない面妖な雰囲気を纏っていた。柔らかい物腰が後ろにある感情を包み隠しているような、そんな感覚があった。
主計さんの視線が動き、鏡越しに目が合うと彼はすっと目を細めた。
「ナラちゃんは壱弥兄さんのことどう思う?」
「えっ」
放たれた唐突過ぎる質問に、私は言葉を詰まらせてしまった。主計さんの表情は特に何も変わらない。
意図を勘繰りながら様子を伺っていると、捕捉するように主計さんは口を開く。
「壱弥兄さんって格好いいし、頭もええやん。昔から壱弥兄さんみたいになりたいなぁって思ってたんよ。憧れみたいなもんやなぁ」
「主計さんは、昔から壱弥さんと知り合いなんですか?」
「親同士が同級生ってだけやけどね」
「それで『いっくん』なんですね」
聞きなれない呼び名を思い出すと、壱弥さんの子供の頃の姿が浮かんでくるような気がして、自然と口元が緩んでしまった。
主計さんは変わらない表情で私の髪を結い、ピンで留めていく。
「せやけど、僕は壱弥兄さんが少し羨ましいとも思うん」
主計さんは、壱弥さんが憧れだと言った。なりたくてもなれない存在、それが憧れの中に羨望を抱かせる。確かに、壱弥さんは格好よくて頭脳も優れていて、男の人からみれば理想の姿なのかもしれない。だけど、主計さんは壱弥さんとはまた違う温かさと豊かな感性を持っていて、其々に長所があるのだと感じさせる。
「主計さんにあって壱弥さんにないものも沢山あると思います。主計さんやって、十分魅力的やし」
主計さんは大きな目を更に大きくした後、眉を下げたまま微笑んだ。
「ありがとうね」
彼は、静かに笑う人だった。流れる清水のような爽やかな空気を纏う。
髪に挿された紫陽花の簪が、涼しい音を立てた。
最後に引かれた口元の
これから次の目的地、「
目眩がする程の鮮やかな日差しを反射させ、石畳の道はキラキラと輝いていた。足を進める度に、カラリと下駄が鳴る。身形が違うだけで、幾度も通った場所でさえ少し特別になったように思えてくる。それがとても不思議で、少しだけ楽しいものであった。
人々が賑わう祇園の小道に入ると、予想以上に広い茶屋が見えた。芳しいお茶の匂いが風に乗って漂ってくる。大きく開けた店先には、足を休める為の茶席が用意されており、老若男女が腰を下ろしていた。
奥にはまた違う雰囲気のあるカフェスペースが続き、その中を黒いエプロンをかけた店員が忙しなく行き交いながら甘味やお茶を運んでいる。そして、様々なお茶が並ぶ店内手前にある本来の茶屋には、白髪混じりの年配女性が立ち、滑らかな京言葉で客の質問に答えていた。
入り口を潜り、壱弥さんのメモに記されていた物を思い出す。
「雁ヶ音ほうじ茶と、和紅茶『椿木』、抹茶ラテの粉……? あと一つはお勧めを聞く……と」
小さく空で唱えながら、壱弥さんの家に置いていたお茶を記憶から呼び起こし、店に並ぶシンプルなパッケージを照らし合わせていく。
「お姉さん、もしかして
背後からかけられた唐突な言葉に、心臓が跳ね上がりそうになった。恐る恐る振り返ると、そこには先程まで観光客にお茶の説明をしていた年配の女性が立っていた。
「違ったらごめんなさい。その三種類と必ずあとひとつ私のお勧めを買っていってくれる常連さんがいるんです」
そういうことか、と安堵の息を吐く。
どうして壱弥さんは正体がバレてしまいそうなものを指定したのだろうか。そう考えてみると、直感的に彼女の質問を否定してはいけないような気がした。
出来るだけ別人を装うように、今の外見に見合った落ち着いた大人の女性を意識する。
「はい。春瀬さんにお勧めされて」
「やっぱりそうなんやね、直ぐにお持ちします」
彼女はすこし嬉しそうに笑うと、迷うことなく壱弥さんの指定したお茶を手に取っていく。そして最後のひとつに、今年の新茶であるシンプルな緑茶をお勧めしてくれた。
可愛らしい椿が描かれた紙袋に入れられたお茶を受け取って支払いを済ませると、彼女は思い出したように口を開く。
「そういえばお姉さん、お抹茶呼ばれてってくれる? メニューには無いんやけど、春瀬さんにはいっつも出してるねん」
「そういえば春瀬さんにも、ここの抹茶はものすご美味しいって言うてはりました」
「ありがとう、そこに座って待っててくれる?」
「はい」
着物の裾を払い、店先にある赤い布が敷かれた縁台へと腰を下ろす。彼女は踵を返し、入り組んだ店の奥へと姿を消した。
優しい青空と同じ色の紫陽花が、石畳の脇に点々と綻んでいる。爽やかに抜けていく風を感じながら、観光客が行き交う道を眺めていると、自分が任務中であることを忘れてしまいそうだった。
五分程が経過した時、先程の女性が盆に茶碗を乗せて私の元まで運んでくる。
「おまたせしました」
礼を告げ、差し出された茶色の茶碗を両手で受けとると、ほんのりとした温かさが掌に伝わった。
点てたての抹茶は、茶の柔らかい苦味と風味を口の中をいっぱいに満たしてくれた。抹茶には詳しくはないが、それがとても飲みやすいものである事は直ぐにわかった。甘すぎず苦すぎない香りの良い抹茶はどこか大人の味で、抵抗なくさらりと飲み干すことができた。
「美味しかったです」
「よかった」
「誰が点てはったんですか?」
「これは孫がお茶会の練習に点てたお抹茶やねん」
「お孫さんが?」
「そう、美味しかったって言って貰えてきっと喜ぶと思うわ」
彼女は照れ臭そうにふんわりと笑った。
表へ出ると、立札にお茶会の案内が記されていることに気が付いた。本日は、十一時からと十五時からの二回で、午後の部も既に満席だという。難しい作法を気にせず、且つ手頃に抹茶を嗜むことが出来る場が、祇園の真ん中にあるのかと思うと少し驚いた。
店の奥で彼女が座敷の入り口らしき場所を開け、中を覗いている姿が見える。
「葵ちゃん、もう一時やから休憩に行っておいで」
微かに聞こえた声に、私は動作を止めた。同時に反射的に店から身体を背け、物陰に身を潜めてしまった。
まさかとは思ったが、全てが壱弥さんの憶測通りなのだと気付く。その計算された事の運びに、寒気とともに鳥肌が立った。
風に、紫陽花がゆらゆらと揺れている。
「あぁ葵ちゃん、午後のお茶会の前にまた着物着なあかんから、二時過ぎには戻ってくるんやよ」
「わかってるよ、お祖母ちゃん」
聞き覚えのある声が耳に届くとほぼ同時に、爽やかな黄色のブラウスを着た葵が、店から軽快に飛び出していった。
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