第6話 硝子の向こう
彼女は何処に向かっているのだろう。
足音も立たない軽やかさで、人混みを縫いながら石畳を進んでいく。彼女はただ休息に出ているだけで、このまま追っていても
壱弥さんの告げた注意点を再度思い出しながら、
暫く歩いていると、飲食店が立ち並ぶ
こっそりと店内の様子を伺おうとするが、道に面した木枠の硝子窓には薄い布のようなものが掛けられており、店内を見通すことができなくなっていた。手動の格子戸の前に戻ると、そこに置かれているランチメニューが書かれた黒板が目に留まった。
「本日の日替わりランチ。根菜のキーマカレー、雑穀米、スープ、サラダ、焙じ茶セット」
脳内でメニューを読み上げながらそれを眺めていると、唐突に空腹感が押し寄せてくる。時計を確認すると既に十三時十五分頃で、お昼時も過ぎ去ろうとしている時刻だった。
このまま葵が出てくるまで外で待つのも不審なのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、標的と同じ空間に進む緊張感を握りしめながら、喫茶店に入ることを決意した。
店内は明るい和調の空間で、木の柱と土壁が美しく優しい雰囲気を纏っている。その静けさとは反対に客数は多く、めいめいに寛いでいる中で葵は窓際のカウンター席の端に座っていた。ぼんやりと外の景色を見つめながら、水の入ったグラスの中でストローをくるくると回している。
私が通された席は奥の二人がけの小さなテーブルで、丁度葵の後ろ姿と道路の向こう側の建物が抜けて見える位置だった。光の加減なのか、薄い布を通してでも外の景色がしっかりと確認できた。
葵の元にランチが運ばれてくると、彼女はきっちりと両手を合わせ、「いただきます」と小さく唱えたあと、銀色のスプーンを取った。
ここでの食事を終えた後、葵はどうするのだろうか。そのまま
もしも任務が達成できなかったのなら、壱弥さんは私を蔑むだろうか。少しの不安を振りきると、壱弥さんの人を見下すような憎たらしい顔が脳裏に浮かんだ。その映像を掻き消し、絶対に馬鹿にされないように気を張っておかなければと、心の中で拳を握りしめた。
食欲をそそる香ばしい匂いがふんわりと店内を包み込む。通りすがる店員を呼び止めて注文したレモンティーは、間もなく手元に届けられた。それは想像以上に明るいオレンジ色で、輪切りの檸檬が瑞瑞しく浮かんでいた。一口含むだけで、甘い紅茶の香りと檸檬の爽やかな酸味が舌を刺激する。良く冷えたそれは、上昇した体温を冷ましていくようだった。
窓辺にいる葵の姿を一瞥する度に、緊張感が増していく。しかし、ぼんやりとする葵の姿は、私に尾行されているなどとは微塵も気付いていないほど悠長で、危機感の欠片も感じさせない様子だった。
穏やかな空間の中で響く、がちゃんと食器のぶつかる鮮やかな音が耳に飛び込み、私は顔を上げた。遠くの子供がグラスを倒したと、ほんの一瞬店内がざわついた。しかし、葵はその音源には目もくれず、何かに取り付かれたように真っ直ぐに窓の外を見つめていた。
彼女の目には何が映っているのだろう。視線をずらすと、向かい側の建物の入り口に先程までは無かったはずの看板が設置されていた。
「日本茶カフェバー
さらりと流れる焦げ茶色の髪はハーフアップにされ、着物に合わせた淡い桃色のリボンで留められている。乱れのない綺麗な姿勢と整った容姿は美人と称するに相応しく、そしてその容貌には見覚えがあった。
硝子を隔てた向こう側に居る女性は、紛れもなく私たちが探していた「
やはり、葵は彼女の居場所を知っていたのだろう。このような状況にも取り乱すことはなく、涼しい顔で陶器に注がれている焙じ茶を口にする。その様はまるで花田さんを監視しているようで、嫌な悪寒が全身を取り巻いた。
心を落ち着かせるように、私は残っていたレモンティーをストローで飲み干し、深呼吸をした。じっと花田さんの姿を見つめていると、掃除を終えた彼女は薄暗い階段を下り滑らかに消えていった。
何故花田さんはここにいるのだろうか、何故葵は花田の居場所を知らない振りをしたのだろうか。考えれば分からないことばかりで、何かが喉につっかえている様な、釈然としない気持ち悪さを残す。
しかし、与えられた任務を達成したという事実が、少しばかり心を踊らせるようでもあった。
纏っていた美しい着物を
大和路の店舗へと出ると、
「これ、壱弥兄さんから頼まれてたやろ? 絶対に自分で開けるようにって伝えといてね」
主計さんは優しい声で言伝てを告げる。
「わかりました」
彼から受け取った包みはペンケース程の大きさで、かっちりとした縦長の小さな箱に手触りのよい紫色の鮮やかな布にくるまれている。少し慎重に揺らしてみると、中で何かが転がるようなカラカラと小さな音がした。
市バスに揺られて僅か数分、何気なく
知恩院道から左へ曲がる時、ほんの少しだけ
近いうちに壱弥さんを連れ出して、自然の中を散歩をするのも良いかもしれない、そう感じる程であった。
なだらかな坂道を下り、辿り着いた事務所の入り口扉に手をかける。しかし、鍵が掛かっているのか扉は開かなかった。ドアベル鳴らしてみても返事は聞こえない。
任務の後は事務所で結果を報告するようにと彼が指定したはずだった。他の仕事でも入ったのかもしれないとスマートフォンの画面を確認するが、壱弥さんからの連絡はない。
彼が帰るまで待つしかないと、仕方なく格子戸の脇に腰を下ろす。その瞬間、妙な緊張感が崩れ、歩き通した疲れが一気に溢れ出した。
煌々とした太陽が降り注ぐ。纏わり着く暑さが初夏特有の水を含んだ空気と絡まって、座っているだけで不快感を増強していく。
「壱弥さん、何処に行ったんやろなぁ」
溜め息混じりに独り言を溢した時、眩しい日差しを遮る何かが、私に影を落とした。驚いて顔を上げると、怪訝な目で私を覗き込むようにして立つ壱弥さんの姿があった。
彼の服装は黒いTシャツとカーキ色のミリタリーパンツというカジュアルスタイルで、その身形が仕事による外出では無いことを物語る。
「もう帰って来たんか。もうちょっと遅いかと思ったわ」
壱弥さんは私の姿に少し驚いた後、決まりの悪そうな顔で頭を掻き、眉間に皺を寄せた。
「思ったよりスムーズに任務達成したんですよ」
「おお、そりゃ良かった。話聞かせてもらおか」
そう告げるとポケットから鍵を取り出し、左手でカチャカチャと不器用ながらも解錠する。その様子を見上げると、彼の左前腕の内側にうっすらと古い傷跡が見えた。
こんなもの、前からあったのだろうかと考えながら立ち上がる。その瞬間、壱弥さんからふわりと甘い香水のような香りが漂った。
それはいつもの爽やかな香りとは異なる女性の香りだった。その香りの原因は恐らく容易に想像出来る通りなのだろう。しかし、彼の女性関係を追求する理由もない。やっとのことで開かれた事務所へ入ると同時に、緩やかに関心を失っていった。
壱弥さんの後を追って彼の部屋に上がると、蒸れた空気が部屋を満たしていた。その暑さから、壱弥さんは真っ先に窓を開け放つ。そして脱力するようにソファーに座り、いつも通りに私に飲み物を要求した。
私は手にしていた紙袋の中身を思い出した。
「椿木屋で買ったお勧めのお茶、今年の新茶なんやて。それ淹れますね」
「あぁ、おおきに」
急須で濃く蒸した茶を、氷の入ったグラスに注ぐと、蒸気が立ち込め爽やかな新緑の香りが鼻先を抜けていく。しゅわしゅわと緩やかに溶けていく氷を眺め、それが全て無くなるまで見届けた。
グラスを持つ指に伝わる冷たさが、壱弥さんの目の前に差し出した瞬間に消え失せる。壱弥さんはその冷たい茶を渇いた喉に流し込み、半分程に中身の減ったグラスを静かに机の端に置いた。
「やっぱり新茶はええわぁ」
彼は幸せそうに感想を告げたあと、近くの黒革の手帳を手に取った。
「で、任務はどうやった」
「多分壱弥さんの考え通りでした。椿木屋で葵を見かけて尾行してたら、出先で花田さんの姿を確認しました」
「やっぱりそうか」
「ところで、壱弥さん」
彼の隣に座り名を呼ぶと、彼は手帳の頁を捲りながら私に視線を向けた。
「壱弥さんは何で葵が嘘ついてるって分かったんですか」
「あぁ、そういやちゃんと説明してへんだな」
壱弥さんは締まりのない声で思い出したように告げる。彼が姿勢を整えると、私も連られて背筋を整えていた。
「記憶を辿った時に気になった点やけど」
「はい」
「まず一つ目は、花田さんとの連絡が途絶えた日と、葵ちゃんの相談日のタイムラグや」
壱弥さんは日から土までの曜日一文字を順に横一列に書き並べ、その下に日付を示す数字を記入する。そして、花田さんの行方が分からなくなった月曜日と、その十一日後である葵と相談に来た金曜日に丸をつけた。
「二つ目、葵ちゃんは花田さんの下宿先に何度か行ってるにもかかわらず、彼女がちゃんと家に帰ってるのか確認してなかったこと。そして三つ目、花田さんが
彼は箇条に分けて、一つずつ丁寧に言葉を落としていく。
「その三つが、俺の感じた違和感やった」
「それがどう繋がるんですか?」
「行方が分からんくなってから直ぐに探さんのはおかしいやろ。考え方を変えて、葵ちゃんが探し始めた時点で花田さんが居場所を隠してる事に気付いたとすればどうやろ。タイムラグの説明はできる」
「でも、葵は花田さんが大学に来やんくなった月曜日から連絡が取れへんくなったって言ってましたよね。普通なら連絡が途絶えた時点で探しませんか」
私が指摘をすると、壱弥さんはにやりと笑った。
「それが葵ちゃんの一つ目の嘘。花田さんとはちゃんと連絡が取れてて、おおよそ実家におるとでも言われてたんやろ。秋帆さんに言ってたように」
「なるほど……」
「じゃあ、葵ちゃんは実家の連絡先を知らんのにどうやって花田さんの嘘に気付いたんか、や」
「実は連絡先を知ってたとか?」
「いや、仮にそうやとしても実家に連絡する理由がないやろ。嘘に気づくためには、何かのきっかけで花田さんが実家におらん事を知る必要がある。それで、実家おらんってことやなくて、本当の居場所を知ったんやないんかって考えたんや。それが二つ目の嘘。葵ちゃんが彼女の居場所を把握してて、初めから事件に巻き込まれてない事を知ってたんなら、彼女が下宿先に帰ってるかなんてそこまで気にならんやろうしな」
確かに、壱弥さんの推理は飲み込む事ができるものばかりだった。全て逆転の考えを辿るだけではあったが、葵の証言を前にすると簡単には気付けず、陰に隠れてしまう発想だ。推理を整理するために繰り返す。
「つまり、葵は岡山の実家におるはずの花田さんを京都で見かけてしまったから、花田さんの嘘に気付いたってことですね」
「そう、簡単なことやろ?」
私が納得して頷くと、壱弥さんはまだ終わって居ないと言わんばかりに言葉を続けていく。
「葵ちゃんが花田さんの居場所を知ってるんやとしたら、ナラは今回の依頼の本当の目的は何やと思う?」
その問いかけに、私は手元に視線を落とし、今までの葵の言動を振り返ってみた。
初めは大学で彼女を探し、行き詰まった時に私と共に壱弥さんに相談をするため、この事務所へとやってきた。翌日は、花田さんの下宿先に行き彼女が引っ越してしまった事実を知る。そのあとに向かったカフェで、葵は花田さんの想いに触れ、大粒の涙を溢した。葵の様子を思い返すと、彼女は自分が何か悪いことをしてしまったのではないかと案じていたように思う。そして、もしそうであれば謝りたいとも溢していた。
私はハッとして、顔を上げた。
「もしかして葵は、壱弥さんに花田さんが居場所を隠した理由を調べて、どうにかして欲しいんやないでしょうか」
壱弥さんは身体の前で組んでいた腕を崩す。
「そんな事してる探偵なんていると思うか」
「いえ、そんな物好きな探偵は壱弥さんくらいやと思います」
「せやろな」
私の意見を肯定し、壱弥さんはふっと口元を緩めた。
彼は依頼者の想いを汲み取ることに長け、本当に取り戻したいものを見つけてくれる、特別な探偵だと世間で噂をされていた。それは物理的な物から、目に見えない物まで様々で、人間関係の修復までにも至るという。
その功績を間近で見たことが無いゆえに、実際の所は彼の鬼才ぶりは噂でしか知らない。しかし、数多の人が彼を慕っているのだから、その特別な探偵業は間違いなく依頼者を救っているのだと確信していた。
「……そうやとしたら、葵は元から壱弥さんがそういうことをしてくれる探偵やって知ってたってこと?」
「そういうこと。三つ目の嘘やな。つまり、俺は始めから葵ちゃんに利用されてたんや」
その言葉とは裏腹に、壱弥さんはどこか自信に満ちた表情を見せていた。
「まぁほんまにそうやとしても、俺は彼女の納得いく答えをきっちり見つけるだけや」
彼はそう淀みなく告げた。
暫く時間は経っていたが、グラスに残る茶はまだ冷んやりとしている。壱弥さんは冷茶を啜りながら、涼しい顔で手帳をぱたんと閉じた。
壱弥さんの説明は終わったように思ったが、疑問はまだ残っており、私は彼の綺麗な横顔に視線を向ける。それに気付いたのか、壱弥さんも私を見たが、予想以上に間近でぴったりと重なった視線は、瞬く間に逸らされてしまった。
「……まだ、何か気になる事あったか?」
視線を逸らしたまま壱弥さんは口元に手を添え、口ごもりながら告げる。
「今日の任務のことなんですけど、壱弥さんは葵が椿木屋に居るって知ってたんですよね?」
「あぁ、あれ五割は当て推量やったけどな」
「え?」
「葵ちゃんは茶道を嗜んでて、椿木屋のお茶のこと妙に詳しかったやろ」
壱弥さんは仕切り直すように深く息を吐き出した。
「それと、以前、店主のトキさんがお孫さんの話をしたとき、確かナラと同い年やったと思ったんやわ。もし葵ちゃんがトキさんの孫やったら、予め俺のことを知っててもおかしくないやん」
辻褄は合うけど、確証がない。故に五割ということなのだろう。
「っていうか、確証がないなら、そう言ってくれたら良かったやないですか。もし葵が居らんかったらどうなってたか」
私がわざとらしく文句を言うと、壱弥さんは悪意のある笑顔を作った。
「言わん方が面白いやん」
「……信じられへん」
にやにやと笑う彼をみていると、言うだけ無駄だったことに気づき、落胆した。
それから報告の続きとして、花田さんの居場所の確認や、葵の様子を詳しく壱弥さんに伝えていった。花田さんが居たところが「日本茶カフェバー」であることを告げると、引っ越しの時に一緒に居た女性はその店の人かもしれないと、壱弥さんは言った。
帰る前に壱弥さんの夕食を作っていこうと思い、支度を始めようとした時だった。事務所に置いてある古びた固定電話が、ジリジリと音を上げた。うつらうつらとしていた壱弥さんも、電話の音に目を覚まし、裸足のまま事務所の中を歩いていく。
「はい、
応答する壱弥さんの声が遠くで聞こえると、切れる前に出ることが出来たのだと少し安心した。
時計は午後五時二十分頃を示していたが、窓枠の空はまだ明るく鮮やかに広がっている。窓を少し開けてみると、柔らかい風が部屋に吹き込んだ。心地のよいそよ風を感じていると、入り口の扉が開く。
「ナラ、ちょっと仕事で出やなあかんくなったから、今日はもう帰ってくれるか」
電話を終えた壱弥さんは、リビングに戻ってくるなり直ちに私に帰宅を促した。恐らく夕食は不要だということだろう。壱弥さんはクローゼットの扉を開くと、白いシャツとネクタイを取り出した。
「日曜日やのに仕事なんですか?」
「あぁ、大事なお客さんや。今から新大阪まで行ってくる」
こんな夕方から県外まで仕事に行くということは、彼の言うとおりもの凄く大事な客なのだろう。仕事の邪魔だけはしてはならないと思い、今日は大人しく帰宅することにした。
散らかした机の上を片付け終わると、壱弥さんは大人っぽい艶のある紺色のネクタイを締め、スーツジャケットを羽織ろうとしているところだった。自分の手帳を仕舞おうと鞄を開けると、
「壱弥さん、そう言えば主計さんからお荷物預かりましたよ」
「あぁ、忘れてた。それ、ナラにあげるつもりのものやから、開けてええよ」
「そうなんですか? でも主計さんは、壱弥さんが自分で開けるようにって言ってましたよ」
主計さんからの伝言を伝えると、壱弥さんは怪訝な顔で包みを受けとり、結び目を解く。紫色の布の中から姿を見せた木箱の蓋を取ると、一枚の紙切れが入っているのが見えた。壱弥さんの傍らから、紙を覗く。
壱弥兄さん、プレゼントはちゃんと自分の足で取りに来てね。
その文面を見た壱弥さんはふっと笑った。
「主計、あのやろ……次会ったら説教やな」
紙の下から転がり出てきた一粒の飴玉を私に手渡すと、くしゃりと紙切れを握り潰した。
壱弥さんは私に何を渡すつもりだったのだろう。少し気にはなったが、それよりも想像以上に仲の良い二人の姿が微笑ましかった。
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