第三章『故き神奈備の贈り物』
第15話 下鴨納涼古本まつり
京都の夏は驚くほどに暑い。四方を囲む山々が流れる空気を遮ってしまうため、滞った空気が湿気を含み、サウナのように街をじめじめとした暑さで包み込む。それに加え、まるで容赦のない太陽が、街を行く私たちをひたすらに焼き付けていくのであった。故に、人々は夏になると様々な方法で涼を求む。その一つに、
京都の象徴とも言われている鴨川で、初夏から秋にかけて開かれる納涼床の歴史は、豊臣秀吉の治世にまでも遡る。それは三条・五条橋の架橋を経て賑わうようになった河原に、物見席や茶席が設けられたことに由来するそうだ。それも今ではきっちりと整備され、伝統ある京都の夏の風物詩とも詠われるようになった。
納涼床は主に陽の沈んだ夜に楽しむことが出来る。暗闇に柔らかい光を灯す納涼床で、月明かりに浮かぶ鴨川のせせらぎや涼しい夜風を感じながら、美食を堪能するのだ。それほど優雅で贅沢な消夏方法が他にあるだろうか。
京の街を訪問する人々はみな納涼床に憧れを抱く。
夏の間だけ楽しむことが出来る風物詩はこの町に溢れている。有名な祭りである五山の送り火もその一つであり、また夏を象った涼し気な和菓子たちもこの町の魅力であると私は感じていた。
照りつける真夏の陽射しの隙間を縫いながら、私たちは
何故突然その店に行こうと思ったのかと言うと、無類の和菓子好きでも名高い
そんな私の心情など関係ないと言わんばかりに、壱弥さんはいつもより浮かれた様子で私の後を追ってくる。この暑さにも関わらず汗の一つもかいていない事実と軽い足取りの彼に、私は少しだけ気味の悪さを感じていた。
スーツの蒸し暑さに慣れてしまったせいなのだろうか。涼し気な白い半袖のシャツに迷彩柄のパンツを履きこなす壱弥さんは、どこかお洒落で爽やかなお兄さんのようにも見えた。
「何にするか悩むわ~」
ゆるりと気の抜けた声で壱弥さんは言った。しかし、彼はキラキラと目を輝かせながら、嬉しそうに並んでいた。
「あんまりいっぱい買わんとってな。賞味期限、今日中やねんから」
「わかっとるわかっとる」
彼は私の忠告を受け流すようにひらひらと左手を振った。
いざショーケースに並ぶ生菓子を眺めてみると、私も少し悩んでしまった。夏季限定の魅力的な品が多すぎるのだ。じっくりと悩みに悩んだ末、私たちは三種類の生菓子を二つずつ購入した。
幸せの詰まった袋を手にぶら下げながら、壱弥さんは満足そうに大きく伸びをすると、元来た道を歩き出す。その様子を見て、私は彼を呼び止めた。自宅からここまでは言う程遠くはないのだが、折角バスでやって来たというのだ。近くの名所を訪れるのも悪くないだろう。彼は怪訝な表情で私を見下ろす。
「そういえば今、『
道端には『古本まつり』と記された紺色の旗がそれを主張するように幾つも並んでいる。壱弥さんは目線を上に向けながら、あぁそういえば、と呟いた。大して興味はないのだろう、それ以上の言葉は言わなかった。しかし、少し考えたあと彼は私に視線を向ける。
「行きたいん?」
その台詞に頷くと、彼はふっと微笑んだ。
そして、鮮やかな緑に囲まれた大自然を望み、長い年月を経た古書の匂いと、表現し難い京都ならではの古典的な雰囲気を感じるだけで、どこか過去に遡ったような不思議な感覚を味わうことが出来るのだ。その独特のディープな雰囲気は、神様が住むといわれる
私達は、ゆっくりと
セピア色の古書と紅白の垂れ幕を目にすると、弾む心が更に膨らんでいく。一度、大きく深呼吸をする。古本まつりは今日が初日であり、それもまだ始まって三十分ほどしか経っていない。それなのに、まつりは大勢の人で賑わっていた。
「凄い人やなぁ」
壱弥さんが周囲を見回しながら、率直な感想を述べる。
「そんで、相変わらず暑いですねぇ」
「え、そうか?」
私の言葉を否定し、壱弥さんは変わらず涼しい顔で言った。
やっぱり彼の感覚はおかしいのではないか。そう思いながらも、蒸せる暑さを凌ぐために掌でパタパタと扇いでいると、後ろから掛けられた爽やかな声が耳を抜けていった。
「お姉さん、うちわはどうですか」
驚いて振り返ると、黒いTシャツに首元にタオルを巻いた、爽やかな若いお兄さんが古本まつりの特製うちわを差し出していた。短いこげ茶色の髪が、眩しい陽射しに光っている。その彼の姿を見た壱弥さんは、あっと声を上げた。
「
「あーー、先輩!」
壱弥さんが旭と呼んだその青年は、壱弥さんに勢いよく飛び込み抱き着いた。それを引っ剥がすように、表情を歪める彼は旭さんの頬を手のひらで力いっぱいに押し返す。
「先輩は相変わらずのイケメン振りですねー!」
「うっさいわ、離れろ」
それでも尚、抱き着こうと試みる彼の頭を、壱弥さんは右手で引っ叩いた。
「いったいですよ先輩」
「暑苦しいねんお前、ってかちょっと来い」
二人のふざけ合う様子を見ていると、古くからの知り合いだとう事は直ぐにわかる。壱弥さんの事を「先輩」と呼ぶ彼は、壱弥さんの学生時代の後輩なのだろうか。私と距離を取るように壱弥さんが彼の腕を引っ張り、少し離れた場所へと引き連れていく。そして何かを話し始めた。その行動を見ると、私に聞かれてはいけない内容の話なのだろうかと勘繰ってはみたが、推理をする間もなく直ぐに話は終了したようだった。
旭さんが私の元に走り寄ってきた。
「きみ、ナラちゃんって言うんやってね!」
「はい」
「先輩の彼女?」
「いえ、違います」
投げかけられたその質問を即座に否定すると、彼はきょとんと目を丸くする。そしてそのまま驚いた顔で体を捻り、壱弥さんへと視線を向けた。
「先輩、即行で切り捨てられてるけどいいんですか?」
「ちゃうもんはちゃうんやでお前は黙っとれ」
壱弥さんは暑苦しいものを取り除くようにしっしっと手を払う。その行動に、不服そうにも旭さんは大人しく口を噤んだ。
「旭さんは運営の人なんですか?」
そう問いかけると、彼は優しい笑顔で肯定する。
旭さんはこの京都の街で、父親が営んでいた古書店を受け継いだそうだ。その童顔と人懐っこい性格から、私とあまり変わらない年齢なのかとも思ったが、壱弥さんの二つ下で学生時代の後輩なのだという。店では新しい書も取り扱ってはいるそうだが、一応は古書店であるため、この「下鴨納涼古本まつり」に運営側として参加をしているのだと言った。
先々代から続いているというその店は、きっと歴史の深い書物で埋もれているのだろう。そう考えると、京都にはまだまだ私が知らない魅力的で美しい店が溢れているのだということに気付く。
「よかったら店の方にも遊びに来てくださいね。古本まつりが終わったら、普通に店は開けてますんで」
そう、声を上げながら旭さんが手を振ると、壱弥さんは軽く左手を上げた。慌ただしく運営本部に戻っていく彼を見送ると、壱弥さんは私に向かって「鬱陶しいやつやろ」と告げ、小さく笑っていた。
それから暫くの間ゆっくりと古書を見ながら歩き、私は興味の沸いた小説本を数冊購入した。たまたま手に取ったもの、壱弥さんがお勧めしてくれたもの、表紙が綺麗だと感じたもの。それを鞄に詰め込んだ私は、まつりを堪能できたことに幸せを感じていた。それと同時に、このような場所に二人で訪れた事実を再度認識し、不思議な気持ちになっていた。普段の壱弥さんはちゃらんぽらんで緩んでばかりなのに、一緒に本を選んでくれる彼はどこか穏やかで、私を安心させてくれる存在のように感じられた。
糺の森を抜けると、歩道に沿って続いていく木陰の中を真っ直ぐに歩いて行った。その涼しい木陰が切れ、少し緩やかに曲がった道を行くと、鴨川に架かる葵橋が目の前に現れる。
欠伸をする壱弥さんは、退屈そうに鴨川を眺めながら歩いていく。彼はあまり本は読まないのだろうか。そんなことを考えていると、はっと思い出したことがあった。
「そう言えば、今頑張って読んでる『林檎の樹』やねんけど」
「あぁ、あれな」
「日本語に訳せへんところがあって、詰まってるんです」
反応を窺うように隣を歩く壱弥さんに視線を向けると、彼はふーんと相槌を打った。
「……それで今度訳を教えて欲しいんですけど」
「別にええよ」
面倒だと言って断られるかもしれないと思っていたために、嫌な顔もせず快諾してくれた彼に少し驚いた。きっと英文を翻訳することなど、彼にとって手間のかかる事ではないのだろう。
「ほんまに? ありがとう」
私がそう言った瞬間、唐突に、彼は身体を前に乗りだし手を伸ばした。
ゆっくりと目の前を歩いていた老婦が、足元をふらつかせバランスを崩したのだ。直前に一冊の本を地面に落とし、それを慌てて拾おうとして勢い付いてしまったのだろう。危ない、と声を上げそうになった時、気が付くと壱弥さんが小柄な老婦の身体をしっかりと支えていた。その様子を見て、ほっと胸を撫でおろした。
「大丈夫ですか」
落ち着いた低い声で壱弥さんが彼女に告げる。
支えられながらもしっかりと体勢を立て直した彼女は、穏やかに笑いながら壱弥さんに頭を下げた。
「本も無事ですね」
地面に落ちた古い本を拾い上げると、彼は少し体を屈めたまま手にした本を老婦へと差し出した。それを受け取った彼女は大事そうに抱え込む。
「おおきにね」
「いいえ、とんでもありません」
にっこりと壱弥さんが微笑むと、彼女は驚いた様子で彼の顔を凝視した。一瞬だけ時間が止まったように老婦の表情は固まっていたが、次第に優しいものへと変わっていった。
「どうかされましたか?」
訝しい顔で壱弥さんが告げる。
「ごめんなさいね。あなたの笑った顔があんまりにも初恋の人に似とったから、つい」
「あぁ、そういうことなら」
思いがけない彼女の台詞に、壱弥さんはまた柔らかい笑顔をみせた。彼女は孫が待ってるからと言って、私たちに小さく頭をさげるとゆっくりと歩いていった。
彼女の姿を見送ったあとも、私たちはどこか温かい気持ちを抱いていた。
私は英語で書かれた本を開きながら、むう、と考えこんでいた。本を持ち上げてみても、ひっくり返してみても、一度閉じてまた開いても、一向にその英文は解読できない。黒いオフィスチェアに座りその様子をみていた壱弥さんは、私を馬鹿にするように失笑した。
何故こんな状況になっているのかと説明をすると、少し長くなる。私は昨日に彼と約束を交わした通り、『林檎の樹』を持って彼の事務所を訪れた。あれほど快く引き受けてくれたのだ、と直ぐに問題の箇所を伝え、その返事を待った。ところが壱弥さんは手の平を返すように、自分で考えろ、と言ったのだ。私は少しだけ腹が立ち、約束したはずなのに、と言及した。すると、彼はそれが気に食わなかったのだろう。
「まずは自分で考えやな勉強にならんと思って言ったのに、やる気ないんやったらもう教えたらんわ」
と、冷ややかな目で私に告げたのだ。
きっと私が悪いのだ。彼の優しさに甘えてしまったからだ。そう、己を卑下してはみたものの、よく考えると彼の優しさなど初めから無かったことに気付く。
そうして私は彼に取り入ることもせず、今に至るのだ。
「壱弥さんって、意地悪やんな」
「はぁ? 何か言うたか?」
変わらず大きい態度を示す彼は、やはり少しだけ笑いを含んだ表情をしていて、私を馬鹿にしているのだとわかる。それから一頻り私の行動を笑い続け満足した壱弥さんは、徐に立ち上がると、滑らかに歩み寄り私の隣に腰を下ろした。横からその本を覗き込む。
「ちなみにこの原文は結構難しいって言われてるんや。せやから、ちょっと訳せへんかったくらいで落ち込む必要はないと思うよ」
彼はひとつずつ、単語や構文に分けてわかりやすく説明をしてくれる。
私は顔を上げた。
彼は意地悪で、いつも私を見下すような言動ばかりではあるが、肝心な時には私を励まし、そして優しい言葉をくれる。そう考えると、彼は狡い人だと思った。だから、私は彼を優しい人だと信じ込み、嫌いになることが出来ないのだ。
「どうや、わかったか?」
壱弥さんは穏やかに笑った。その瞬間、私は無意識に彼から体を遠ざけていた。
私が頷くと、彼は何事もなかったように席を立ち、自分の仕事場へと戻っていく。落ち着かせるように大きく息を吐きだすと、私は姿勢を正しソファーに座り直した。
『林檎の樹』は切なくとも甘美な恋愛小説である。情熱的に囁かれる愛情が、衝撃的な結末を以て美しく飾り立てられる。甘い文章に耽っていると、唐突に鳴った入り口の扉を叩く音に、私たちは同時に視線を送った。
「どちら様ですか」
私は急いで立ち上がり、入口の格子戸を開く。すると、そこには制服姿の少女が心配そうな表情で立ち尽くしていた。爽やかな真っ白いブラウスに黒いベストを重ね、短めのベージュのチェックのスカートが制服らしさを引き出している。恐らく高校生くらいであろう彼女は、私に向かって深く頭を下げた。
「連絡も入れず突然お邪魔してしまい、申し訳ありません」
はっきりとした口調で少女は言った。
「今お時間はありますか……?」
「えぇ、どうぞ」
私がにっこりと微笑みながら事務所に招き入れると、彼女は一礼をしてからきっちりと入口の扉をしめ、私の後ろをついてくる。壱弥さんも立ち上がった。それぞれに応接用のソファーに座る。
「ここが探偵事務所ってことはご存知ですか?」
「はい、勿論です。難しい依頼でも受けていただけるんかわからんかったんで、一度相談させていただきたくてここに来ました」
彼女は握りしめていた学生鞄を下ろし、向かいの席に座る壱弥さんの顔を真っ直ぐに捉えている。その目は真剣そのもので、噛み締めた唇から、彼女が緊張をしていることが簡単に読み取れた。
壱弥さんは彼女に向かって笑いかけた。
「そんな緊張せんでも大丈夫やよ。まずは君の名前を教えてくれる?」
私は少女が表情を和らげたことを確認し、お皿に乗せたロールケーキと紅茶を彼女の前に差し出した。彼女はまた頭を下げる。
「ありがとうございます。わたしは、
「そうやよ。僕の事は知ってくれてるんやね」
壱弥さんは彼女に名刺を差し出しながら、それを肯定した。
「そしたら、依頼の内容は?」
「……はい、捜して欲しい人がいるんですけど、手がかりが殆どないんです」
彼女は少し小さい声で言葉を続けていく。
「相手は、祖母に本をくれた人です」
難しいとは言ったものの、話の内容はとてもシンプルだった。
彼女の祖母がまだ十七歳だったころ、彼女に宛てて古書を贈った人がいたそうだ。けれどもそれが誰なのかはわからない。そのため、古書の贈り主を特定し、探し出したいというものだった。
しかし何故、祖母ではなく彼女がその人物を探したいと思ったのか。それは祖母の状況に関係していた。祖母は昨年に認知症と診断されている。そのためか、その古書の贈り主であろう男性の名前を頻繁に口に出すようになってしまった。そして、大事そうに古書を抱えては、彼の姿を求め街を彷徨い歩く。彼女は祖母の身を案じ、男性を見つければ祖母の徘徊行動もなくなるのではないかと考えたのだった。
とても簡単に、依頼内容を告げた彼女は眉を下げ、壱弥さんの表情を窺っている。
「ちなみに、その古書の現物はあるんですか」
「あります。でも、おばあちゃんが大事に抱えてるから持ってくることができんくて……」
「そうですか、それじゃあ何か他に情報は何かありますか?」
「その人の名前が『まさたかさん』っていうことくらいです。漢字も苗字もわかりませんし、年齢も。あと、その本が贈られたのは五十年以上も前の話やから……」
それを聞いて、壱弥さんは難しい顔で口元に手を添える。やはりそれだけの情報では難しいのだろうか。美咲さんは少し悲しい顔でうつむいた。
壱弥さんは続けていく。
「お祖母様は、お話はできる状態ですか?」
「それは、勿論できますけど」
「それなら、一度お祖母様に直接話を伺って、現物の古書を見せていただきたいです。依頼を受けられるかどうかの判断はそれからさせてください」
その言葉を聞いて、彼女の表情が少し明るくなった。
「聞いたら、あばあちゃんはその時のことを詳しく話してくれると思います。やって、その本をくれた人は初恋の人やって言ってたから」
彼女は高らかに呟いた。
――初恋の人。
そのとき、私はその言葉に疑問を抱いていた。初恋の人なのに、彼女はそれが何処の誰なのかわからないというのだろうか。もしそうだとしても、誰なのかもわからない人を好きになってしまうなどあり得ることなのか。恋とはそれほど不思議なものなのだろうか。考えてみても、私にはよく分からなかった。
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