第16話 蘇る古書の記憶


 京都市、下鴨しもがも

 宮河町にある依頼主の自宅を訪れたのは、午後一時を目前にした昼下がりだった。本日の最高気温は三十六度。外を歩くだけでも汗が滲む猛暑日である。しかし、壱弥いちやさんは変わらず涼しい顔で、清潔感のあるアイボリーのパンツとアイスグレーのシャツを合わせ、ネクタイと同じネイビーブルーのサマージャケットをきっちりと羽織っている。ただ、流石にいつもより暑さを感じているのだろうか。少しだけ折り上げられた袖が僅かながらも涼しさを与えていた。

 鴨川沿いに並ぶ枝垂れ柳の葉は、和紙でできたランプシェードのように太陽の光を受けて柔らかく透き通る。河原を吹き抜けていく白南風が、その萌黄色の葉をさらさらと揺らしていた。

 辿り着いた常盤ときわ家は古めかしい洋館だった。純粋な洋風というわけではなく、大正から昭和初期に流行した和洋折衷といった類のものである。洒落た白い鉄格子の門の向こうには可愛らしい草花が揺れ、そのシンプルさと花の香りが建物の色にぴったりと嵌り、特有の雰囲気をより際立たせているように感じられた。幾分か背の高い木の陰に視線を向けると、今まさに一輪だけ切り取った向日葵を携える少女の姿が見えた。

 先日事務所で会った彼女は、朗朗とした口調で年齢よりも大人びた印象を受けた。しかし、桃色の女の子らしいワンピースと肩にかかる真っ直ぐの黒髪が、まだ十六、七歳である彼女の面影を映し出している。

美咲みさきさん」

 私が声をかけると彼女は葉を手折る手を止め、ゆっくりと顔を上げた。私たちの姿に気付いた美咲さんは、すぐにこちらまで歩み寄り手際よく門を開く。

「よう来てくれはりました。何もないところですけど、どうぞお上がりください」

 彼女はにっこりと微笑んだ。

 通された家の中は、どこか閑散と静んでいた。まるで彼女以外の誰もそこに居ないような薄暗さを纏っている。玄関から続く整えられた居間に入ると、美咲さんは切り取ったばかりの向日葵を小さめの花瓶に挿した。それだけで、どこか静かな部屋がぱっと明るくなったような不思議な感覚を作り上げた。

「お祖母ちゃんは向こうの書斎におると思います」

 案内された部屋に足を踏み入れると、祖母と思わしき女性がゆったりとなだらかな椅子に身を預け、静かに本を読んでいた。彼女が落とす視線の先には、優しいセピア色の古書がある。机に積み重ねられている本でさえも古めかしいものではあったが、彼女の慈しむような表情とページを捲る指先の優しさを見ると、手元のそれが思い出の古書であると確信した。

「お祖母ちゃん」

 美咲さんの声を聴いた彼女は視線を上げる。そして私たちの姿を認識すると、柔らかい表情で小さく頭を下げた。

 目の前の彼女の姿に、私ははっと思い出した。

「美咲ちゃん、お友達連れてきたん?」

 ふくよかな白い肌と小柄な身体。そのおっとりとした優しい口調も、鮮明に想起される。恐らく壱弥さんも気付いているのだろう。彼女は紛うことなく、葵橋で古書を落とした老婦だったのだ。

「ううん、お友達とは違うんよ」

 諭すように、美咲さんが言った。

「あら、そうなん?」

「今朝話したやろ。お祖母ちゃんの初恋の相手探してくれはる探偵さんやで」

「そんなこと言ってたやろか」

 しかし、彼女は美咲さんの言葉ですら初めて聞いたかのように首を傾げている。私たちがめいめいに名前を名乗ると、彼女は「はじめまして」と、再度私たちに頭を下げた。彼女の名はすずさんと言うそうだ。徐に立ち上がる彼女の後を追いかけると、広々とした客間へと辿り着いた。

 促されるままに席に着くと、美すずさんは大事に抱えていた古書を机上に置いた。

「今日は暑かったでしょう。よう来てくれはりましたねぇ」

 紡がれる優しい言葉が耳を抜けていく。それを肯定するように頷くと、美すずさんは口元を綻ばせた。

「もうすぐ美咲ちゃんが冷たいお茶を持ってきますからね」 

 それからほんの僅かな時間を置いて、美咲さんが姿を見せた。携えていたトレイを机に下ろし、艶やかなミルフィーユとオレンジ色のアイスティーを私たちの目の前に一つずつ並べていく。

「お口に合うかはわかりませんけど、よろしければ」

 彼女の勧めでよく冷えたアイスティーを一口含むと、爽やかなマスカテルフレーバーが弾け出す。それがミルフィーユの濃厚なカスタードの甘味と絡まって、口の中でとろりと溶けていった。その絶妙な調和を感じていると、沈黙を切るように、美すずさんが口を開いた。

「壱弥くんと、ナラちゃんっていわはったね」

「はい」

「ほんまに、『まさたかさん』のこと、探してくれはるん?」

 その言葉に、壱弥さんは目の前の彼女から視線を逸らさず確かに頷いた。私もそれを真似るように肯定してみせる。

「ですが、手掛かりはその本とあなたの証言だけです。お話を聞かせていただけますでしょうか」

 壱弥さんの問いかけに、美すずさんは「ええ、もちろんです」と答え、当時のことを思い返すように机上の古書を手に取り、その表紙をしっとりと指先で撫でた。

 

 二人が初めて出会ったのは、茹だる真夏の朝だった。まだ少女の面影が残る十七歳の彼女は、毎朝のように万緑の溢れる糺の森ただすのもりを詣で、手を合わせることが日課であった。彼女には、結婚を約束した男性がいた。しかし、それは恋愛の末の約束ではなかった。当時は珍しくもない、政略結婚というものだ。いわゆる名家と呼ばれる類いの家系で生まれた彼女は、掌中の珠の如く慈しみ育くまれた。その結婚が一族を守るための策であったゆえ、美すずさんも納得した上での約束だった。しかし、一度だけでもまともな恋愛というものを味わってみたいという気持ちもどこかに潜んでいたのだろう。

 それでも、彼女は婚約相手が嫌いというわけではなかった。むしろ、非の打ちどころのない程に聡明な人物であった。ただ、反対にそれがまだ夢を見る少女にとっては、どこか物足りなさを感じさせていたのだろう。

 そんな時に出会ってしまったのが、彼だった。

「その日、私がいつも通りにお参りに行ったらね、先に手を合わせてる男の人がいてはったん」

 それを珍しいと思った美すずさんは、自然と彼に声を掛けていた。お願いごとですか、と尋ねた彼女の声に彼は振り返った。後ろから唐突に声をかけられ驚いたのか、彼は目を丸くして美すずさんの姿を見つめていたが、直ぐに穏やかな表情で頷いたそうだ。

 それはとても不思議な雰囲気を纏った二十代前半くらいの青年だった。柔らかい物腰に反して口数は少なく、自分のことを多くは語らない。言葉の代わりにくれる笑顔は魅惑的で、目は細めずに口元だけでふんわりと微笑む姿が、どんな感情でも丁寧に受け止めてくれるような感覚を抱かせた。それ故、何気ない言葉を交わす度に美すずさんは思い初むように、もっと彼の事を知りたいと感じていったそうだ。彼はどんな美すずさんの話にも耳を傾け、質問にも優しく答えてくれたという。

 けれども、彼らは互いに名を知らなかった。名を呼べば、きっと焦がれてしまうに違いない。彼もそれを分かっていたために、名乗ることも彼女の名を問うこともしなかったのだと美すずさんは言った。ただ、毎朝同じ場所でひっそりと彼に会うだけで、彼女は幸せだったのだ。

 二人が言葉を交わしてから一週間が経った日、美すずさんは自分には結婚を約束した相手がいるのだと告げた。その時、彼は少しも驚く様子をみせなかった。それどころか、穏やかに微笑みながら美すずさんの複雑な感情を受け取ってくれたそうだ。

 彼女に微笑みかけながら、青年は言う。

 ――君は政略結婚っていう形式が気に入らんだけなんやろ? それだけ聡明な人やったら、結婚した後もきっと恋はできるはずやよ。

 その言葉を思い返すように、美すずさんはゆっくりと目を閉じた。

「まさたかさんがそう言ってくれた時、確かにそうなんかもしれへんって思ったん」

 そして、再度目を開き声のトーンに合わせ少しだけ視線を落とす。

「でもほんのちょっとだけ不満やったんやよ」

 静かに紡がれたその言葉の意味は、何となく私でも理解できるような気がした。彼の言葉はきっと美すずさんの不安を拭い、そっと背中を押してくれるものだったはずだ。それでも、美すずさんは心のどこかでその人に自分の淡い恋心を受け止めてほしいと思っていたのだろう。

 その翌日、彼は美すずさんに別れを告げた。

 元々彼は京都の人間ではなかった。毎年、この夏の時期の一週間程だけ、この地で仕事をしているそうだった。その仕事が終わったら帰らなければならないのは、仕方のないことで、それを止めることなど彼女には出来なかったのだろう。ほんの少しだけぎこちない会話を交わし、彼は別れ際に優しい露草色の包みを美すずさんに手渡した。また来年の今頃に、此処を訪れると告げて。

「その時にくれたんが、この本やったんやよ」

 美すずさんは私たちにも見えるようにその古書の表紙を向ける。そこには流れるような草書体で文字が記されていた。

「それ以来、その方にはお会いしてないんですか?」

 壱弥さんが問うと、美すずさんは頷いた。

「本当は翌年の同じ頃にもう一度会えるって思っとったんやけど、丁度その時に私の結婚が正式に決まったから、それどころや無くなってしもたん」

 物憂げな表情で、美すずさんは言う。

 彼はきっとあの場所を訪れていたことだろう。彼女を待つ時間が、彼にとってどれだけ長いものだったのかと想像するだけで、胸が苦しくなるようだった。

「もしかして、まさたかさんを傷つけてしまったかもしれんって思って、もう一度会って謝りたかったんやけど……」

 けれども、その翌年もまたその翌年も、彼は姿を見せなかったそうだ。それ以来、彼と会うことはなかったという。


 美すずさんが彼を探したいと思った経緯はよくわかるものだった。約六十年もの歳月を経て、古書を手にした途端、当時の振り払えない靄がかかったような気持ちが蘇ってしまったのだ。きっとそれは彼に会わなければ晴れることはない、そう感じた故だろう。

 私は彼女の話をもう一度整理した。

 古書の贈り主は、夏のひと時だけ仕事のために京都にやってきていた人物で、彼女より僅かに年上の男性だ。そして、口元だけで微笑む笑い方がどこか壱弥さんに似ているという。名前は『まさたか』さん。

 どれだけ考えてみても、それだけの情報では特定の人物を割り出すことは不可能に近い。唯一の有力な手掛かりといえば、彼の名前くらいだろう。

 不意に私は違和感を覚え、美すずさんに視線を向けた。

「そういえば、何でその人の名前が『まさたか』さんやってわかったんですか?」

 確か、互いの名は知らないと言ったはずだ。

 そう率直に尋ねると、隣に座っていた壱弥さんは少しだけ視線を上げた。美すずさんが口を開く。

「それが本当の名前なんかはわからへんけど、この本に出てくる男の人の名前なん。この本の話が、私たちの境遇によう似てるから」

「……なるほど」

 つまり彼女の言うその名はただの憶測で、それは手掛かりにはならない可能性が高いということだ。それなら、何を辿って古書の贈り主を探せば良いというのだろうか。手帳とペンを片手にうんと考え込んでいると、壱弥さんが口元に当てていた手を解く。

「彼が何処から来てた人なんかは、わかりますか?」

「いいえ、言われるまで京都の人やって思っとったから、住んでる場所なんて訊かんかったでね」

 美すずさんが首を傾げながらゆったりと返答すると、壱弥さんはそうですか、と低い声で相槌を打った。それから幾つかの質問を投げてはみたものの、核心を突くような手掛かりは見つからなかった。やはり、古書に秘められたヒントを探す他はないのだろうか。しかし、その思い出の古書は変わらず彼女の手に抱えられている。

 難しい顔で考え込む壱弥さんに向かって、美すずさんは柔らかく微笑んだ。

「もしこの本が必要やったら、どうぞお持ちください」

「よろしいんですか」

 その言葉を聞いた彼は少し驚きながら声を上げた。

「えぇ、調べものが終わった時に返してもらえたらそれでいいんです」

 そう、差し出された大切な古書を私は両手で確かに受け取った。その瞬間、バニラのような甘い古いインクの匂いが微かに鼻先を掠めていく。乾いた紙が指先の水分を浚っていくような感覚と共に古書の独特な手触りを感じていると、壱弥さんの口元がふんわりと滑らかな弧を形成した。

「それなら必ず返しに参ります」

 美すずさんは眩しいものを見るように目を細める。

「また次来てくれた時もお紅茶呼ばれていってくれる?」

「はい」

 私たちは頷いた。彼女の優しい声が湿っぽい空気を振動させ、私の耳を抜けていった。


 美咲さんと契約書を交わしたあと、私たちは預かった古書を持って探偵事務所へと帰宅した。帰り道に購入したアイスコーヒーのカップを机に置いた壱弥さんは、羽織っていたネイビーブルーのジャケットを脱ぎ捨てた。

 私はいつもと同じように真っ白い応接用のソファーに着席する。

「無事に本を借りられてよかったですね」

 彼は頷きながらアイスコーヒーを啜る。

「あぁ、思ったよりも認知症の症状も酷くなかったしな」

 壱弥さんの言う通り、美すずさんとは問題なく言葉を交わすことが出来た。強いて言うなら僅かな物忘れ程度で、私たちと一度会っている事実を憶えていなかったというだけだった。しかし、やはり少なからず記憶障害はあるのだろう。美咲さんは依頼の事を忘れてしまわないようにと、帰り際に壱弥さんの名刺が一枚欲しいと言った。そして、名刺の裏に「まさたかさんの本は春瀬さんに貸しています」と丁寧に記入し、美すずさんに手渡したのだった。

 一息つくと、私は鞄の口を開き、古書が納められたプラスチック製のケースを取り出した。傷つけてしまわないように慎重に本を手に取ると、遠い昔の秘密に触れるような妙な感覚が溢れ、少し躊躇いにも近い感情を抱く。見栄えよく装丁されたその古書をじっと眺めてみると、控えめに記された題名が目に飛び込んで来た。

「雪に……桜」

 それは細くしなやかな草書体だった。私が小さな声で読み上げると、壱弥さんが軽やかに古書を奪い去った。そのまま無駄のない動作で向かい側のソファーへ腰を下ろすと、机上で表紙を開く。


 雪は白く美しい。僕の目に映る山には、故きより神が宿ると言ふ。神は雪積る初冬より散華する暮春までを鮮麗な山野で過ごし、夏季は涼を求め鎮守の森へと降り立つ。そのやうな逸話があつた。雪桜の神は美しい女性だつた。艶やかな黒髪と、雪かと紛ふほどに白い肌は、人ならぬもののやうに感じさせる。


 壱弥さんが読み上げた冒頭を聞くと、それは山の神について綴られた小説であった。随分と昔に綴られたものであることが、その仮名遣いから読み取ることが出来る。更に読み進めていくと、美しい女神にも似た女性が登場した。本文は彼女に見惚れた男性の視点で語られ、主人公が抱く女性への耽美な愛情がありありと描写されていた。たったそれだけで、この物語が恋愛小説なのだとわかる。

 まだ半分にも満たない程ではあるが、さらりと読んだだけではヒントになるような記載は特に見つからなかった。読み疲れたのか、壱弥さんは本から視線を逸らし、大きく伸びをした。

「これ、誰が書いたんでしょうか」

 私が問うと、続けて欠伸をしたあと本をぱたりと閉じる。

「大体は本の後ろに書いてあるもんやろ」

 そう言いながら確認のために開かれた裏表紙には、著者や出版社を示す文字の記述は一切なく、桜の花を模した印が一つだけ押されているだけだった。古いインクである故か、色褪せた赤色が桜の花の色を表しているようにも見える。ところどころ掠れてしまってはいるが、間違いなく中央には桜の花が描かれ、それを凹凸のある円が取り囲んでいた。

 それを目にした壱弥さんはきょとんとした表情を見せる。そのまま次のページを遡ってみても、著者らしき名は書かれておらず、物語の末尾が記されているだけだった。

「これ、もしかしたら贈り主の自作の本なんかもしれん」

 掠れた桜の文様をじっと睨みつけながら、壱弥さんは腕を組む。

「そうやとしたら、この文様が著者を表してる可能性もあるな。例えば家紋とか」

 確かに、どこかで目にしたことが有るようなその文様は白黒で記せば家紋にも見えないわけではない。

「でも、家紋から個人を特定することなんてできるんですか」

「……いや、家紋やと余程特殊やない限りは不可能に近いな。判ってもせいぜいルーツぐらいや」

 彼はそう、自分で立てた仮説を即座に否定する。やはり、古書だけの手掛かりで人探しなど無謀に近いのだろうか。先ほどから喉元に引っかかっている記憶を想起するために、私は少しだけ机に乗り出し、その文様をじっと見つめてみる。

 桜にはどのような意味が潜んでいるのだろう。桜と聞くと、温かい春と儚い美しさを連想させる。その華やかで妖艶な容姿に加え、花期の短さこそがスプリング・エフェメラルを象徴するものなのだろう。ゆえに、桜は日本人に最も愛され、しばしば人を狂わせるとも言われているほどだ。そして、桜を象ったものは世に沢山溢れている。

 私は視線を上げた。

「これ、着物の柄とちゃいますか」

 壱弥さんは私を一瞥すると、銜えていたストローを離し、なるほど、と呟いた。

「この柄の意味を調べたら何かわかるかもしれませんよ」

「っていうけど、確信もないのにどうやって調べるん」

「……着物の事やし、主計かずえさんに聞いてみるんはどうですか」

 私がそう提案すると、彼はソファーに背中を預け、色の無い瞳で頭上を扇ぐ。そして低い声で告げた。

「致し方ないか」

 眉間に皺を寄せ嫌そうにため息を吐いたと思うと、壱弥さんは左手でスマートフォンを操作し、いつの間にか呉服屋の彼の名前を呼び出していた。


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