第17話 雪に桜
何故、真夏の恋物語にそのようなタイトルが付けられたのか。その謎は一読するだけで簡単に解けるものだった。
これは視線を奪う程に清く美しい女性を愛したある男性の物語である。
主人公である「僕」は、真夏になると決まって鎮守の森のある街を訪れていた。その地には故くから「雪桜姫」という神の逸話があった。雪桜姫は、冬は雪深く春は桜が咲き乱れる山に住み、散華する暮春、涼やかな鎮守の森に降り立つという。そこで彼女は一人の人間の男性と恋をした。しかし、神が人間と結ばれるなど有りもしない夢想で、終に男性は人間の女性と祝言を挙げる。その事実を知った雪桜姫は嘆き哀み、いつしか涙が雪へと変わり、真夏の街に真っ白な雪が降り注いだ。それは散っていく桜花のように、とても美しく幻想的だったという。
僕が逸話の残る鎮守の森を詣でた時、そこで雪桜姫のように端麗で白皙の女性に出会った。一目で恋に落ちた僕は、彼女に会うためだけに毎朝この森に足を運ぶ。しかし、二人はただ他愛のない会話を繰り返すだけであった。もしも胸の内に秘めた想いを彼女に伝えることが出来たのなら、どれだけ幸せだったのだろう。堂々と愛を紡ぐが出来たのなら、僕はこの街に留まることもできたはずだ。それが出来なかったのは、彼女が名家の令嬢であったことが理由だった。そして彼女には立派な婚約者がいた。その事実こそが僕を臆病にさせた。
彼女の可憐な笑顔が僕の視界を眩ませる。鈴を転がすような声が聴覚を狂わせる。彼女が纏う淡い香りが嗅覚を鈍らせる。白雪のような肌に何度触れてみたいと思っただろう。それでも、手を握ることすらも許されない僕は、無垢な彼女の笑顔を前にただ強く拳を握るだけだった。そうして、僕の恋心は真夏の陽炎のようにゆらゆらと揺らめきながら散っていった。
彼女への愛情を押し殺し続けた僕は、街を発つ早朝、彼女に別れを告げる。その朝は八月とは思えない程に冷え込んだ。
僕は「来年もまたこの場所で」と彼女に告げる。すると彼女は白い頬を柔らかく染め上げ、美しく微笑んだ。きっと彼女は婚約者の男性と結ばれ、幸せな未来を歩んでいく。彼女に会えることはもう無いのだと悟った僕は、彼女の姿を忘れるために嗚咽を漏らし続けた。その悲哀に呼応し逸話を映すかの如く、森には静かに雪が降り注いだのだった。
丁度正午を折り返した頃、シンプルな藍鼠の
「すいません、遅なってしもて」
心地の良いリズムで下駄を鳴らしながら私たちの側まで歩み寄ると、彼は落ち着いた低めの声で謝罪した。私の向かい側に座っていた
「ええよ壱弥兄さん。僕、ナラちゃんの隣に座るから」
そう告げると、彼は滑らかな動作で着物の袂を払い、躊躇いなく私の隣に腰を落とす。
「あぁ、そう」
にんまりと笑う主計さんに、壱弥さんは呆れた顔で頭を掻きながら同じ場所に座り直した。
「ナラちゃん久しぶりやね」
そう、主計さんは柔らかい陽射しのような笑顔で首を傾げながら私の顔を覗き込んだ。彼に会うのは六月のあの特別任務以来になる。ふんわりとした栗色の髪は季節に合わせて短く整えられ、夏らしさを印象付けている。長い睫毛と大きい瞳が印象的な顔立ちは変わらない。しかし、彼の発する想像以上に低い声が短い髪と重なって、彼が六つも年上の男性であるということを再度認識させるようだった。
「お久しぶりです、主計さん」
「こんなところまで来させてごめんね。遠かったやろ」
申し訳ないと言った彼の台詞に、私は頭を横に振った。
「全然遠なかったです」
「ありがとうね。ナラちゃん、相変わらず優しいね」
彼は淡く微笑みながら、私の髪に手で触れる。その頭を撫でるような仕草に一瞬どきりとしたが、どうやら髪が不自然に絡まっていたらしく、それを綺麗に直してくれたようだった。その彼の動作と褒め言葉に、少し面映ゆい気持ちを抱きながら私は目線を伏せた。
「……ありがとうございます」
「また機会あれば着物見立てさせてね」
ぎこちなく礼を告げると、彼は店内の空気に溶けるように静かに呟いた。
このモダンで静穏な店は、かつては芸妓として有名だった女性が営む茶屋であったそうだ。その名残から豊富な茶や和の軽食を楽しむことも出来る。しかし、やはり名物の逸品といえば、職人さんが切り出す天然氷から作られたかき氷だろう。そのような会話を交わした後、主計さんは抹茶宇治金時のかき氷を、私は八月限定の無花果のかき氷を注文する。しかし、壱弥さんはそんな会話など関係ないと言うように、温かい珈琲を指定した。
「そういえば、電話で言ってた僕に聞きたい事って、壱弥兄さんの仕事に関係する内容?」
メニューを閉じて視線を上げた主計さんが、真面目な顔で彼に問いかける。
「あぁ、主計に見て欲しいもんがあるんや」
壱弥さんは淡々とそれだけを告げると、昨日借りたばかりの古書を鞄から慎重に取り出し、主計さんの目の前に差し出した。開かれたページには、あの桜を模した文様が印されている。主計さんは古書を覗き込み、掠れた桜の文様を見つめながら口元に手を添えた。
「……これは『
主計さんの言葉を耳に、壱弥さんは少しだけ表情を和らげた。
「その文様が、この本の著者を示してるんやないかって思て調べてるんや」
「なるほど、
そう文様を指先でなぞりながら、主計さんは淡い笑みを浮かべている。その彼の言葉を肯定するように、壱弥さんはあぁ、と小さく頷いた。
この古書に関する詳しい説明は一切されていない。それが保護するべき個人情報に当たるものだからである。それを分かっていてか主計さんは一切踏み込もうとはせず、壱弥さんのかける言葉にのみさらりと答えていく。
二人の交わす落ち着いた会話が、店内の静寂と相まって、どこか余裕のある大人の魅力を感じさせるようだった。
「それで――」
壱弥さんが口を開くと、ふわりと漂い始めた珈琲の芳しさが注文の品の到着を知らせ、会話を遮るようにテーブルに届けられた。目の前に並ぶ冷たいかき氷には温かいほうじ茶が、苦い珈琲には甘いショコラが添えられている。
溶ける前にと、私たちは木製のスプーンを手に取った。その土色のスプーンを差し込む度に、水を含んだ雪を踏むような、しゃりしゃりとした音が鳴る。そして、果肉の入った艶やかなシロップと絡まり合う繊細な氷を掬い、口の中へと運んでいく。その瞬間、氷は綿菓子のように蕩け、無花果の甘さとプチプチとした独特の食感が口内に広がっていった。その陶酔するほどの甘さが、私の頬をも蕩けさせていく。
私の緩んだ顔を見てくすりと笑う壱弥さんは、湯気の立つ珈琲をスプーンでふんわりとかき混ぜてから一口味わい、ゆっくりと口を開いた。
「さっきの続きやけど、この文様のことを知ってる限り教えて欲しいんや」
その問いかけに、主計さんは口に含んだ氷を飲み込んだ後、返答する。
「……参考になるかはわからへんのやけど、簡単な説明くらいやったらできるよ」
「あぁ、頼むわ」
ふわふわな私の心とは対照的に、壱弥さんは鋭く締まった低い声で告げた。
少し遅れながらも頭を下げると、主計さんは長い睫毛が縁取る大きな目をしばたたかせながら私たちを見やり、またにっこりと微笑んだ。
――
私はその音を確かめるように復唱した。
手元の甘味をじっくりと嗜みながら、主計さんの心地よい声音と紡ぐ言葉に耳を傾ける。
「『雪輪桜文』はね、名前の通り『雪輪文』と『桜文』を合わせたものや。真ん中の花は桜って直ぐわかるやろ? それを囲んでるんが、雪の結晶を文様化したものやよ」
彼はゆっくりと言葉を落としていく。
古くから豊年の兆しとして尊ばれていた雪が初めて文様化されたのは、室町時代のことである。定かな形のない雪は、何かに託して表現するしかないとされ、当時は『雪持ち文』として能装束に使われていたそうだ。それが六弁の雪輪になって一般の着物にも染められるようになったのは、江戸時代初期と言われている。そして、雪の結晶の観察記録『
主計さんはそう説明してくれた。呉服屋さんともなれば、これほどの知識さえも滑らかに引き出せるものなのだろうか。
「この周りの輪は雪を表したものなんですね」
確かめるように言うと、主計さんは静かに頷いた。
「雪と桜って聞いたら季節がちぐはぐやと思うやろ。でもそれにもちゃんと込められた意味はあるんやよ」
「意味、ですか……」
「うん。例えば、『雪輪桜文』が描かれた衣装が登場する作品に『
そう言いながら、彼はスプーンで手元の氷の山を崩していく。
「それはどんな話なんですか?」
「簡単に言うと、
つまり、動き出した鼠が絶体絶命の雪姫を救い出す奇跡が、超常的であることを意味しているのだろう。その彼女が召す鴇色の着物に、雪輪桜文が描かれているそうだ。
超常的な出来事と言えば、思い当たるものがあった。──この古書の内容だ。真夏に散る桜の如く降る雪の景色は、季節を越えた描写であり、まさに超常的と言うに相応しい。
「桜の如く降る雪……ね……」
古書の内容を少しだけ告げると、主計さんが頭上を仰ぎながらぽつりと溢す。そして、何かを思い出したように「あっ」と唐突に声を上げた。
「何か分かったか?」
腕を組んで話を聞いていた壱弥さんが問う。
「ううん、大したことやないかもしれへんけど、思い出した和歌があってな」
「……和歌?」
「壱弥兄さん、古典文学は苦手やったっけ?」
訝しい表情の壱弥さんに、からかうような笑みを浮かべながらも、主計さんは思い出した和歌を口遊んでくれた。
み吉野の 山辺にさける 桜花 雪かとのみぞ あやまたれける
その和歌はさやかに流れていく。
「――古今和歌集ですね」
「うん、正解。古今和歌集巻第一、
私がそれを言い当てると、彼は穏やかに微笑んだ。それと同時に、壱弥さんは不思議なものを目にしたように眉をひそめる。
「その『み吉野』って、奈良の吉野山のことか」
「そやね。吉野山って、雪と桜が有名な山やから」
昔から、吉野山の冬は雪深いことで有名であった。そのため、山のふもとに咲く一面の桜が雪なのではないかと見間違えてしまう、そう詠ったものだ。
説明を加えた主計さんは、手にしていた木製のスプーンを器の縁に置いた。
「例えば、著者が奈良の吉野町と所縁の深い人物やとは考えられへんやろか」
そう、真剣な面差しで壱弥さんを見やる。主計さんの提示した推理を吟味するように口元に手を添えながら、壱弥さんは視線を落とした。
「確かに雪と桜は吉野の象徴や。でも、その推理やと対象が曖昧すぎる」
著者が名前の代わりに出身地の象徴を記すとは思えない上に、それだけでは到底個人の特定などできるはずがない。彼がそう否定的に告げると、主計さんは少し残念そうに眉を下げた。
ずっと開かれたままの古書に視線を向ける。この印が落款の役割していると思えば、文様が示すものは何か。それはやはり、単純に「名前」を表していると考えるのが妥当だろう。
じっくりと考え込んでいた主計さんが顔を上げる。
「一つ思っとったんやけどね」
そう、彼は滑らかな手つきで古書を取った。
少し色褪せたセピア色の表紙、やや丸みを帯びた背表紙、きっちりと角の揃った小口と、手の中で古書を回しながら順に観察していく。そして最後に本文をぱらぱらと捲ったあと、真っ直ぐな目で壱弥さんを見据えた。
「この古書、一冊だけ手で製本されたものやと思うんやけど、素人がしたものとちゃう気がするねん」
壱弥さんに古書を差し出すと、彼はそれを左手で受けとった。
主計さんが言いたいのは、この古書を作った人物は製本の知識や技術を持っており、素人ではない、ということだ。
壱弥さんもまた、主計さんと同じように古書を隅々まで見渡していく。
「それは一理あるな」
どこからどう見ても、きっちりと製本が施されたものなのだ。それなのに、出版社や製造日どころか著者の名前さえも記されてはいない。
もしも本当に巻末の文様が著者の名を表しているものであるとすれば、それは何か。
「――そしたら、『吉野』さんっていう本屋さん探したらどうやろ」
ふと思い付いたことを私が告げると、二人が此方に視線を向けた。
雪に桜で「吉野」。その象徴を示す、洒落のようなものだ。
「なるほど……吉野さんね」
「あぁ、そう言えば
壱弥さんはまだ温かい珈琲を片手に、ゆっくりと呟いた。
「でも、西陣ってめっちゃ京都市内ですけど」
「京都の人やないっていう条件には合わんけど、昔はどうやったかわからへんやろ。行ってみる価値はある」
そう強かに紡がれた壱弥さんの台詞に、そうですね、と私もまた強く頷いた。
入り口の暖簾を潜って店を後にすると、蒸し暑い空気が身体を包み込んだ。先程まで嗜んでいた涼が、即座に奪われる。しかしその生温い空気さえも、いつもの事だと思ってしまえば直ぐに慣れていった。
主計さんは纏う夏紬の袖を直し、壱弥さんに小さく会釈をした。
「それじゃあ兄さん、また近いうちに連絡すると思うからよろしくね」
「あぁ、時間取らせて悪かったな。
壱弥さんも応えるように左手を軽く挙げながらそう呟いた。私も礼を告げ、主計さんに向かって深く頭を下げる。すると、彼はにっこりと微笑んだ後、何かを思い出したように懐からスマートフォンを取り出した。
「そう言えばナラちゃん、電話番号聞いといてもええ?」
その問い掛けに、私は直ぐに頷いた。
「勿論です。私も是非、教えてください」
主計さんはゆっくりと番号を打ち込みながら、「今度一緒に何処か行こね」と私に優しく囁いた。
私達は花見小路で主計さんと別れ、四条通りを東に進んでいた。込み合う人の流れを避けながら、足早に歩いていく壱弥さんの後を追いかける。
時刻はまだ午後一時を過ぎたばかりであり、調査を続けるには十分すぎる時間だった。そのため、私はそのまま西陣の「吉野書房」を訪れるものだと思っていた。しかし、彼の目指す方角の先にはいつもの探偵事務所がある。
「今日は本屋さんにはいかへんの?」
祇園交差点の信号が青に変わる。
そのまま
「確かあの本屋、今日は休みやったと思うで、行くのは明日や」
「え、また明日なん?」
私はがっかりと肩を落とした。
昨日、今日とこの依頼に携わり、長期休暇中のレポート課題がまるで進んでいない。明日こそはその課題の一つをきっちりと片づける予定だった。
「じゃあこの後は?」
「俺は他にもようけ仕事あるから、事務所に帰るけど」
「それやったら私も明日一緒に本屋さん行きたいし、今日は大学で課題してくるわ」
私の言葉に、壱弥さんは怪訝な表情をした。
「一応言うとくけど、別にお前の事雇っとるわけとちゃうし、無理に依頼の手伝いしてもらわんでもええんやで」
そう、真っ直ぐに前を見ながら、吹き抜ける夏疾風が乱す黒髪を掻きわける。
「大学のことも忙しいやろうし」
耳の奥に響くような低い音吐で告げられた台詞に、私は彼の後ろ姿を見上げた。その言葉は私への優しさなのだろうか。それとも、間接的に足手まといだと伝えたいだけなのだろうか。
考えれば考える程に不安が膨らんでいく。それを振り払うように、私は首を振った。
「それなら、形だけでもいいんで私のこと雇ってください。そんな役にたたへんかもしれんけど、ちょっと手伝うくらいやったら出来るし」
強く走り抜ける涼風が、周囲の音を遮断する。
壱弥さんは少し拍子抜けた様子で私の顔をじっと見つめた後、唐突に目線を逸らし小さく噴き出した。
「まさか、そうきたか」
「え?」
声を上げながら揺らしていた肩を呼吸と共に整えると、彼は
「ナラが手伝ってくれるんは正直助かってる。でもこのまま事務所外の人間に無報酬で手伝ってもらうんは、色々問題があってな」
「それやったらもっと早く言ってくれたら」
「……そんな簡単な話やないんやよ。今は穏やかな依頼ばっかりやけど、よくない内容やってあるし」
よくない、とはどういうことだろう。質問をかける間もなく、壱弥さんは言葉を続けていく。
「でもまぁ望んでくれるんやったら、雇ったるわ」
彼は美しい琥珀色の瞳を輝かせながら、優しく微笑んだ。
事務所に停めていた赤い自転車で大学に向かい、漸く課題を終えた私は北白川にある自宅へと向かっていた。周囲は既に暗い夜に包まれている。
今出川通を真っ直ぐに走っていると、ライトに照らされた人影がゆっくりと動くのが見えた。それを避けようと自転車の速度を落としていく。徐々に近づいていくと、その人影が見覚えのある人物であることに気が付いた。
ふっくらとした白い肌に、小柄な体格。
何かを大事に抱えたまま歩く彼女は、あの古書の持ち主――
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