第22話 唐獅子牡丹に眠る


 京福けいふく電鉄、嵐山あらしやま駅より徒歩数分。旧邸宅を改装した純和風庭園を持つ風雅なカフェがそこにあった。

 門邸を潜った先に見える外壁は、華やかな黒牡丹の画で彩られ、人の心を捉える確かな美しさを秘めている。一方、店内は高級旅館のような静穏さを纏い、時間を忘れてしまうほどの安寧を生み出していた。

 静かな座敷席で軽食と甘味を嗜んだ私たちは、根の生えかけた重い腰を上げ、「観月の夕べ」が開催される大覚寺だいかくじを目指して歩き始めた。

 季節を問わない観光名所でもある嵯峨さが嵐山は、常に多くの人々で溢れている。その合間を縫いながら進み、漸く緩やかな足取りで歩くことができるようになった場所で、主計かずえさんはふと私を見下ろした。

「静かでええところやったね」

 視線が重なった瞬間、彼は柔らかく目を細め、私に微笑みかける。

「はい、あのロールケーキ、いっぺん食べてみたいと思ってたんです」

「そっか、喜んでもらえてよかった」

「雰囲気も良いし、牡丹の襖絵も綺麗でした」

 私の言葉を聞いた彼は、何かを思い出した様子で口を開く。

「そや、その牡丹の襖絵やけど、一緒に何が描かれてたか覚えてる?」

 その質問に、私は先ほどまで目にしていた襖絵をぼんやりと思い返した。

 柔らかい象牙色の襖紙に、大胆に綻ぶ大輪の白牡丹。そしてその傍らには、牡丹と同じ白色のライオンが身を休めている。アクリルガッシュで彩られたその図柄を思い出した私ははっとして、視線を上げた。

「――唐獅子牡丹からじしぼたん、ですね」

「うん、正解」

 主計さんはまた、ふんわりと微笑んだ。

 唐獅子からじしとは、私たちが知るライオンのことである。

 獅子図柄のルーツは、正倉院裂しょうそういんぎれの「樹下動物文」に遡る。当時、実物を知らぬ日本人は、獅子ライオンは架空の動物であると信じていたそうだ。それがアフリカ、西アジアから中国を経て日本へと伝わり、和風化される過程で極端に意匠化され、唐獅子と呼ばれるようになったのだという。

 勇壮の象徴である百獣の王「獅子ライオン」に、百花の王と呼ばれる華やかな「牡丹」。その二つを合わせた「唐獅子牡丹」とは、縁起の良い取り合わせを表す喩えであった。しかし、その両者の関係性は想像よりも深く、麗しい図柄に秘められたメッセージは、単なる縁起物で終わるものではない。そう、主計さんは告げる。

 ならば、その意味は何であるのか。

「百獣の王って言われる獅子ライオンにも一つだけ恐れるものがあってね、それが『獅子身中しししんちゅうむし』っていわれるものや」

 獅子身中の虫、それは獅子の体毛に寄生して増殖し、やがて肉を食らう害虫のことである。恩を仇で返すことの喩えとしても使用される故事ではあるが、それも元は仏典から出た言葉なのだという。

「でも、その害虫は牡丹から滴る夜露に当たると死んでしまうねん。やから、獅子にとっては牡丹の下が安住の地で、依所よりどころになる。『唐獅子牡丹』に秘められたメッセージは『あなたの依所は何ですか』なんやて」

 もしかすると、唐獅子牡丹の描かれたあのカフェには、私たちにとっての依処となり得るような穏やかな場所でありたい、そんな願いがあるのかもしれない。

 彼は栗色の髪を揺らしながら、私の瞳を覗き込む。

「ナラちゃんの依所は、もう見つかってる?」

 低く優しい声音で呟かれた言葉を聞いて、私は自分自身に問いかけるように思考を巡らせた。

 ――私にとっての心の依所とは、一体どこに在るのだろう。



 大通りを右折し東に進んだ左手に、緑に囲まれた砂利道が姿を見せた。その拝観入口の端には大きく「観月の夕べ」の開催を知らせる立看板が設置されている。そこから視線を右へと滑らせた傍らに、上品な淡い水色の着物を召した女性が一人、俯きながら佇んでいた。艶やかな黒髪は着物に合わせて丁寧に纏められ、大和美人を印象づける清らかさに包まれている。年齢は三十代前半だろうか。長い睫毛の伏し目と、その目尻を彩る紅が、艶のある色気を含んでいた。

 その女性らしい姿に見惚れるように見つめていると、隣で主計さんが驚いた声を上げた。

「主計さんのお知り合いですか?」

「うん、大学時代の先輩の奥さんや」

 彼が声を掛けると、女性は視線を上げる。そして、天女の如くふんわりと表情を和らげた。

「主計くん。お久しぶりやね」

「お久しぶりです、栞那かんなさん」

 小さく会釈を交わし、彼らは互いに名前を呼び合った。二人の姿を見ると、幾らか顔の知れた関係であることがわかる。

「ほんま、こんなとこで会うとは思わへんかったわ。こちらは主計くんの彼女さん?」

 彼女は傍らの私へと視線を移し、当然のように問いかけた。その質問にどう返答するべきかと狼狽えていると、主計さんは僅かに目を細め、静かに口を開く。

「彼女やったらええんですけどね」

 その台詞とともに私を一瞥した彼は、再度、栞那さんに視線を戻し笑みを携える。

 嫌味のない声色で呟かれる言葉は、恐らくは単なる社交辞令の一つに過ぎないのだろう。それなのに、核心をぼかすような曖昧な台詞のせいで、私は妙な心の乱れを感じていた。

 やはり、彼が空気のように纏う涼やかな雰囲気は、発する言葉の本当の意味を包み隠してしまうほどの妖しさを秘めている。そしてそれは、時に人の心を惑わすほど、魅惑的なものなのだ。

 主計さんの返答に、彼女は呆気にとられた顔を見せた。

「彼女さんとちゃうん?」

「そうですね、この子は壱弥いちや兄さんとこの大事な助手さんですから」

 彼が告げる事実を聞いて、納得するように栞那さんは小さく手を叩いた。

「なるほどね。助手さんがおるってことは春瀬はるせさんにも伺ってたけど、こんねん若い子やとは思わんかったわ」

 そう、彼女は私を好奇の目でじっくりと撫でた。向けられた視線とその表情を窺いながら、私は自身の名を告げる。

 それに答えるように、彼女もまた名乗りを唱えた。

「私はくすのき栞那と申します。どうぞよろしくお願いします」

 話によると、彼女はそう奏者で、普段は教室を開き生徒たちに筝を教えている先生だそうだ。一見、壱弥さんとの繋がりなど全くないように感じるが、その疑問はすぐに解かれる。

「実は先月、主計くんに春瀬さんのこと紹介してもらってね。明日、約束してるんですよ」

 つまり、明日、壱弥さんの探偵事務所を訪問する予定であるということだ。どんな内容の相談なのかはわからないが、きっと壱弥さんは今頃、その依頼に備えて様々な準備をしているのだろう。書類の作成に、必要事項の事前調査、そして大まかな計画の立案。私たちと共に外出をしている暇などないことは明白であった。

 そう考えていると、私はある事実に気が付いた。

「……もちろん主計さんも、このことはご存知なんですよね」

 彼は口元を緩ませる。

「相談内容までは知らんけどね」

 髪と同じ栗色の瞳が、何かを目論むように僅かに鮮やかさを増した。

 もしかすると壱弥さんの言う通り、彼は少し意地悪な人なのかもしれない。

 私の心情を悟ってか、小さな笑みを私に送ったあと、主計さんは栞那さんに問いかける。

「今日は演奏会でもあるんですか?」

「えぇ、中秋の名月やからね」

 演奏家としても活動をしている彼女は、観月祭の一環で開催される演奏会に参加することになっていた。その演奏会にむけた稽古や教室で忙しく、纏まった休みをとることが出来ずにいたそうだ。それが、主計さんの紹介を受けてから相談に至るまで、大きく期間が開いてしまった理由であった。

「その演奏会、のぞむさんはいらっしゃるんですか?」

 主計さんが尋ねると、栞那さんは表情を曇らせる。そして静かに首を振った。

 彼女は潤みのある瞳で手元を見つめながら、声を落とす。

「あの人は来いひんよ。ほんまは来るはずやったけど、さっき仕事が入ったって連絡あったから」

 残念ですね、と彼女の心情を代弁するように静かに主計さんが告げた。

「でも仕方ないとは思ってるんやよ。彼もアーティストの端くれやし。仕事で忙しいってことは、順調やってことやろ」

 紡ぐ言葉の意味に反し、その声音には明らかな悲しみを含む。

「ほな、そろそろ戻らなあかんので行きますね。ナラちゃん、明日はよろしくお願いします。主計くんもまた」

 どこか釈然としない心地で離れていく和服の後ろ姿を見送ったあと、私たちは二隻の舟が浮かべられた大沢池おおさわのいけに向かって、砂利道を歩き始めた。




 頭上に広がる空模様と同じ、なんとなく晴れきらない心を抱えながら、私は探偵事務所の扉を静かに開いた。

 清潔感のある事務所のデスクには、深いブラウンのネクタイを締め、秋らしいカーキ色のスーツを纏った壱弥さんが着座していた。目の前のPCモニターを真っ直ぐに捉え、考え事をするよう口元に指を添えている。

 私の訪問には気付いていないのだろうか。そう疑問に思ったが、そのしなやかな長い指が動き、同時に、初めから私の存在を認識していたかのように、滑らかに視線を上げた。

「おはよう」

 いつもと変わらない声で発せられた文言に、少しだけ安堵した。

 しかし、事務所内をぐるりと見渡せば、昨日の記憶が蘇り、脳裏を掠めていく。知らない女性の影と、高らかな声。

 その頭中で再生される歪な映像を掻き消すように、壱弥さんの声が静かな室内に響き渡った。

「──昨日は楽しかったか?」

 黒いオフィスチェアから立ち上がった彼は、私の背後を颯爽と通り過ぎ、応接用の机に置かれていた書類を手に取った。

 掻き回される室内の空気に乗って、いつもと同じ白百合のような甘い香りが届く。それを感じることで、漸く心を落ち着かせることができた。

「はい。天気も心配でしたけど、ちゃんとお月見できましたよ」

「そうか、雨降らんくてよかったな」

 そう、壱弥さんは抑揚の弱い声で呟くと、書類の角を揃え、硝子机の下の収納スペースにしまう。

 私は空いていた応接用のソファーへと腰を下ろした。

 その直後、鞄の中のスマートフォンが短く音を立てた。取り出した端末の画面に灯りをともすと、一件のメッセージが届いている。

 ふと私の手元を見下ろした壱弥さんは、怪訝な表情で、画面を指差した。

「何それ、スマホの画面割れてんやん」

「そうなんですよ、壱弥さんと喋ってる時に道路に落としたことあったやん。あの時にひび入ってしもて」

「あぁ、あったな」

 彼に向かって痛々しい画面を見せる。

「はよ買い換えなや」

 とは言うものの、実際にはひび割れた画面が時々軋んだ音を立てる程度で、操作上の大きな問題はない。見た目が恐ろしく不穏なだけで、すぐに買い換える必要もないのが事実であった。

 彼は興味深くその画面を見つめながら、徐に口を開く。

「ってか、主計からメッセージ来てるで」

 その指摘に、私は差し出していたスマートフォンを引っ込めた。そういえば、つい数分前に彼に返事を送信したところであった。

「ほんまや」

 私の姿を横目に見ながら、壱弥さんは緩んだネクタイを整え、向かい側の席に着いた。

 メッセージを知らせるアイコンを、右手の指でタップする。

「……そう言えばナラ、主計のことは好きか?」

 パキリ、と触れた指先の下で、ひび割れた画面が不快な音を立てた。

 ゆっくりと顔を上げ、彼に視線を送る。

「気は合うやろ。お前のこと気にかけてくれてるみたいやし、ちょっと可愛げはないけど、信用できる奴や」

 どうして突然、そんな話をするのか。私には理解が出来ない。

 眉を下げたまま、私は凍り付いていた唇をゆっくりと動かした。

「私は」

 声を発すると同時に、事務所の入り口の呼び鈴が鳴った。壱弥さんは小さく息を吐き、立ち上がる。

「もう十時か」

 扉を開いた先には、女性らしいワンピースを召した栞那さんの姿があった。



 甘いモンブランケーキに、温かいアッサムで淹れたミルクティーの完璧なマリアージュを前に、壱弥さんは机の下にしまっていた書類を机上へと滑り込ませた。

「こちらが約束の書類です。説明は話の後にさせていただきますね」

 黒い革張りの手帳を開き、瑠璃色に輝く愛用の万年筆を左手に携える。

 やや緊張気味に背筋を伸ばす栞那さんに優しいミルクティーを勧めると、彼女は頭を下げ、ティーカップに口をつけた。コクのある深いアッサムの風味を嗜み、漸く固い表情が和らいでいった。

 やはり、探偵事務所という特殊な場所を訪れることは、少なからず緊張を伴うものなのだろう。また、持ち込んだ依頼が彼女の今後を左右するものであることも、緊張感を高める一つの要因であった。

 今回依頼は、彼女の夫・くすのきのぞむの浮気調査である。

「まずは、あなたが浮気を疑うようになった理由を聞かせていただけますか」

 その言葉を合図に、彼女は強く頷いた。

 夫婦には五つの年の差があった。夫である望さんは書を揮毫する書家で、街並みや和の雰囲気を大切にするこの古都では、ある種のデザイナーとしても活躍する人物である。彼のような者を、近年では「デザイン書家」とも称するそうだ。

 彼が順風満帆な道を歩み始めたのは、一年ほど前のことだった。その頃より、彼の帰宅時間は少しずつ遅くなるようになっていったという。状況を考慮すれば、当然とも言えることだった。しかし、彼女が疑念を抱くようになった理由はそれだけではない。

「休日に、出先から帰宅する前に、喫茶店で若い女性とお茶したり、親しそうに話してる姿を何度か見かけたことがあります。それが誰なんかはわかりませんけど、私よりも若くて、綺麗な女の子で……」

 壱弥さんは眉間に皺を寄せながら、彼女の証言を書き留めていく。

「勿論、喫茶店や食事処で仕事の打ち合わせをしてる可能性もあります」

 ただ、そう思い込もうとしても、彼女は不信感を拭うことが出来なかった。もしかすると、本当にただの仕事上の付き合いの人物なのかもしれない。それでも、その女性と接する夫の姿は、年上の妻と接するそれよりも瑞瑞しく、生気に溢れた表情をしているように見えた。それが彼女の言い分だった。

「それに、最近はよく予定を変更したり、私との約束をキャンセルするんです。彼は急な仕事が入ったとか、打ち合わせがどうとか言ってますけど、そういう疑いの目を持つと色々嫌なことばっかり想像してしまって……」

 栞那さんは視線を落とし、言葉を濁す。

「昨日なんて私の演奏会の予定までキャンセルしたんです。久々に来てくれるっていうから、ずっと楽しみに稽古してきたのに」

 彼女の表情は暗く、昨日の出来事を酷く悲しんでいるようだった。

 静かに話に耳を傾けていた壱弥さんが口を開く。

「他に何か気付いたことはありますか?」

「えぇ、あともう一つだけ」

 そう、鞄の中から一枚の紙きれを取り出すと、彼女は未だ手を付けていないケーキが乗った皿を避け、私たちの目の前に置いた。

 それは美しい藍色が映える、雲紙の短冊であった。一度くしゃくしゃに丸められたような皺の刻まれた和紙には、墨で滑らかな崩し文字が記されている。筆跡は、初めから最後まで弦のように凛と張りつめ、細部に渡り安定した美しさがある。壱弥さんはそれを手に取った。

「これはご主人の書ですか?」

「はい、夫の書斎で見つけたものですから」

 彼の手元を覗き込みながら読めない崩し文字と睨み合う私たちに向かって、彼女は声を放った。


 命やは 何ぞは露の あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに


「そう、書いてあります」

 唱えられた和歌に、壱弥さんはあからさまに難しい顔をした。栞那さんは淡々と言葉を続けていく。

 命、それがなんだというのだ。露のように儚いものではないか。逢うことに換えるのなら、惜しくはないのに。

 ――それは、愛しい人に逢いたいと嘆く恋の歌であった。

「これは、夫が愛人に向けて書いたものやと思います」

 悲しみの色に満ちた瞳で短冊を見つめ、彼女は膝の上で強く拳を握る。その深い感情を隠すよう、呼気とともに静かに手を解き、再度温かいミルクティーを口へと運んだ。

「事情はよくわかりました。お話しいただき、ありがとうございます」

 壱弥さんの低い声が室内に響く。私は隣に座る彼の横顔に目を向けた。

 依頼者と言葉を交わす際、探偵は優れた洞察力で依頼者の言動を観察し、その真偽を見極めるという。前に彼から直接教わったことではあるが、嘘を吐く人間には幾つかの特徴が存在するそうだ。そうした相手の言動や声の調子、目の動きから嘘を見抜き、最終的に依頼を受けるか否かの判断を下す。

 壱弥さんは私の視線に気づき、流し目でこちらを見遣ると、僅かに口角を上げた。そして、傍らの契約書つまみ上げ、机上に広げていく。

 それは、契約を結ぶという意思表示だった。


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