第四章『路地裏の月影』

第21話 秋萩と夕露


 古くから日本では、春と秋のどちらが優れているかを競う雅な風習があった。それは「春秋優劣論しゅんじゅうゆうれつろん」と呼ばれ、現存最古の和歌集である「万葉集まんようしゅう」では、歌合うたあわせの起源とも言われる文学的競技の題目として起用されている。しかし、「万葉集」以前の「春秋優劣論」は、農耕における豊作を祈願する予祝行事としての意味が大きかった。平安時代になるとその面影は失われ、単に貴族の間でなされる風流な遊びへと変化していったそうだ。

 ところで、この長い歴史のある「春秋優劣論」はどちらに軍配が上がっているのだろうか。遡ると、日本では圧倒的に秋に心を寄せるものが多いのだという。今でこそ、秋は物寂しさを印象づける季節と思われがちではあるが、当時はとても華やかで潤いのある季節として愛されていた。

 また、秋は大気が澄み空が高く見えることから、最も月が美しい季節であると言われている。ゆえに、現代においても月見という文化は色濃く残り、中秋の名月には大勢の人が夜空を見上げ、月の美しさに感嘆の声を漏らし、あるいは美酒を嗜み、美曲に浸る。その穏やかな時間こそが、人々の心を癒し、安らぎを与えてくれるのだ。











        路地裏の月影つきかげ











 薄墨を刷いたような曇天が、薄く高く広がっていた。僅かな雲間から顔を見せる淡い水色の空が、雨は降らないことを示している。

 九月十五日の午前九時前、自宅を出発した私は、知恩院ちおんいん前で市バスを降り、行き付けの和菓子屋「清洛堂せいらくどう」の入り口をゆっくりと開いた。

 もう九月も中旬であるというのに、京都の町には厳しい暑さが残る。夜になると幾分かは涼しさを感じるようにはなったものの、昼間は外を歩くだけでその蒸し暑さが纏わりつくようだった。

 暑さを避けるように滑り込んだ店内は、予想より遥かに多くの客で賑わっていた。一呼吸を置いて列の最後尾に並び、何を買おうかと思考を巡らせる。

 「清洛堂」は創作和菓子を主に、豆大福やどら焼きなど定番の菓子まで様々なものが揃っている。いわゆる老舗の和菓子屋ではあるが、代々受け継がれてきた個人営業の店で、店舗はたった一つしかない。しかし、その伝統のある創作和菓子は、百貨店に並ぶほど人気のあるものだった。中でも、中秋の名月でもある今日は、黄色い栗きんとんが一日限りで販売され、清洛堂を愛する多くの人が開店前より足を運ぶ。丸く象られたその栗きんとんは「美月みつき」と呼ばれ、夜空に浮かぶ名月を連想させるものだ。

 ようやく順番が回ってきた時、夜空を映しとったような藍色の紙に包まれた栗きんとんを見て、私は愕然とした。どこからどう見ても、たった一つしか残っていない。それで午前中の分は終了だという。次の販売は十三時からであり、仕方のないことだと諦め、その一つと可愛らしい月見饅頭、甘い餡の詰まったどら焼きを購入した。

「ナラちゃん」

 カウンターの向こう側から聞こえた唐突な呼名に、顔を上げる。すると、着物姿の女性が店の奥から軽やかに現れた。青緑色の着物には白色の露芝が散らされ、その裾から胸元にかけて華やかな菊花が描かれている。艶のある帯は上品な生成色で、帯締めは朱色、帯留めは洒落た黄色いトンボ玉と秋口の景色を彩るようでもあった。

 この和菓子屋の一人娘である彼女は、夕香ゆうかさんと言い、とても気さくで話しやすい人だ。年齢は壱弥いちやさんよりも少し若いくらいだろうか。

「こんにちは、夕香さん。そのお着物、素敵ですね」

 私が挨拶をすると、彼女は表情を綻ばせた。

「ありがとう。誂えて貰ったばっかなんやよ」

「秋らしくて今日にぴったりですね」

「そやろ、今日は中秋の名月やでな。そういえばナラちゃん、栗きんとん買いに来てくれはったん?」

「そうなんです、でも最後の一つで……」

 そう、少し残念な気持ちを含めて告げる。すると、彼女は不思議そうな表情を見せた。

「ナラちゃんが食べるんやったら一個でもええやん?」

「いえ、これはあげよう思てて。でも、二つあったら私も食べられたのになぁって」

「ふぅーん、そういうことな。あげるんや? 一つしかないのに」

 私の言葉を聞いた夕香さんはにんまりと笑う。そのからかうような笑みに弁解を加えようとするも、奥から響いた彼女を呼ぶ声に遮られた。

 夕香さんはわざとらしく耳を塞ぐ仕草を見せる。

「あぁもう嫌やわぁ、頑固おやじが呼んでる~」

「はよ戻らな、また怒られますもんね」

「また、は余計やでナラちゃん」

 憂鬱そうに眉を下げながら溜め息を吐いたあと、彼女はふわりと着物を翻す。彼女が背を向けた時、その着物の袂に刺繍が施されていることに気がついた。それは流れるように記された滑らかな文字列で、和歌のようだ。崩された達筆文字であるがゆえ、楷書のように簡単に読み取ることが出来ない。一文字目はおそらく「露」だろうか。

 文字の流れを目で辿りながら読み進めていくも、それを隠してしまうように夕香さんは再度振り返る。そして、私に向かって控えめに手を振った。

「ほな、また来てな」

 店の奥へと消えていく彼女の姿を見送った私は、菓子の入った紙袋を握り直し、ゆっくりと店を後にした。


 人影が疎らになった知恩院道ちおんいんみちを歩きながら、私は先程の文字列をぼんやりと記憶から呼び起こしていた。

「露ながら折りてかざさむ菊の花……」

 静かに口遊み、その音の響きを確かめる。どこかで耳にしたことのある音調。それが和歌であることは間違いないだろう。しかし、その先の下の句がどうしても思い出せないのだ。

 何度もその上の句を頭の中で読み上げるうちに、いつの間にか神宮道じんぐうみちを上がり、次の目的地へと辿り着いていた。

 目の前にある探偵事務所は、かつて私の祖父が弁護士業を行っていた場所である。外観こそは昔と変わらない和風建築ではあるが、ひとたび足を踏みいれれば、彼の珍妙な生活空間が広がっている。

 その扉を開こうと手をかけるも、施錠されているのか扉は開かなかった。かけられた木札は裏向きのままで、「休業日」と記されているところを見ると、彼はまだ眠っているのだろう。

 傍らの呼び鈴を鳴らしてから約五分後、ようやく硝子の向こう側でくぐもった声が響いた。

「どちら様ですか」

壱弥いちやさん、私です」

「あぁ、ナラか。今開けるわ」

 そう、がちゃりと解錠される音と共に、扉が開く。ふらりと目の前に現れた壱弥さんの姿に、私は一歩足を引いた。

「何で、上半身裸なんですか……」

「今起きたとこやでな。下履いてきただけでもええやろ」

「下履いてへんだら大問題です」

 壱弥さんは半分ほどしか開いていない目をこすりながら、大きく欠伸をする。私は今にも夢の中に戻ってしまいそうな彼の目を覚まさせようと、「清洛堂」の紙袋を目の前に翳して見せた。途端、思惑通り彼の目はぱっちりと開かれた。

「清洛堂」

「はい、さっき寄ってきたんです。『美月』買えたんで壱弥さん食べるかな思て」

「ほんま、買えたん? さすがやな」

 壱弥さんは差し出された紙袋を受け取り、先ほどまでの眠気など嘘のように喜々とした表情を浮かべている。

「ってか、今日って十五夜やっけ」

「そうです。今日はお月見の日ですよ。お昼頃から主計かずえさんと一緒に嵯峨野さがのに行く約束してるんですけど、壱弥さんもどうですか?」

 そう誘いを告げると、彼は眉間に皺を寄せた。

「いや、俺は遠慮しとくわ。主計かてお前と二人で行きたいやろうし」

「忙しいんですか? 主計さんに『よかったら壱弥兄さんも誘っておいで』って言われたんですけど」

 昨日交わした主計さんとのやり取りを思い出しながら、そのままの言葉を壱弥さんへと伝える。すると、壱弥さんは怪訝な表情を見せたあと、何かに気が付いた様子でにやりと笑った。

「……あいつ、やっぱ可愛気ないわ」

「えっ?」

「いや、こっちの話や」

 そう、彼は返答を濁す。一体どういう意味なのだろう。

「まぁ、どっちにしろ今日は午後から仕事で手離せへんで、二人で楽しんできい」

 癖のない黒髪を掻き分けながら、彼はやや呆れた表情でそう呟いた。

 別れの言葉を告げようと口を開いた直後、不意に部屋の奥で彼の名を呼ぶ女性の声が響く。その瞬間、私は口を塞がれたように言葉を失った。呼吸が出来なくなるような錯覚と共に、緩やかに心拍数が上昇していく。

 ……どうしてこの部屋に女性がいるのだろう。鈍く緩慢になった脳であれど、答えは容易に導くことができる。

 ゆっくりと息を吹き返すように、私は声を絞り出した。

「それじゃあ、私はこれで」

「あぁ、気つけや」

 頭を下げると、私はその場から逃げ出すように、東山ひがしやま駅に向かって足早に歩き始めていた。



 京都御苑の東側、神宮丸太町まるたまち駅から西に進み、寺町通てらまちどおりを北へ上がった左手に、はぎみやと呼ばれる神社があった。その名の通り、境内には約五百株もの萩が植えられており、正式名称は梨木神社なしのきじんじゃという。天高く水澄む秋口になると、萩は一斉に綻び、九月中旬には満開の折を見せる。その景色を愉しもうと、午前十時に約束を交わしていた。

 ほぼ予定時刻丁度に神社へと辿り着いた時、石鳥居の傍らに佇む彼の姿が見えた。

主計かずえさん」

 手元のスマートフォンに目を落としていた彼は、静かに顔を上げる。

「お待たせしてすいません」

「ううん、僕がはよ来すぎただけや。ナラちゃんは時間通りやよ」

 主計さんはスマートフォンをしまい、そう柔らかく告げた。彼の纏う空気は変わらず涼やかで、その落ち着いた物腰が穏やかな心地にさせてくれる。けれども、彼の装いにどことなく違和感を感じた私は、無意識にその姿を見つめていた。

「どうしたん?」

 私の視線に気付いた主計さんは、目をしばたたかせながら問いかける。ほんの僅かな間を置いて、私はようやくその違和感の正体に気が付いた。

「今日は着物ちゃうんですね」

 目の前の彼は、爽やかなグレーのアンクルパンツに、オーバーラインの白とインディゴブルーのTシャツ重ねた若者らしいカジュアルな服装だった。

 主計さんはくすりと笑った。

「まさか、ずっと着物やとしんどいやん。仕事以外では普通の恰好しとるよ」

「ですよね。でも何かものすご新鮮で」

「そう? 僕からしたらナラちゃんの方が新鮮や。スカート可愛いし」

 彼は凛とした表情でさらりと告げた。確かに、今まで彼と会った時はいつも動きやすいパンツスタイルだったかもしれない。改めて指摘された恥ずかしさから顔が熱くなっていくのを感じていたが、主計さんは何事もなかったかのように鳥居の奥を見遣り、「ほな、行こか」と軽やかに足を踏み出した。

 ゆっくりと足取りで鳥居を潜る彼の背中を追いかける。

 奥の本殿へと続く石張りの参道には、それを囲むように沢山の萩が茂っていた。しなやかにたわむ枝と、可愛らしい赤紫色の花が、淑やかな秋の情景を映し出す。萩はとても小ぶりの花であり、あっと驚くような華やかさは持っていない。それでも、その花が綻ぶ様はまるで可憐な蝶たちが羽ばたくようで、見る者に潤いを与えてくれることは確かであった。

「そういえば、壱弥兄さんは来るって?」

 参道を進む主計さんは、思い出したように振り返る。

「いえ、今日は仕事があるらしくて遠慮するって言ってました」

 私の返答を聞いた彼は、淡い栗色の瞳を僅かに細めた。そして、視線を正面に戻す。

「まぁ、そうやろな。兄さん、忙しいやろうし」

 その言葉はまるで、初めからわかっていたと告げるようであった。それほどに、壱弥さんは常に忙しいということなのだろう。よく、ソファーで居眠りはしているけれど。

 主計さんの背中を追っていくと、彼は少し開けた場所にある拝殿の前で足を止めた。周囲をぐるりと見まわしながら、口を開く。

「綺麗に満開やね」

 主計さんの言葉通り、鮮やかな赤紫色が私の視界を埋める。その景色は、とても地味だと言われる花だとは思えない程に、眩しく輝いていた。

「ほんま、綺麗です」

「うん。昔の人やったら、こういう時に一首詠んだんやろね」

「かもしれませんね。萩てゆうたら、やっぱり万葉集でしょうか」

 主計さんは隣に立つ私を優しい表情で見下ろした。

「うん、万葉集やと萩の歌が一番多いでな。たしか、全部で百四十一首やったか」

「そんなに多いんですか?」

「意外やろ? 万葉の時代には人気やったんやて。でも昔の人の感性は現代人とは全然ちゃう。今やと見た目が華やかな方が好まれる傾向にあるやろ」

 例えば、と彼は一つの和歌を諳じる。


 秋萩あきはぎの 咲き散る野辺のべの 夕露ゆうつゆに 濡れつつ来ませ はふけぬとも


 それは、愛する人を待ち続ける嫋やかな女性の恋心を詠んだものだった。

 秋露が置く夕映えの時、野に咲く萩を掻きわけて、私に会いに来てください。露があなたの衣を濡らしてしまうでしょう。周りは薄暗く、道もはっきりと見えないかもしれません。それでも会いに来てほしいのです。

 そんな意味を示す。

 遥か昔、和歌が大成した時代では男性が女性の元を訪れる恋愛が一般的であった。いわゆる、妻問婚つまどいこんや通い婚と言われる類のものである。

「萩は露と合わせて詠まれることも多かったん。露の儚さを萩の花に映してたんやろね。そんでその儚さに美しさを見出して、女性に例えることもあったそうやよ」

 決して華やかではない小さな秋の花を背景に、愛しい人を思いながらひたすらに待つ嫋やかな女性。その寂しさを重ねた情景に、キラキラと光る夕露が溢れ落ちる様が、儚さと恋心を照らし出すようだった。まるでそれが叶わぬ恋であると言わんばかりに。

「季節柄でしょうか。秋って、好きな人を待つような寂しい恋の歌が多いですよね」

「そうやろか。例えばどんな歌が浮かぶ?」

「そうですね……」

 落ち着いた声でかけられた問に、私は小さく口を開く。


 今むと 言いしばかりに 長月の 有明の月を 待ちでつるかな


 これは、百人一首でも有名な素性法師そせいほうし、俗称・良岑玄利よしみねのはるとしの和歌である。「今すぐ参ります」とあなたが言ったばかりに、九月の夜長を待っているうちに、ついには有明の月が出てきてしまいました。そう、詠ったものだ。

「この歌を聞くと、好きな人を待つ苦しさっていつの時代も一緒なんやなぁって思うんです」

 私の言葉を聞いた主計さんはすっと目を細め、ほんの数秒、間を置いてから静かに首を横に振った。

「そうとちゃうよ。『今すぐ行くから』なんて、男の常套句や。表ではちゃんとしたこと言うてても、裏では別の女の子と遊んでる。今も昔も、口先だけの男なんてようけおるってことやよ」

 そう、彼は妙に落ち着いた口調で告げた。まるでその言葉が私に向けられた忠告のようで、漠然とした不安感を芽生えさせた。

 もしかすると、彼もそうなのだろうか――。


 先に続く本堂でめいめいに祈りごとを唱えたあと、元来た道をなぞるように踵を返す。

「そういえば、主計さんって何でそんな和歌に詳しいんですか?」

 ふと思い浮かんだ些細な疑問を投げかけると、主計さんは「あぁ」と私を見遣る。

「僕、大学で国文学専攻しててん。どっちかというと近代文学よりも古典文学の方が得意やったかな」

 その事実を聞けば、彼の持つ知識にも頷くことができる。なるほど、と呟いた時、ふとここへ来る前に触れたあの和歌のことを思い出した。

「もしかして、上の句だけでも誰の歌かわかったりしますか?」

「うん、和歌集にあるような有名なやつやったら大体ね」

 彼の言葉に、続きのわからない上の句を記憶から呼び起こし、ゆっくりと告げた。すると、主計さんは即座に返答する。

「その歌は紀友則きのとものりやね。古今和歌集に収められてるものやよ。『露ながら 折りてかざさむ 菊の花 老いせぬ秋の 久しかるべく』」

「それってどういう意味なんですか?」

「『露がついたままの菊を折って頭挿かざしにしよう。老いることなき秋が、久しく続くように』ってとこかな。菊の露が長寿をもたらすっていう中国の故事を用いて詠まれた歌や」

 その言葉は滞りなく紡がれる。つまり、それは清かな秋を讃えると同時に、健やかな長寿を願う歌だ。菊に結ばれた露の瑞瑞しさが、「老い」という言葉によって引き立てられ、新鮮さを映し出す。

 本のページを捲るように滑らかに引き出される返答に、私は素直に感嘆の声を漏らしていた。

「凄い、主計さんって歩く辞書みたいですね」

「それは買い被りすぎやよ」

 主計さんは面白いものでも耳にしたように、くすくすと笑う。それでも、彼の持つ知識は、学ぶことを重ね続けたゆえの賜物なのだと思う。何かにおいて研鑽し続けることは、きっと易いことではない。

 神社の入り口を示す石鳥居を抜け、私たちは寺町通に続く道を歩いていく。

「ちなみにその和歌って、兄さんの仕事の件?」

 彼の質問に、私は首を振った。

「いえ、全く関係ないことです。たまたま目にしたんですけど、続きが思い出せへんくて。でもお蔭ですっきりしました、ありがとうございます」

「そっか、ならよかった」

 彼はふんわりと微笑んだ。


 鮮やかな萩の宮を後にした私たちは、嵯峨野に行くために最寄り駅を目指す。丸太町通に面する交差点を渡り終えた時、会話に夢中になっていた私は、角に立つビルの段差に盛大に躓いた。かくんとぶれる視界に、思わず目を瞑る。そのまま転んでしまうのだと思った。地面とは違う、何か柔らかいものにぶつかる感覚が私を襲う。

 恐る恐る目を開くと、目の前には主計さんの身体があった。

「……びっくりした。ナラちゃん、急に僕の視界から消えるで」

 主計さんは私を抱き留めたまま、安堵の息を漏らす。少し強引に手を引かれ、ようやく私はしっかりと自分の足で立ち上がった。

「大丈夫やった?」

 彼は案ずるように私の顔を覗き込む。

「はい、大丈夫です……ありがとうございます」

 恥ずかしさから彼の顔を直視できず、地面と睨みあいながら頭を下げる。すると、彼は優しい音吐で囁いた。

「よかった、怪我せんくて」

 その言葉に、ゆっくりと視線を上げる。目が合った瞬間、主計さんは私の心を和らげるように破顔した。

「ナラちゃんって、ちょっとうっかりしてるところあるよね」

「うっ……お恥ずかしい……」

 痛いところを突かれ、私は口を噤む。

「でもまぁ、ちょっと抜けてる方が可愛いし、僕は好きやよ」

 そう、澄んだ清水のように涼やかな佇まいで微笑み、彼は静かに歩き始めた。



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