第23話 苦い温度


 九月十七日の朝。暑い夏と涼しい秋の空気がぶつかり合い形成された秋霖前線の影響により、ぐずついた天気が続いていた。本日の天気予報も曇り。しかし、時折見せる日差しのせいで、気温は高く、夏が再び訪れたようなじめじめとした暑さが舞い戻っていた。

 少しばかり早めの昼食を終えた私たちは、七条しちじょうへ向けて事務所を発った。

 交わした契約によると、本日は調査対象であるのぞむさんの行動を追跡することになっているそうだ。まずは十二時から十七時までの五時間。その後、栞那かんなさんへ結果を報告し、不十分と判断した場合には追加調査を検討する約束である。

 尾行調査であるゆえか、壱弥いちやさんは目立ついつもの洒落たスーツ姿ではなく、街に溶け込むようなカジュアルな装いであった。皺のないシンプルな白シャツにブルーブラックの薄手のミリタリージャケットを羽織り、黒いデニムパンツと共に足元を飾るレースアップブーツが、どこか男性らしい重厚感を纏う。

 その靴底を鳴らし、祇園四条ぎおんしじょう駅へと続く地下階段を下る彼に、私は問いかけた。

「そういえば、浮気調査ってどんなことをするんですか?」

 一瞬、周囲を見渡すように視線を移動させた彼は、一呼吸置いてから口を開く。

「基本は調査対象の尾行と張り込みやね。望さんは午後から出掛けるらしいから、その動向を監視して、目ぼしい行動があれば写真を撮って証拠にするんや」

 そしてその浮気の証拠写真を栞那さんへ提出し、これで依頼は完遂となるという。実に単純な返答であった。しかし、浮気調査の難しい点は、調査対象がシロであった場合にある。その場合、どれだけ調査対象が迂闊であろうが、探偵が有能であろうが、決定的な証拠は出てこないものである。また、シロクロの判断は非常に難しく、得た結果で依頼者を納得させるのは骨の折れる仕事なのだと彼は愚痴を零すように告げた。

 一見、潔白であったのなら、喜ばしいことのように感じられるかもしれない。けれども、殺人事件のように真犯人が存在するわけでもないため、依頼者の心中では疑念が残ることが多いという。つまり、探偵からすると「シロを証明した成功」であっても、依頼者にとっては「クロを証明できなかった失敗」と感じてしまうのだ。

「ほんまは浮気調査は好きちゃうんやけど」

 壱弥さんは足元に視線を落とし、言葉を濁らせる。それに続く言葉を待ってはみるも、彼は顔を上げ、喉元に残ったままのそれを呑み込んだ。

「いずれにせよ、浮気調査は依頼者の不満が生まれる前に出来るだけ早く終わらせるのが最善や」

 そう、壱弥さんは煌々とした琥珀色の瞳で前を見据えた。


 くすのき家は、七条駅から徒歩圏内にあった。密集した住宅街の一角に建つ、真新しい縦長の一軒家。その和の景観を乱さない日本家屋は、京都という町に住まう彼らの趣向を主張するようでもあった。

 僅かに離れた人目に触れない場所で、望さんの外出を静かに待つ。そして、午後十二時を一刻ほど過ぎた頃、漸く一人の男性が姿を見せた。

 耳の高さで短めに切りそろえられた自然な黒髪に、物憂げな表情が似合う整った面立ちの彼は、玄関扉の向こう側に優しい笑顔を向ける。その柔らかい表情は、彼が温和な性格であることを即座に印象付け、同時に、周囲への警戒心は抱いていないことを示していた。

 彼は栞那さんと幾らかの言葉を交わしたあと、自宅の門を抜けて住宅街から七条通に向かって進んでいく。その姿を確認した私たちは、目を合わせて頷き合い、静かに彼の後ろを追いかけた。

 ゆったりとした歩行速度で七条通を東へと向かう途中、大和大路七条やまとおおじしちじょうの交差点の手前、「且座しゃざ喫茶」と呼ばれる甘味処がある和菓子屋の前で望さんは足を止めた。まだ青々と茂る松の木が町屋の庭先に聳え、入り口にかかる柔らかい生成り色の暖簾を控えめに見せている。「京菓匠」と染められた暖簾の直ぐ隣には、木枠のショーウインドウが並び、秋を映しとったような華やかな和菓子が陳列されていた。

 この店の秋の名物と言えば、九月初旬に発売される「やわらぎモンブラン」と呼ばれる銘菓であった。土台は刻んだ栗がたっぷりと練り込まれた栗羊羹で、上層は上品な甘さの栗きんとんに艶やかなマロングラッセをちりばめ、和洋を見事に調和させた栗尽くしの逸品である。

 彼は躊躇いなく店内に足を踏み入れ、店員の女性と言葉を交わす。

 店の前で佇むには不自然であるため、私達はそのまま交差点を渡り、京都国立博物館前の案内地図を眺める観光客を装いながら、望さんが店から出てくるのを静かに待った。

「あんさぁ」

 唐突に、壱弥さんが私に向かって気の抜けた声を放つ。

「なんですか」

 控えめな声で問うと、外された視線が私の顔を真っ直ぐに捉えた。

「和モンブラン、この依頼終わったら一緒に買いにいこ」

「え?」

「秋やねんから一回は食べやな損やろ」

 にんまりと少年のような笑みを携えながら、壱弥さんは柔らかく告げる。

「損かは知りませんけど、私も食べたいです」

「そやろ? ほな約束やで」

 はい、と頷いた直後、僅か五分ほどで望さんが店の中から姿を現した。

 手にはしっかりと紙袋が握られ、そのまま私たちのいる交差点へと向かってくる。姿を隠すために物陰に身を潜め、通り過ぎる彼を見送る。私は壱弥さんの横顔を一瞥し、彼と交わしたばかりの約束を静かに胸にしまったあと、その後ろ姿を見失わないように追いかけた。


 七条通から東大路通ひがしおおじどおりへと曲がり、二十分ほどかけて辿り着いたのは、見覚えのある場所であった。道路端から延びる電柱に掲げられた案内標識には、青い文字で「五条坂ごじょうざか」と記されている。

 過去に一度だけ訪れたことのある記憶の中の道筋をなぞるように、望さんは静かに五条坂を登っていく。そして一つ目の角を右折すると、私たちの予想していた通り、彼は高級感のある黒塗りの店舗へと吸い込まれていった。

 店頭にあるガラス張りの展示場には、黄葉した銀杏の葉と同じ山吹色の振袖が輝きを放っている。そこは紛れもない、主計かずえさんのいる「大和路やまとじ呉服店」であった。

 かろうじで窺うことのできる店内で、望さんは柔らかく微笑みながら着物姿の主計さんに声をかける。大学生時代の先輩後輩の関係である彼らは、親し気に言葉を交わしながら、店内にある反物を手に取って選定する。そして、ついには座敷に腰を掛け、望さんが持参した和菓子と共にお茶を嗜み始めた。

 一体どれだけの時間をこの場所に留まることになるのだろう。対象の動向を探るだけのシンプルなこの調査は、とても華やかな探偵像を映すものではない。況してや、浮気調査は壱弥さんの掲げる「失くしたものを見つける」趣旨とも大きく外れている。それなのに、何故彼はこの依頼を快諾したのだろうか。探偵業としては決して珍しくない種の依頼であるゆえ、断る理由が無かったとも言えるのかもしれない。しかし、人の浮ついた欲望に染められた醜い現場を収めることは、やはり心地がいいものではないのが事実であった。

 それでも、壱弥さんは変わらない真摯な眼差しで私を見遣る。そして静かに口を開いた。

「このあと望さんがここを出たら、二手に分かれようと思う」

 その言葉に、私は目を見張った。

「二手って、望さんの尾行と、もう一つは何ですか?」

「主計に話を聞くんや。望さんは主計の大学時代の先輩なんやろ。彼がどんな人物か知ってる主計なら、あの短冊の意図に気付くことができるかもしれへん」

 その言葉と共に差し出された一枚の写真には、栞那さんが所持する雲紙の短冊が収められていた。そこには望さんの優美な筆跡で和歌が記されている。その短冊と和歌の意図を、古典文学が得意な主計さんであれば測ることが出来るかもしれない、そう彼は主張した。

「でも、主計さんは今回の調査内容を知らんって言わはってましたよ」

「は? あいつの紹介で受けた依頼やのに?」

「はい、一昨日の時点では」

 壱弥さんはむぅと眉間に皺を寄せ、口先を尖らせる。

「守秘義務はあるから口外することは出来へんけど、質問の切り口はナラに任せるわ。俺は望さんの尾行を続けるから」

「投げ方、雑すぎちゃいますか……」

「そうは言うても相手は主計やし、尾行は俺の方が慣れてるやろ」

 彼は私を横目に、にんまりと笑う。

 その表情を見ると妙な憎らしさを覚えるが、それでも壱弥さんの言う通り、尾行をするのであれば経験値のある彼の方が適任なのだろう。そして、単独の聞き込み調査とは言えど相手は主計さんなのだ。ある程度の事情を知る彼であれば、調査の難易度は格段に下がる。

「……わかりました。やれるだけやってみます」

 私は静かに頷き、壱弥さんの提案を飲み込んだ。

 それから呉服屋の座敷で寛いでいた二人に動きを認めたのは、望さんが足を踏み入れてから約一時間後のことであった。漸く立ち上がった望さんは、落ち着いた笑顔で主計さんに会釈をし、店を後にする。

「ほな、さっき話した通りで。主計との話が終わったら俺に電話して」

「はい」

 そう、壱弥さんは坂道を下っていく望さんに続いて角を曲がり、そのまま風のようにふわりと姿を消した。

 目を向けた店内では主計さんが座敷に並べていた反物を抱え上げ、元の場所へと片づけていく。一呼吸を置いて、私は呉服屋の硝子扉を静かに開く。その瞬間、店内に響く柔らかい音楽が耳へと流れ込んだ。

「おこしやす」

 客を迎える温かい京ことばと共に振り返った主計さんは、私の姿を捉え、大きな目を瞬かせた。

「ナラちゃん」

 彼は抱えていた反物を手早く棚にしまい、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。

 彼の纏う着物は、彩度を落とした秋の景色のように澄んだ色味であった。薄鼠色うすねずいろの紬に重ねられた深い青磁色の羽織が見事に調和し、漆黒の半襟が首元を引き締め、どこか大人の色気を感じさせる。

 柔らかく目を細める彼に向かって、私は小さく頭を下げた。

「主計さん、先日はありがとうございました。色々お話聞かせて貰えて楽しかったです」

「こちらこそ、僕もナラちゃんと話せて楽しかったよ」

 その低く澄んだ声音は、流れる背景音楽と同じように心地よく耳に残る。

「ほんで、今日はどうしたん?」

「ちょっと主計さんにお伺いしたいことがありまして」

 彼に促されるまま奥に広がる座敷へと腰を掛けると、主計さんは私の言葉から何かを悟った様子で、にっこりと微笑んだ。

「そういえば依頼のことは昨日、栞那さんから直接きいたよ。浮気調査やってね。ナラちゃんが聞きたいのって、望さんのことやろ?」

 簡単に言い当てる彼の言葉に、私は素直に頷いた。同時に、安堵の息を漏らす。

「よかった、知ってはったんですね」

「うん、望さんには絶対ばれへんようにって釘は刺されてるけど、知ってることあったら教えてって言われてるし、僕も協力するよ」

 そう、滑らかな動作で着物の裾を払いながら私の隣に着座する。撫でるような優しい言葉に、私は礼を告げ、直ぐに彼に問いかけた。

「望さんが浮気をしてはる事実はご存知ですか?」

「まさか。そんなん聞いたことないし、僕は絶対ないと思うわ」

 間髪を入れず、彼は冗談を笑うように表情を緩ませる。

「浮気するどころか、うち来る度に僕に惚気話聞かせてくるくらいやで。それに、望さんは中途半端が嫌いな人や。愛人を持つなんて絶対にありえへん」

 その言葉に揺らぐものはなかった。長い付き合いのある彼の語る人物像は、とても浮気をするようには感じられない。主計さんの言葉が真実なら、栞那さん以外に愛する女性がいるとは到底思えない状況であった。

「そうですか」

 主計さんの証言を手帳に書き留めると、間に挟んでいた写真を取り出し、彼に差し出す。

「そしたら、この短冊が何かわかりますか?」

 着物の袖から覗くしなやかな手先を写真に添え、写る短冊をじっくりと覗き込む。

「綺麗な雲紙の短冊やね。書跡は望さんのもので間違いないかな。……和歌は『紀友則きのとものり』か。最近よく聞く名前やけど、関係はあるん?」

「いえ、全く別のものです。和歌の内容からして、この短冊は浮気相手に贈るものやったんとちゃうかって、栞那さんが持ってたやつで」

 そう告げると、彼は僅かに眉をひそめた。

「多分、その可能性は低いと思うよ」

「え、何でですか?」

 あっさりと否定されるその推理に、私は声を上げた。

「ナラちゃんも知ってるとは思うけど、短冊は和歌会なんかで詠んだ歌を書き留めるもんやで。基本的には和歌を贈る時には使うもんとちゃう。もしほんまに女性に贈るんやとしたら、『短冊』と違て『文』やろ」

「確かに……」

 彼の指摘を受けて、見落としていた初歩的な誤りに漸く気が付いた。

 だとすれば、この短冊は何のために書かれたものなのだろう。再度、その疑問を彼に投げ掛ける。

「もしかしたら望さんの仕事に関係するものかもしれへんけど、古典和歌を短冊に書きとる仕事なんてないやろし。何のために書いたものかまでは僕には分からへんわ」

 ごめんね、と彼は申し訳なさそうに眉を下げ、いくらか声の調子を落とす。その様子に私は首を横に振り、礼を告げた。

「いえ、十分です。急いで壱弥さんに伝えに行きますね」

「うん、気つけてな。転ばんように」

 慌てて座敷から立ち上がった私を見て、主計さんはからかうような表情でくすりと笑う。その台詞を聞いて自分の犯した過去の失態を思い出し、押し寄せる恥ずかしさから熱くなっていく顔を両掌で覆い隠した。

「できたらあれは忘れてください……」

 主計さんは可笑しそうにけらけらと声を上げる。

「あはは、冗談やて。ほな、調査頑張ってね」

「う……頑張ります」

 楽し気にひらひらと手を振る彼に向かって頭を下げたあと、私は履いていたヒールパンプスの感触を確かめ直した。



 五条坂を少し上り、茶碗坂と呼ばれる清水新道との分岐点で左に続く小路を折れながら南へ歩いていくと、電話で指定された場所へと辿り着いた。そこは、星野町ほしのちょうにある話題のコーヒースタンドであった。

 純白の店装に全面硝子張りの入り口が洗練された空間を作り出し、ほんの少し近付くだけで芳しい香りが漂ってくる。

 店の前を走り抜ける坂のてっぺんを見上げると、霞んだ曇り空を背景に堂々と聳える八坂やさかの塔が見えた。

「ナラ、こっちや」

 唐突に響く声の音源を確かめるように振り返り、その声の主を見遣る。

 近くの石段に座る壱弥さんは、手に温かい珈琲を携えている。遠くに向けられた彼の視線からすると、望さんはまだ店舗内にいるようであった。しかし、その姿を確認する間もなく、私の到着を待ち望んでいたように壱弥さんは軽やかに立ち上がった。

「さっき栞那さんから連絡があってな、直ぐに調べたいことが出来たんや。悪いけど、俺の代わりに尾行続けたって」

 そう、壱弥さんは手にしていた珈琲を当然のように私に差し出した。

「また私一人で?」

「そうや。彼が無事に帰宅したらナラもそのまま帰ってもらってええから。急いでるで、後は頼んだ。あと、それ飲んでな」

 ぴっしりと左手の人差し指を私に向かって突き出し、彼はそのまま通り過ぎる北風のように坂道を駆け上っていく。

「え? 嘘やろ、待って」

 その声も空しく、やがて壱弥さんの姿は巡る人影の中に溶け込むように消えていった。

 手の中にある彼から受け取った紙製のカップには、まだ僅かな温もりが残る。この温度は冷めきらない珈琲の温かさなのだろうか。それとも、残る彼の体温なのだろうか。

 手元に目を落とすと、彼の纏う甘い香りよりも強く芳しく誘惑する液体がカップの中で揺れる。そして、私はそれにゆっくりと口をつけた。

 途端、口腔内にむせ返るような独特の苦味が広がり、香りだけが仄かに抜けていく。

 そういえば、壱弥さんはブラックしか飲まない人だった。

「……ってことは、これ飲みかけ?」

 口づけをしたカップの中身が彼の嗜好に合わせたものであることに気付き、一連の動作を顧みた私は、身体が熱くなっていくのを感じていた。



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