第26話 心の依所


 久しぶりに出会う穏やかな日差しの中で、私は事務所の入り口にかかる小さな木札を見つめていた。「失くしたものを見つけます」――そう刻まれていたはずの文字はそこにはなく、今は「休業日」とだけ記されている。

 貴壱きいちさんから預かった鍵で事務所の扉を解錠すると、私はゆっくりとその真っ白な空間に足を踏み出した。

 足元に広がる艶やかなオークのフローリングタイルには、もう事件の爪痕は残っていない。それなのに、彼が力なく倒れ込んだ場所を見るだけで、あの日の記憶がフラッシュバックを起こすように鮮明に蘇り、呼吸を乱していく。

 私は静かに扉を閉め、大きく息を吐き出したあと、鞄の中から取り出した壱弥いちやさんの万年筆と手帳を机上に置いた。

 この日のために、何度も何度も綴られた文字を目で追った。そして、自己の記憶と重ね合わせ、綻びを繕いながらその文字を確実に繋ぎ合わせた。だからきっと、この想いは二人に届くだろう。



 深く静んだこの場所に、訪問者を知らせる呼び鈴が響いたのは約三十分後のことであった。腕時計の代わりに鞄に取り付けた金色の懐中時計は、まだ約束の時刻の十分前を示している。

 未だに眠り続ける壱弥さんに代わって、失ってしまった大切なものを取り戻すために、私は二人の人物をこの事務所に呼び出していた。恐らくはそのうちのどちらかが到着したのだろう。

 扉を開くと、その先に佇んでいたのは物憂げな表情をした男性――のぞむさんであった。

 望さんは私の誘導に従いながら事務所のソファーへと腰を下ろしたあと、変わらず憂いた表情のまま深々と私に頭を下げ、先日の出来事についての謝罪を述べた。

 主計かずえさんから聞いた話によると、望さんはここ数日間の仕事を全てキャンセルしているそうだ。それも現状を考えれば仕方のないことなのかもしれない。しかし、憔悴した望さんの顔を見ると、その精神状態を案じずにはいられなかった。

 望さんは声の調子と共に僅かに視線を落とす。

栞那かんな春瀬はるせさんに依頼をしてたことは主計から聞いてます。僕の浮気調査をしてはったそうですね。さすがにちょっと驚いたんですけど、それを聞いてやっと栞那の奇妙な行動の理由がわかった気がします」

「奇妙な行動、ですか?」

 妙に引っかかった彼の言葉を繰り返すと、望さんは頷き、低く沈んだ声で続けていく。

「自宅に、僕が仕事場として使ってる書斎があるんです。栞那は僕の仕事の邪魔をしたらあかんからって、書斎には殆ど立ち入ろうとしませんでした。それやのにここ二カ月程、僕が出掛けている間に書斎の掃除をしてくれるようになったんです」

 深刻そうな彼の面持ちとは裏腹に、その事実だけを聞くと特別奇妙な行動とは思えない。

 しかし、望さんは眉間に皺を寄せながら私に問いかける。

「ナラちゃんもおかしいと思いませんでしたか。……栞那は僕が捨てたはずの短冊を持ってたんですよ」

 その瞬間、私はようやくその言葉の意味を理解することができた。

「つまり、栞那さんは書斎で浮気の証拠探しをしてたってことですか」

「そう考えたら辻褄が合います。入られて困ることもないし咎めるつもりはなかったんですけど、もう少し彼女の行動に意識をとめて、その理由を考えてみるべきでした」

 そうすれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。そう、望さんは消え入りそうなほどの声量で自責する。

 気の利いたことの一つも言えずに黙り込んでいると、重苦しい空気を掻き切るように、もう一人の到着を知らせる鈴の音が鳴り渡った。

 目の前で俯く望さんに断りを入れてから席を立ち、静かに入り口の格子扉を開く。そして、不安気な表情を見せる小柄な女性を事務所へと迎え入れた。

 恐らく、仕事の合間の時間を縫ってここにやって来たのだろう。周囲の様子を伺うように控えめに頭を下げる彼女は、見覚えのある華やかな青緑色の着物を召したままであった。

 その姿を目に映した望さんは、唐突に立ち上がり、同時に驚いた様子で彼女の名前を呼んだ。

夕香ゆうか……!」

 不意に呼名された彼女は視線を私の後方へとずらし、その声の主を捉えたあと、目を丸くしながら名前を呼び返す。想定をしていなかった人物を目の当たりにした二人は、互いに顔を見合わせた。

 しかし、望さんはすぐに状況を理解したようで、小さな溜め息を吐きながらソファーへと座り直した。

「そっか、ナラちゃんは僕たちの関係に気付いたんやね」

 彼の台詞を耳に、音もなく着席した夕香さんもまた、私の顔を見遣る。

 私はあらかじめ準備を整えていたお茶を二人に差し出したあと、その向かい側に腰を下ろした。

「はい。ですが、調査をしていたのは私ではなく壱弥さんです。今日は、お二人と栞那さんとの間に何が起こったのか、事件の真相を確かめ、彼女が望さんに伝えたかったことをお話したいと思います。そのために、主計さんに連絡をお願いしてこちらへお越しいただきました」

 病院のエントランスで主計さんに会ったあの日、彼は私が壱弥さんの助手として依頼を完遂させることを知り、力になりたいと言ってくれた。その優しさに甘え、私は彼の言葉を受け入れた。そこで思い付いたのが、連絡先の知らぬ二人をここへ呼び出してもらう連絡役を頼むことであった。

 私の言葉に、望さんは怪訝な表情を見せる。

「栞那が僕に伝えたかったこと、ですか……?」

 疑念を抱くその様子から、望さんは栞那さんの本当の心に気付いていないのだということがわかる。

 このまま彼に本当のことを伝えなければ、この事件は彼らにとって疚しい負の出来事として記憶に刻み込まれ、夫婦関係をぎこちのないものにしてしまうだろう。そうすれば、彼らだけでなく親しい関係にあった主計さんや夕香さん、そして依頼を受けた私たちでさえも自分の言動を呪い、心に傷痕を残してしまうかもしれない。

 それだけは絶対に避けなければいけなかった。

「……そのためにもまずは、栞那さんの周囲で何が起こったのか確認させてください」

 私は机上に置いていた壱弥さんの手帳を拾い上げ、ゆっくりと開く。

「壱弥さんが使用していたこの手帳に、お二人がかつて恋人同士であったことが記されていました。それは間違いありませんか?」

 ほぼ同時に二人は私の質問を肯定する。

 彼の歪な文字を辿っていくと、そこには確かに「清原きよはら夕香」の名と共に、二人の過去の関係が記載されていた。それは彼らが大学生だった頃の話ではあるが、二人の接点は確かにそこに在り、互いのことを良く知る理由に他ならない。

 しかし、彼女についての記述はただそれだけであった。過去の関係や、二人の親しい様子を見ると、彼女が有力な手掛かりを握っている可能性は否めないはずだ。それなのに、二人の現在の関係を示唆する記述はどこにも見つからず、その真相は明らかにされていない。

 必死に手掛かりを探していたであろう状況で、壱弥さんがこの可能性を見落とすなんてことは万が一にもあり得ない。

 ならば、考えられる答えは一つだけだった。 

「夕香さんは、本当は壱弥さんと会う約束をしてはったんやないですか」

 事務所に差し込む太陽の光が僅かに翳ったような気がした。彼女の顔が強張るのが分かる。

 ほんの少しの間を置いて、彼女は視線を左右に泳がせたあと、微かに震える声で言葉を紡ぎ始めた。

「ナラちゃんの言う通り、二十日の朝に春瀬さんとお会いする約束をしていました。でもその日は台風で朝から天気も悪かったんで、また後日にお会いすることになったんです。やけど、春瀬さんがあんなことになってしもて……」

 夕香さんの声が徐々に小さくなっていく。

 きっと、壱弥さんは彼女と直接言葉を交わし、二人の関係性を更に深く調査するつもりでいたのだろう。しかし、それは悪天候によって阻まれ、その後彼が事件に巻き込まれてしまったが故に、調査は未完遂のまま滞ってしまったということだ。

「夕香さんは彼がどんな話をしようとしてたんかは、ご存知やったんですか?」

「はい。初めて連絡をもらった時に、望のことについて聞きたいって仰ってたんで」

 やはり、と確信をもって言葉を続けようとした時、隣で静かに耳を傾けていた望さんが、思い立ったように顔を上げた。

「春瀬さんは疑ってはったかもしれませんけど、今の僕らに疚しい関係はありません。大学卒業後に別れてから今年の夏にたまたま会うまで、連絡も取ってなかったくらいです」

 まるで何かを取り繕うように、望さんははっきりとした口調で夕香さんとの関係を否定した。私はそれを真っ直ぐに受け止める。

「お二人に浮気の事実はない。私もそう思ってます」

 それは単なる憶測などではない。望さんの過去の行動を辿ってみても、浮気に繋がる新しい事実は浮上しなかった。そう、彼が単独で行っていた調査結果にもしっかりと記されている。

 それならば、何故夕香さんとの関係を調査する必要があったのだろうか。

 安堵の色を見せる望さんに向かって、私は訊ねかける。

「お二人は疚しい関係ではなかったかもしれません。ですが、特殊な関係にあると思っています。お二人は何度も人目の少ない喫茶店で会っていますよね。これは状況から立てた仮説でしかありませんが、お二人は密やかに協力をしながら栞那さんの行動を調べてはったんやないでしょうか。彼女の浮気を疑って」

 その瞬間、望さんは目を見張った。

「でも本当にそれだけなら、直接会わへんくてもやり取りをする方法なんて沢山あります。それやのに、何でお二人は何度も人目の少ない場所を選んでまで、直接会ってたんでしょうか。そう考えた時、私はあることに気付きました」

 私は自分の手帳を開き、二人に見えるようにそれを差し出した。何もない真っ白なページの端に浮かぶ、たった一つの文字。

 それは、望さんが書いた美しい「露」であった。

「お二人の過去の関係を知ったあと、望さんの書いたこの文字を見て、私は貴女の着物に施された刺繍を思い出したんです」

 そう、美しい着物を纏った夕香さんを目に映す。すると彼女は左の袂をはらりと翻し、艶やかに光る刺繍の文字を露わにさせた。


 ながら 折りてかざさむ 菊の花 老いせぬ秋の 久しかるべく


 命やは 何ぞはの あだものを 逢ふにしかへば 惜しからなくに


 秋の景色を彩る着物に刺繍された和歌と、望さんが短冊に揮毫した和歌。その二首はいずれも「紀友則きのとものり」の詠んだ典雅な歌で、共通する「露」の筆跡はぴったりと重なり合っていた。

「その刺繍は望さんの書を写し取ったものですよね。もっと早く気付くべきでした。栞那さんが持っていたあの短冊は、夕香さんのために書かれたものやったんですね」

 栞那さんが持っていた短冊について、望さんは大学生時代の友人に頼まれて書いたものだと言っていた。それが、夕香さんであったということだ。

 乾いた喉を潤すために、私はグラスの中のお茶を一口流し込む。

 再度雲間から太陽が顔を出したのか、格子扉から差し込む光が少しだけ強くなった。

 俯いていた夕香さんは躊躇いがちに口を開く。

「……望と偶然再会したのは七月の始めでした。次に会ったのは私が彼を誘ったからです。丁度、中秋の名月に間に合うようにこの着物を誂えようとしてた時で、好きな和歌を刺繍するのに望に文字を書いてもらえへんか頼もうと思ったんです。その時に、望から栞那さんについての相談を受けました」

 私は、何も言わずに彼女の声に耳を傾ける。

「望が栞那さんの浮気を疑ってることを知って、私が栞那さんの調査をするのはどうかって彼に提案しました。栞那さんと私の面識がないことを利用して。……短冊は、調査のお礼にって望が言うてくれたんです。何度も直接会ってたのは、情報と短冊のやり取りをするためです」

 彼女の供述は予想通りのものであった。

「栞那は僕らが会ってる姿を見てしまったから、反対に僕の浮気を疑ったんですね」

 哀しい表情で、望さんは告げる。その言葉を否定するように、私は小さく首を振った。

「確かに栞那さんはお二人が一緒にいるところを見ています。それは彼女が依頼を持ち込む際に話してくださいました。でも、話を聞く限り、彼女の様子が変化したのは一度目と二度目の間ということになります。たった一度の出来事で、それもただ楽しく話をしてただけで、浮気を疑うなんて普通ではあり得ないと思います」

 栞那さんが望さんの愛情を疑ってしまったのは、その出来事だけがきっかけになったわけではない。そう、私は感じていた。

「それなら、彼女はどうして僕のことを疑ったんでしょうか……」

 眉を下げた怪訝な表情で、彼は私に問いかける。

「恐らく、栞那さんの心はもっと前からゆっくりと崩れ始めていたんです」

 真っ直ぐに望さんの顔を見据えながら、私は彼女に起こったであろう出来事を伝えていく。彼の瞳は僅かに潤んではいたが、それでもなお強かな表情を携え、私から目を逸らそうとはしなかった。

「栞那さんにとって、穏やかで飾らないあなたの側が唯一落ち着くことのできる『心の依所よりどころ』やったんです。彼女はあなたの夢を心から応援していました。だからこそ、あなたにも自分の夢を応援して欲しかったんじゃないでしょうか」

 彼女は、望さんがずっと夢を見ていた書道家として成長し活躍する姿を心から喜んでいた。しかしその一方で、自分と過ごす時間を犠牲にしていく夫に、少なからず寂しさを感じていたのだろう。

 そして徐々に夫婦の時間は薄れ、彼女は唯一だった心の依所を緩やかに喪失していった。そして追い打ちをかけるように、その心の隙間を押し広げたもの――それが、楽しそうに言葉を交わす二人の姿だった。

「九月十五日、あなたは栞那さんの演奏会に行くという約束を守らなかった。それが、彼女の心を決定的に変えてしまったんです」

 決して多くはない華やかな舞台を、栞那さんはずっと楽しみにしていた。彼が観に来てくれるものだと信じ、きっと期待を膨らませながら稽古に励んでいたのだろう。

 しかし望さんは演奏会の当日、急な仕事を理由にその約束を違ってしまった。その瞬間、彼女の中で何かが崩れ落ち、その虚しさが彼女の中にある歯車を狂わせたのだ。

 はらりと瞳から零れ落ちる涙を、彼は手の甲でぬぐい取った。

「……僕はとんでもない間違いを犯してしまったんですね。僕の行動が、彼女の心を壊してしまった上に、愛する妻を疑ってしまうなんて」

 彼は小さく震える手で拳を握りながら、その表情を歪ませる。

「僕が選択を誤ってなければ、春瀬さんやナラちゃんに怪我させることも、関係のない夕香を巻き込むこともなかったんですね。本当にすみませんでした」

 先程までの苦い表情とは異なり、強かな声音で紡ぐ謝辞と共に、望さんは私たちに向かって深く頭を下げた。

 ──これが今回起こった出来事の総てであった。はずだった。

 ずっと目に涙を溜めていた夕香さんが、唐突に結んでいた唇を解く。

「実は一つだけ、嘘を吐いたことがあるんです……」

「嘘、ですか?」

 こくりと頷く彼女を前に、私は無意識に色を正す。

「私は望のことが好きでした。久しぶりに会った彼が昔と全然変わってなくて、穏やかで、眩しくて、もう一度彼の優しさに触れたいって思ったんです」

 彼女の言葉を遮るように、望さんは彼女の名前を呼んだ。しかし、夕香さんは静かに首を横に振り、そして続く言葉を紡いでいく。

「やから私は彼が結婚してるって知りながら、自分の想いを伝えました」

 心に陰りを与えていた嘘を溶かすように、夕香さんは大粒の涙を零す。

「……春瀬さんとの約束がなくなったのは台風のせいじゃなくて、本当は私が断ったからです。春瀬さんが私に連絡してくれた時、一度でも望に愛されたいって思ってしまった自分の愚かさを思い出して、その事実を知られるのが怖くなったんです」

 ようやく、その言葉の真意が見えた気がした。

「望さんは、夕香さんの想いを受け止めたんですね」

 確認するように私が告げると、夕香さんは涙を拭いながら小さく頷く。

「望は優しいからこんな私にも『ありがとう』って言ってくれました。でも、彼ははっきりと言いました。――その気持ちには応えられへん。僕には栞那がいるから。って」

 もしもこの事実を知っていれば、僅かながらでも栞那さんの心を晴らすことができたのかもしれない。そう思った直後、私はある事実に気付き、その不気味さに背筋が凍りついた。

 壱弥さんはこのために、夕香さんと約束を交わし調査を進めようとしていたのだ。

 つまり、彼が描いた精巧な推理をもとに構成されたであろう道筋と、それを繋ぐために彼が行っていた調査は完璧だったということだ。しかし、それはたった一つの嘘によって崩れ去った。

「もし私が春瀬さんにこのことを伝えてたら、何か変わってたんかもしれません」

 自身の過ちを責める夕香さんの凪いだ声に、望さんは反論する。

「それでも、栞那が罪を犯してしまったことは変わらへん。やから僕はもしかしてなんて在りもせんことを考えるんじゃなくて、彼女がちゃんと罪を償って戻ってきた時、その過ちを繰り返さへんように彼女を支えていきたいと思います」

 その表情に迷いの色はなかった。

 望さんの強かさを耳に、私は彼に言葉をかける。

「……栞那さんに本当の殺意はなかったと思っています」

 だからこそ、壱弥さんは警察官のいるあの場所で、痛みを堪えながらも栞那さんに告げた。「あなたに殺意はなかった」と。その彼の行為がどう捉えられるのかは私には分からない。それでもきっと、微かな光はそこにある。

「だから私は、お二人が少しでも早く元の生活に戻れるように、心から祈っています」






 携えた大切な記憶の欠片を在るべき人の元へと返すために、私は真っ直ぐに病室を目指していた。事件から四日経った今もまだ、彼からの連絡はない。

 光が映える白い廊下を進み、辿り着いた個室の扉を開いた瞬間、どうしてか懐かしい香りが微かに抜けていった。

 柔らかい斜陽が照らし出す病室のベッドには、変わらずに彼が静かに眠っている。しかし、先日とは異なって彼を取り巻く機器は殆ど失くなっていた。

 随分と良くなったということなのだろうか。

 私が恐る恐るに足を踏み出した途端、長い睫毛の目がうっすらと開かれた。

「壱弥さん……?」

 震える声でその名を唱えると、虚ろな瞳が私に向けられる。その目は幾度かの瞬きを繰り返したあと、とろりと瞼が落ちていく。

 まだ完全に目を覚ましてはいないのだろうか。

 そう思った瞬間、その目はぱっちりと開かれ、確かに私の姿を捉えていた。

「おはよう、遅かったな」

 少し掠れた声で彼は淡い笑みを溢す。

「おはようって……もう夕方やん……」

「それもそうやな」

 くすりと笑いながら、壱弥さんはベッドに肘を着き、ゆっくりと上体を起こす。ほんの少しだけ痛みを堪えるように片目を瞑ってはいたが、直ぐにその表情は穏やかさを取り戻した。

「もう、起きてもいいんですか……?」

 私の問いかけに、彼は小さく頷いた。

「おいで、ナラ」

 低く撫でるような彼の声音はどこか艶やかで、その言葉はこの身体を招き寄せる。そして、彼に近づくと同時に、両手が私の身体をふわりと優しく包み込んだ。

 余りにも唐突な出来事に、私は何が起こったのか分からなかった。

「ごめんな、怖い思いさせて」

 耳元で囁く優しい声と私の髪を撫でる彼の大きな手が、胸の鼓動を煽っていく。そして、頬に密着する彼の身体から伝わる体温が、これが夢ではない確かな現実であることを物語る。

「はい、……壱弥さんが死んでしまうかもしれへんって思ったら凄い怖かったです」

「あぁ、ごめんな」

 滲んでいく視界の中で、私の言葉に呼応するように、壱弥さんはもう一度私を抱きしめながら柔らかく微笑んだ。

 その瞬間、私はようやく気が付いた。


 私の心の依所よりどころは、ここにある。




──第四章『路地裏の月影』終

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