グリーフケア。別名を悲嘆ケアといい、一般の方々には聞き慣れない言葉ではあろうが、われわれ医療者にとってはよく耳にするものである。近年、医療の質の底上げに伴い、医療者は患者だけではなく家族に対するケアをも視野にいれるようになった。
グリーフケアとは、終末期における緩和ケアの一つ、残された遺族に対する心のケアである。
ところで、何故そのような言葉の説明を行ったかというと、当作品はこのような遺族ケアに通ずるものがあるのではないかと考える所以である。
意識がなくても声は聞こえている。
ただそれだけを聞けば、この物語は理想を並べたファンタジックな妄想であると受け取られてしまうかもしれない。
しかし、これは多くの研究でも取り上げられるほど有名な事象であり、ある学術誌では「心停止から蘇生した患者のうち約39%が心拍再開よりも前にも意識を自覚していた」という論文が発表されている。
最終的には憶測の域を脱しないようにも感じられるものの、複数の研究データを合わせてみると、昏睡状態でも聴覚は残るというのはどうやら確からしい。なぜ聴覚なのかというと、人の五感において聴覚は一切の随意的な運動機能を必要としないからであろう。
この事実は、是非とも患者や家族だけでなく、医療者にも知ってもらいたいと私は思う。
救急医療の現場では、昏睡状態にある患者を前に医療を提供することは決して少なくない。そして、残念ながら見送ることもしばしばある。
そういった状況下で、われわれはどれだけ患者に対して真摯な対応を行っているだろうか。意識がないからといって、言葉を掛けることを蔑ろにしてはいないだろうか。
「意識レベルの低い患者であっても、言葉を掛けることを怠ってはならない」
これは、筆者が勤める脳外科で数えきれないほど耳にする台詞である。
ただ、会話のできる患者のように反応を得られるわけではないゆえに、いつからかその言葉掛けでさえも忘れがちになる。あるいは、事務的で慈しみが足りない。
もしもわれわれが先に述べた事実を理解していたのならば、患者への言葉が豊かになるであろう。
そして、嘆く親族にも僅かながらであっても、希望を与えることができるかもしれない。掛ける声が、患者に届いているのであれば。
昔、中年独居の男性が重症頭部外傷で搬送されてきたことがあった。親族は疎遠の姉一人。当然の如く連絡を取って状況説明や手術治療への同意を頂く必要があるのだが、落ち着いてから彼女は言った。「死んだら連絡をください」と。
世の中には多様な家族の形があるだろうが、少しだけ空しくなったのは言うまでもない。
心ない言葉でさえも、意識のない患者に届いている。そう思うと、空しさを抱かざるを得ないのである。
どれほど医学が進歩していようとも、人はいずれ死に至る。必ず訪れる終幕を、どう彩るかは本人や親族次第なのではないだろうか。
ならば、私はその一生の終幕は優しいものであってほしいと願う。
だからどうか、遺された人に伝えてほしい。
今、掛ける声はしっかりと届いているのだと。