【書籍化します】神宮道とエフェメラル

泉坂 光輝

第一章『初夏に輝く花』

第1話 春瀬探偵事務所


 大切にしているものほど呆気なく失せるものだ。その様は両手の指間から水が零れ落ちるかの如く。そして落下していく純水は、砂を孕んだ地へと吸い込まれ、後には黒々とした染みを残していく。実に虚しいことである。

 しかし、大切なものを失くすという体験は、誰もが一度は経験していると言っても過言ではないほど身近に潜んでいる。失くしたものを取り戻すことが出来たらどれ程幸せだろうか。


 京都府京都市東山ひがしやま区の北方、平安神宮へいあんじんぐうから伸びる神宮道じんぐうみちを南へ下がり、三条通さんじょうどおりを渡った仄暗い路地に、彼の探偵事務所はひっそりと佇んでいた。

 事務所とは言えど殆どは彼の居住場所で、ほんの一部に置かれた低い白色の机と、それを挟んで向かい合うソファーが応接間である。またその向こうに堂々と鎮座しているデスクが仕事場で、奥へと続く扉を潜れば彼の珍妙な生活空間が広がっている。

 その一風変わった怪しげな事務所は、かつては私の祖父・高槻匡一朗たかつききょういちろうが法律事務所として使用していたものであった。故にかなり年数の経つ昔風情な一軒家で、その外観だけでは事務所であることに気付く人は殆どいない。入り口に掲げられた道場のような木製の看板に大きく「高槻法律事務所」と書かれていることが唯一の主張であったが、今ではその看板すらも失われ、「失くしたものを見つけます」と書かれた小さな木札が掛かっているだけだった。











        初夏に輝く花











 柔らかい陽射しが降り注ぐ初夏の午後、全ての講義を終えた私は、学生たちが乱れるキャンパスを抜けて、法経済学部本館の傍らにある駐輪場から真っ赤な自転車を引っ張り出した。車輪に絡まる鍵を丁寧に解錠し、茶色いサドルに跨がって涼風が吹き抜ける東大路通ひがしおおじどおりへと向かう。

 いつもならば今出川通いまでがわどおりに面する北門から出ることが多いのだが、今日は帰宅前に訪問したい場所があった。

 丁度正門を抜ける直前、後ろから私の名を呼ぶ声が響く。聞き覚えのあるその声に自転車を停めて振り返ると、大きく手を振りながらこちらに駆けてくる小柄な女の子の姿が見えた。

「ナラ、二葉ふたば見てへん?」

花田はなださん? そう言えば最近会ってへんなぁ」

「そっかぁ、どこ行ったんやろ」

 私の返答に、肩の上で切り揃えられた黒髪を揺らしながらあおいは困った顔で辺りをぐるりと見回した。

 彼女は高校生の頃からの友人で、この大学の経済学部に所属している。彼女が探している花田さんは私と同じ法学部の同級生で、学部は異なれど二人は仲の良い友人であった。

 一方、私と花田さんは時々講義の席で話をする程度で、友人というよりは大学の同級生と言った方がしっくりとくるくらいの関係であった。講義を軽視する傾向にある法学部の中でも彼女は常に真面目で、その姿勢に対して皆一目置いているところがある。

「呼び止めてごめんな、ほなまた明日」

 葵は小さく溜め息を吐いたあと、いつもと変わらぬ屈託のない笑顔で手を振った。

「うん、それじゃあ」

 その言葉を見送り、私は再度真っ赤な自転車を漕ぎ出した。


 東大路通を南へ走り、東山三条ひがしやまさんじょうを東へ折れ、更に神宮道を南に下った脇に、彼の事務所はひっそりと息を殺しながら佇んでいる。

 途中で和菓子屋へと立ち寄り、購入した二人分の大福とお茶の入った袋をぶら下げながら、大きく開けた門の隅に自転車を停めた。そしていつもの如く縦格子の走る硝子戸を左へ開き、サンダルのまま彼の事務所へと上がり込む。

 探偵事務所兼居住地であるこの建物は少し変わった構造である。入り口の戸を潜った先は探偵事務所となっており、美しい木目調のオークのフローリングが艶やかに広がっている。土足で上がるため靴箱は存在せず、奥の居住場所へと繋がる扉の向こう側に本来の玄関が作られていた。

 湿気が纏わり付く嫌な暑さに、ブラウスの裾をぱたぱたとはためかせながら玄関を潜った私は、脱いだサンダルの向きを返す。

 薄暗く陰った短い廊下の向こうには、いつも通りに彼が寛いでいるはずだった。しかし、何故か生活音のひとつすらも聞こえず、不気味なほどに静んでいた。

壱弥いちやさん、いはりますか」

 その姿を求めて呼び声を上げるも、彼の返事は聞こえない。

「壱弥さーん」

 恐る恐るリビングに足を踏み入れると、問題の彼は黒いふかふかのソファーに埋もれていた。妙な不安感に襲われて顔を覗き込んではみたが、私の心とは裏腹に、ただぐっすりと眠り込んでいるだけのようだった。

 私は彼の身体を静かに揺する。すると、壱弥さんは小さな声を漏らし、ごろりと寝返りをうった。

 必要以上に美しく整った顔には無惨にも涎が垂れ、片方の足は無造作に宙へと放り出されている。黒いTシャツの裾をだらしなく捲り上げ、ちらりとみえる腹をぼりぼりと掻く素行がどうにもおっさん臭さを拭えない。

 その腹をめがけ、手にしていた袋を落とす。鈍い悲鳴をあげた壱弥さんは、大きく体を震わせたあと、寝癖のついた黒髪をくしゃくしゃに掻きながらゆっくりと起き上がった。

「もう夕方ですよ」

「夕方やから寝とったんや」

「寝とらへんと仕事しましょうよ」

「今日の仕事は終わった」

 口先を尖らせる壱弥さんを睨みながら、お腹に乗っかったままの袋を拾い上げる。やや歪になった大福を袋から取り出し、未だに眠気眼の彼に差し出した。

「あっ、清洛堂せいらくどうの豆大福やん」

「どうせまた何も食べてへんのやろ」

「空腹で死にそうやったわ、おおきに」

 壱弥さんは滑らかな手つきで包装を剥がし、目を輝かせながらふわふわの大福を口に含む。すると、幸せそうに表現を蕩けさせた。

 おそらく本日初めての食事であろう壱弥さんは、自炊が出来る能力を持ち合わせていない。気が向いた時にふらりと外食をしたり、購入したものを口にするだけで、外出すらも億劫になれば、昼間から寝て過ごし、食事をすることすらも忘れてしまう。私はそんな彼の生活が少し心配でもあった。だからこうして時々様子を見に来ては手土産を渡してしまう。でもこれは彼を甘やかしているだけなのだろう。

 ぼんやりとそんな事を考えていると、机の上に乱雑に伏せられた数枚の紙が、窓から吹き抜けるそよ風にひらりと捲れ上がった。

「こんなとこに置いとったら汚れますよ」

 無造作に床に散らばった書類を拾い上げる。そして、角を揃えようとしたその時、壱弥さんの左手が視界の隅から現れ、それを軽やかに奪い取った。

「これは触ったらあかん」

 大福をぺろりと平らげた彼は、私の背後で私を見下ろしながらにっこりと微笑んだ。そして瞬く間に棚の中にある黒いファイルへと仕舞ってしまった。

 壱弥さんの仕事に対する姿勢は掴み所がなく、いつも私を混乱させていた。「面倒だ」と言いながらもきっちりとこなし、進んで手伝おうとすれば私を遠ざける。まるで聖域を守るように、私が踏み込むことを許さず、大事なことはいつも一人で解決してしまうのだ。

「さっきの、仕事の書類ですか」

「そ、大事な報告書や」

「ふーん。壱弥さん、ちゃんと仕事してるんですね」

 やや皮肉を込めて呟くと、ソファーに腰を下ろしお茶を啜りながらにんまりと笑った。

「それ、どういう意味や」

「だって昼間っから寝て過ごしてはるし、仕事なくて暇なんかと思ってました」

「人聞きの悪いこと言うわ」

 私が壱弥さんの事務所を訪れるのは大学の終わった夕刻か、日曜日の午前中であり、大抵はのんびりとしている時間なのだという。彼が手掛けている仕事の依頼主は個人から法人まで様々で、「捜索」を掲げているが依頼内容は探偵業一般である。法人からの依頼といえば、データベースでのやり取りが殆どであり、事務所から出る必要がなく直ぐに片付いてしまうらしい。刺激の少ない法人からの依頼は面白味のないものなのだろう。個人依頼がない今、彼はとても退屈そうな日々を過ごしていた。

 すると突然、壱弥さんは思い立ったように深く身を預けていた背凭れから身体を離し、私の顔を見ながら悪戯ごとを企む少年のように笑った。

「ええこと思い付いたで、ナラ。何か面白そうな仕事探してきてや」

「はぁ? 自分で宣伝して探してこればええやん。そういう仕事やねんから」

「まぁそう言わんと。『ナラの紹介なら安くなるキャンペーン』するからさぁ」

「なんそれ」

 私は壱弥さんの言葉に呆れ、無意識に溜め息を吐いていた。やはり壱弥さんは出不精で、自分で仕事を獲得する努力を怠っているのだろう。彼の仕事は降って湧いてくるものではない。それでも小さくても途切れず依頼が来るのは、私が知らない頃に膨大な努力を積み重ねてきたということなのだろうか。俄には信じがたいが壱弥さんの能力は確かで、巷では凄く有名な探偵なのだという。しかし、このまま仕事が来なくなったとしてもそれは自業自得だ、そう心の中で愚痴を溢しながらも「もし何かあったら考えてみます」と言葉を返していた。


 層を重ねた夏の白い入道雲に太陽が姿を隠した、金曜日の午後十二時半過ぎ。時計台の近くにある、芳香な珈琲の香りに囲まれたカフェテリアで、丸い木製のテーブルを挟み、葵と向かい合うように座っていた。先程から葵は、手元のグラスのなかで緑色のストローをくるくると回している。その度に氷とグラスのぶつかる涼やかな音が響いていた。

「なぁ葵、ちゃんと聞いてる?」

 葵はずっと考え事をしているのか、上の空でわたしの問いかけにも生返事を繰り返すばかりであった。

「なぁ」

「えっ、なんやった?」

「やっぱ聞いてへんやん」

 葵は取り繕うように「ごめんごめん」と笑い、さらさらの黒髪を揺らす。しかしすぐにまたぼんやりと考え事を始め、私は深い溜め息を吐いた。

「そういえばナラ、最近二葉のこと見かけてへん?」

「え、会ってへんけど」

「やっぱりなぁ」

 がっくりと項垂れる友人は、数日前から花田さんを探していた。二人は親友同士ではあるが、学部の都合上、講義では合わないことが多い。故に、花田さんと同じ法学部である私に繰り返し尋ねたのだろう。しかし、花田さんに直接連絡をすれば解決することではないのだろうか。

「電話したらいいやん」

 私は葵に言う。

「何回もしてるんやけど出やへんのやわ。メッセージにも返信こやへんし」

 そう小声で呟きながら葵はまた思い出したように項垂れ、額をテーブルに着けた。

「あたし何か嫌われる事でもしたんやろか~」

「それはないんちゃう。で、花田さんとはいつから連絡とれへんの?」

「二週間前ぐらいからやなぁ」

「結構前やん……」

「大学に来てるんやったらええんやけどね」

「うーん、取り敢えず私一人の証言だけやと大学に来てへんのかもわからんし、法学部の人に聞いてみよか」

「えっ、一緒に探してくれるん」

 葵はぱっと顔を上げ、驚いた表情で私に問いかける。

「うん、正直私も心配になってきたし」

 妙な気持ちになったのは事実だった。普段とても仲が良い彼女達に喧嘩などは到底考えにくく、喧嘩でもしたのであれば葵の言動は不可解なものになる。だとしたら、「葵が何かをした」というよりは、「花田さんに何かがあった」と考えた方が自然だ。私は張り切る葵と共に、氷が浮かぶ飲みかけのアイスティーを残してカフェテリアを後にした。


 淡い茶色のスクラッチタイル張りの外壁がレトロな雰囲気を醸し出す、法経済学部本館に私たちが乗り出したのは、午後一コマ目の講義が始まる十分前だった。葵は軽やかな歩みで法学部生の集まる教室の敷居を跨いでいく。そしてくるりと後ろを振り返り、私の顔を見ると当然のように微笑んだ。

「なぁ、ナラ。誰に聞いたら分かりそう?」

 返事を待つ葵は已然、にこにこしながら黒い髪を揺らしている。葵の期待を込めた眼差しを受け、私は思い当たる数人に声をかけて、花田さんの行方を尋ねた。しかし、彼女たちは皆口を揃えて「会ってない」と答えるばかりで、有力な手がかりは得られなかった。

 本棟の教室を渡り歩いて早十分。左手の腕時計は講義の開始時刻を示しているが、葵はお構い無く別館、図書館と次々に思い付く場所へと向けて練り歩く。その姿を見失わないように、私は葵の背中を追いかけた。

 聞き込みを始めてから一時間と三十分ほどが経とうとしていたが、ここ二週間で花田さんの姿を見たという者は一人として現れなかった。点々とキャンパス内を駆け回り、行く宛をなくした私たちは、人気がまばらになった涼しい食堂へと辿り着く。葵は草臥れた様子で空席に腰を下ろした。

「あかんやーん」

 有力情報を期待していた葵は、やり場のない気持ち天井に向けて放ち、まるで世の終末を目前にしたような顔で沈んでいく。私は彼女を終末より救出すべく言葉を探したが、考える程に善からぬ想像が舞い降りるだけであった。

 これだけ調査しても目撃者が現れないとなれば、本当に大学に姿を見せていないという可能性が高い。大学を休み、連絡が取れない期間が二週間。それだけで何かの事件に巻き込まれているという推論も否定は出来なくなる。花田さんは物静かで、顔立ちのはっきりした女性だ。長い髪と、漂う凛とした空気が大和撫子と言うに相応しい。そんな美人が何らかの事件に遭遇したと考えると、とても想像してはならぬものの様に感じる。私は素早く頭を横に振り、その嫌な想像をかき消した。

「もし、ほんまに花田さんに何かあったんやったらどうしよ……。いっぺん警察に連絡した方がええんやろか?」

 私が小声で呟くと、葵はそれを即座に否定した。

「一応メッセージの既読はつくし、事件ってことはないと思う。それに大学来てへんだけで怪しい情報もないから、もうちょっと調べてからの方が良いと思うねん。間違いやったら二葉にも迷惑かけるし」

 彼女の言うことも一理ある。連絡が取れないのは不安を募らせる事ではあるが、既読がつく以上、彼女がメッセージを確認していると考えるのが妥当だろう。また、大学に来ていない生徒など珍しくもないのだから、それだけで「事件」として警察に通報するわけにはいかなかった。花田さんから助けを求められている訳でもなく、何か確証があるわけでもない。

「じゃあ、もうちょっと調べてみやなあかんな」

「でもどうやって調べたらええんやろ」

「例えば、花田さんの家に行ってみるとか?」

「それはしてみたけど、何回行っても家にはおらんかってん。これって手詰みやんな……」

 彼女の言う通り、大学でこれ以上の情報を得ることは困難だと感じていた。大学外で彼女の情報を得られ場所を考えると、彼女の下宿先が候補として挙がるが、それすらもバツ印を付けられたのなら、最早素人には太刀打ちが出来ない。もしも聞き込みや人探しのスペシャリストでも側にいたのなら、状況は変わるのかもしれないが。そう考えていた時、私は大事なことに気づき、声を上げた。

「いてはるわ、人探しのスペシャリスト!」

「人探しのスペシャリスト?」

「そう、知り合いの探偵さん。いっつも暇そうやし寝てるだけやで、相談だけでもしてええと思う!」

 その言葉に、葵の顔がぱっと明るくなった。

「そんな暇な探偵さんおるんや、よっぽど仕事ないんやな」

 彼女はきらきらと瞳を輝かせ、残酷な台詞を吐いた。

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