第17話 5時15分

 女部田が気を失って何時間たったのだろう…夜明けまではまだ2時間ほどある廊下に冬美が立っていた。女部田の部屋の前だ。ドアをノックしようとしたその腕が掴まれた。悲鳴を上げそうになって目に入った相手は冬美のよく知る中年の女だった。


「なぜここに! 放して!」


 女は恐ろしい形相で冬美を睨みつけていた。


「付いて来なさい」


 冬美は仕方なく女部田の妻に従って歩き出した。


「こんな朝早くに、主人の部屋に何の用なの?」

「5時に起こしに来てほしいと…」

「フロントにモーニングコールを頼めば済むことでしょ」

「起こしに来た時に、昨日のオフ会で余ったグッズをプレゼントしたいからと…」

「…そう。でも、これからあなたがノックするのは主人の部屋じゃないわよ」


 女部田の妻はひとつ階下の部屋の前で止まった。


「ここは加藤亮さんの部屋…ここをノックしなさい」

「・・・・・」

「主人に行けと言われたと言いなさい」

「・・・・・」

「加藤さんとも初めてじゃないでしょ?」


 そう冷笑して女部田の妻は去って行った。冬美は女部田の妻の指示に従ってノックをしようとすると、ドアが開いた。冬美は無言で中に入って行った。


 女部田が発見したメモには “5時15分に駐車場に居ます ”とあった。時刻を見ると既に5時を回っていた。急いで窓から駐車場を見下ろしたが、夜明け前の駐車場灯は降雪のせいか、消えたままその用をなしていなかった。忌々しげに着替えて駐車場に出た女部田は驚いた。停めてあった場所に自慢の自家用大型クライスラージープがない。暗がりの駐車場をスマホのライト機能を頼りに走り回って探したが見つからない。しかし、駐車場の出入口の降雪面に、見覚えのあるタイヤ痕が刻まれていた。


「まだ新しい…」


 女部田はその痕跡を辿って県道に出てみると、前方にそれらしい車が停まっていた。駆け寄ってナンバーを確認すると自分の車に間違いない。エンジンが掛かっているので運転席に誰かが乗っているようだが、ウインドーは全てミラーフィルムで中の様子は分からない。女部田は運転席に向かうと、突然、女部田の体を弾いて車が急発進した。転倒した女部田は雪塗れになって起き上がり、無我夢中でその後を追って走った。車は雪煙を上げてどんどん遠ざかって行った。車が雪の奥に消えてしまい、息が上がった女部田はその場に立ち尽くした。この辺りの県道は道路照明灯などない闇の世界だ。


「クソ田舎で車の盗難に遭うなんて最低だな。責任はホテルにある。損害賠償はきっちりさせてもらうぞ! クソまずい料理出しやがって、これがこの土地一番のホテルだなんて笑わせるな!」


 いくら悪態を吐けども深々と降る雪がせせら笑っているだけだ。仕方なくホテルに戻ろうと、スマホの明かりを頼りにとぼとぼと歩き始めると、後ろから猛スピードの車の気配がして振り向いた。女部田はとっさにスマホのライトを翳した。フロントバンパーが鏡のように反射して光った。どんどん近付いて来る。


「何だ、あれは!」


 車は、スマホライトの反射でフロントバンパーを異様に光らせ、すぐそこまで近付いて来た。轢かれると思った寸でのところで道路脇の雪壁に飛び退いた。車はそのまま猛スピードで通り過ぎて見えなくなった。その時、女部田は見た。フロント部分で光る平らな面は、分厚い氷で覆われていた。


「誰があんなものを!」


 自分の命が狙われていると感じた女部田はナガサホテルに急いだ。すぐに県道の闇の向こうから車の轟音が近付いて来る。折り返した車がライトも点けずに、またこっちに猛スピードで向かって来る黒い塊が見えてきた。ナガサホテルまで間に合わないと思った女部田は民家に入れる路地を探して逆走した。途中で靴が雪路に脱げてしまったが、履き直している余裕などなかった。素足で滑る雪面にフラフラになりながら走った。もう走れない…駄目かと思って後ろを見ると、車は自分の走る速度に合わせて前進していた。女部田は車に対峙して歩を止めた。すると、車も静かに停まった。呼吸困難の態で女部田は再びふらふらと歩き出した。車も等間隔を保って進んできた。


「おい! ふざけるのはやめろ! 誰なんだ、おまえは!」


 車は無反応だ。突然、女部田は車に向かって全速力で走った。車は女部田と等距離を保ってバックした。女部田がへばって転ぶと車も停まった。女部田は考えた。車の後方100メートル程のところにナガサホテルがあるのを確認した。そこまで車を追って走れば、駐車場に逃げられる…双方は暫く睨みあった。そして、女部田がそれを実行しようと立ち上がった時、車がエンジン音を轟かせ、猛発進して近付いて来た。今度は明らかな殺意が見て取れた。女部田は走り出した。民家に助けを求めようと、再び道路沿いの脇に飛び退ける路地を探しながら、必死に走った。しかし、いつの間にか両側には、路地どころか数メートルの雪壁が延々と続き、女部田は逃げ場を失ってしまった。振り向いたその時、女部田の体はクライスラーのフロントに出来た氷盤を砕いて弾かれ、パズルの一ピースのようにがっしりと雪壁に嵌めこまれて身動きできない状態になった。意識朦朧となりながら、ノーブレーキのクライスラジープがそのまま角館方向に走り去るのを横目で追うしかなかった。雪は止む気配もなく、雪壁に嵌った女部田の体は見る見る白く覆われて行った。


 朦朧と長い時間が過ぎて行った。この辺りは降雪が続くと、朝は始発のバスや通勤自家用車が走れるように、午前6時頃には除雪ドーザが稼働を開始する。この地区の除雪はホテルボイラーマンの勢子辰郎が兼ねていた。支配人の向松がボイラー室詰所に早朝出勤がてら勢子を起こしにやって来るのが日課になっていた。


 真っ暗だった目の前が少し白く感じる…日の出が始まったのか…足音がする。すぐ前で止まった。誰かが立小便をしているようだ。女部田の脳は必死に助けを求めたが、体は何の反応もしてくれなかった。男は用を足すと、何やら呟きながらゆっくりと去って行った。


「…良イ音ヲキケ」


 出勤してきたナガサホテル支配人の向松がボイラー室詰所に入った。勢子は既に起きていた。


「おはようさん!」


 声を掛ける向松に寡黙な勢子がいつものように頷いた。


「然さんが立小便してたよ」


 向松の言葉に勢子は同じように頷いた。


「じゃ、今日も頼んだね」


 そう言って向松は詰所を出てホテル社員通用口に入って行った。


 6時になると勢子は除雪の出発点となる打当のバス停に向かって除雪ドーザを発車させた。バス停に到着すると、待機する7時40分始発のバスを横目に除雪ドーザをUターンさせ、排土板を下げて作業を開始した。

 除雪ドーザは排土板で道路を削るように雪を堆く積み上げて雪壁に重ね、ゆっくりと進んだ。排土板の押し出す密度の濃い雪が容赦なく女部田に近付いて来る。然の立小便ギリギリを排土板で擦りながら、勢子は何やら呟いた。


「…コレヨリノチノ世ニ生マレテ良イ音ヲキケ」


 除雪ドーザの雪は女部田の体を更に雪壁の奥に押しやり、次の鬼ノ子村停留所に向かって進んで行った。


 民家の早朝は、除雪ドーザが通って積み上げられた家の前の雪寄せが日課となるが、民家のない道路沿いは、日々その雪が積み重なり、数メートルの高さの塀を形成することになる。除雪ドーザが家の前を通る音がしたら、集落民はこぞって起き出して来て、玄関から道路に抜ける除雪作業を始める。寄せられた雪が固まる前にその雪を寄せないと除雪作業がより大変になるためだ。

 集落民がやっと作業を終えて家の中に入る頃、雪も止み、浅縹色の空が拡がった。県道の闇で展開された女部田とクライスラーの戦いの跡形など、降雪と除雪ドーザによって全て掻き消されていた。


〈第18話「冬美」につづく〉

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