第2話 劇団

 劇団の稽古帰りの鷹野が息を飲んだ。


「前田さん!」

 鷹野が副代表の前田を引っ張って建物の陰に隠れた。


「どうした?」


 鷹野は前田に応えず、遠く先を歩く沙世に携帯を掛けた。


「後ろを振り向かないで聞いてくれ」

「鷹野くん? どうしたの?」

「兎に角、後ろを振り向かないで、そのまま歩き続けて聞いてくれ」

「わ、わかったわ。何?」

「あいつが君のあとを付けてる!」

「あいつって?」

「一ヶ月ほど前に入団した、小沢だよ。小沢が君の後を付けてるんだ」

「どうして?」

「わからない」


 鷹野たちの前方を歩く沙世と小沢の姿が見えなくなった。


「取り敢えず、家と関係ない方向に歩いて…確かその先にスーパーがあったよね」

「あるわ」

「そこなら人が大勢いる。買い物客に紛れてやつを撒くんだ」

「わかったわ」

「今、前田さんと一緒なんだ。スーパーの向かいのコンビニの前で合流しよう」

「もし撒けなかったらどうしよう?」

「そしたら、なぜ付けてるか直接やつに聞くまでだよ」

「今からスーパーに入る」

「分かった、携帯は繋げたままにしといて」

「了解」


 前田がぼやいた。


「あいつ、ストーカーか?」


 前田と鷹野は反対の道を急ぎコンビニの前に到着すると、丁度沙世がスーパーを出て来た。後ろに小沢の姿はなかった。三人は合流して暫くスーパーの出入口を見張った。少しするとキョロキョロする小沢がスーパーから出て来た。三人はコンビニに入って小沢の様子を窺った。沙世の姿を見失った小沢は諦めたように駅の方に歩いて行った。


 三人は劇団員行きつけの居酒屋に居た。


「気持ち悪い」

「沙世の住んでるとこを探ろうとしたんだろうけど、やつはやばい臭いがする」

「女部田のスパイだな」

「え?」

「やはり、女部田が劇団の内情を把握するために?」

「でもなんで内情を把握しなきゃならないんだ?」

「松橋さんや鍋島氏を利用して特撮ファンを思いどおりにできるグループが欲しいんだろ」

「松橋さんはそれを承知してるのかな?」

「承知はしているだろうけど、警戒もしてるんじゃないかな?」

「どうして?」

「特撮ファンからの入団希望には住民票の提示を求めてるよ。そこが壁になって入団しない人が殆どなんだ」

「なぜ住民票が壁になるんだ?」

「女部田氏のサイト常連はなぜか住所不定のネカフェ住民が多いんだよ」

「あの小沢は?」

「未だに住民票も出さずに強引に稽古に参加してるんだ」

「やつひとりを送ってきたところで劇団をどうこうできるわけでもないでしょ」

「いや、時間を掛けてこの劇団を特撮ファンだらけにして乗っ取る魂胆だろ。小沢はその先兵だよ」

「女部田ってのは案外油断ならないな」

「必死なんだろうけど、やり方が黒幕気取りで不愉快だよ」

「鍋島さんは違うでしょ、松橋さんの俳優仲間ですから…」

「それはどうかな? 特撮番組では松橋さんが先輩に当たるけど、仲間というわけでもないだろ。松橋さんは単純に特撮ファンへのサービスとして特撮サイトを主宰する女部田氏の推薦を了承したんじゃないの?」

「梶田は鍋島氏の紹介だよ。まあ、こうなると向こう側ということになるのかな? やつも小沢と同じ臭いがするんだよな」

「もう三人も…ほんと油断ならない」

「油断ならないが、面白い話もある」

「面白い話?」

「女部田氏の故郷、埼玉への自腹公演があったろ」

「女部田氏が自サイトで自分の招待だと自慢しまくった胸糞悪い一泊公演か…今思い出しても腹が立つよ」


 劇団を主宰する松橋龍三に女部田が急接近してきたのは、自分の地元に接待したいとの申し出からだった。龍三は、いくら自分の出演した特撮番組『アニアイザー』ファンだからと言われても、女部田とはこれまで接待を受けるような交流がなかったので、やんわりと断った。ところが女部田はしつこかった。龍三は仕方なく地元へのボランティア公演でお役に立てる事があるならと、ハードルの高い提案を出して牽制したつもりだった。しかし、女部田は地元の幼稚園と小学校を訪問する段取りを組んでしまった。龍三は本能的に嫌な予感がしたが、自分から持ち出した案なので断ることもできなくなり、せめてもの安全策として、交通費や宿泊費は全て自腹でギャラもなしという後腐れのない状態で話を受けた。ボランティア公演は無事に済み、嫌な予感は龍三の思い過ごしに終わった。


「あの時に泊まった宿のご夫婦は凄く良くしてくれたよね」

「あたしが特撮ファンの女性と相部屋になったのを気遣って、宿の女将さんが一人部屋に移してくれた」


 珍しく環が話に加わった。前田が話を続けた。


「翌朝の朝食時に、あのご夫婦に少し変化があったのを気付かなかった?」

「・・・・・」

「鍋島氏と女部田氏を見る目が異常に軽蔑的で厳しかったんだよ」

「気が付かなかった…何故?」

「私は見当が付く…見てしまったのよ。私が見てしまったのを宿のご主人か女将さんも見たとすれば納得」

「沙世さんが? 何を?」

「朝食が喉を通らなかったわ」

「沙世は大盛りをお代わりしてたじゃないか」

「ここでそれを言う?」

「二日酔いのオレの隣で、沙世さんが大盛りをガツガツ食うの見て吐きそうになったもんで強く印象に残ってるんだ」

「よく眠れなくて食欲なかったけど、公演があるから無理矢理押し込んだんです」

「お姉ちゃん、よく寝てたよ。それにお姉ちゃんは毎朝大盛りだよ」

「ここで発表しなくてもいいでしょ! …もう、公演なんか中止して早く帰りたかったわ」

「何を見たんだ?」

「せっかく温泉に来たんだし、もう一度寝る前にシャワーをと思って、遅くにお風呂場に行ったのよ。そしたら鍋島さんが女部田氏と…」


 沙世の言葉が止まったので、前田が促した。


「鍋島さんと女部田氏がどうしたんだよ?」

「・・・・・」


 一同は暫く沈黙した。


「そもそも鍋島さんは、特撮番組時代にいろいろと問題を起こしているようだな」

「どんな?」

「共演者の男に大失恋をしてんだよ」

「男に? 何でそんなこと知ってんだよ、早瀬?」

「早瀬の情報源は2ちゃんねるだもんな」

「ちょっと違うな。2ちゃんねるは殆どガセだけど、情報の糸口にはなる」

「それにしても共演者はまずいだろ…、しかも、同性ってセンセーショナルだな」

「それとは別件で降板騒ぎもあったらしいよ。番組に取り組む素行の甘さで共演者の大御所に大目玉を喰らって…」

「ファンが知ったら幻滅だな。それこそ2ちゃんねるが大盛況だろ」

「彼のスキャンダルのスレが立たないのが不思議だな。それもこれも女部田氏のご加護というわけか?」

「いっその事、正義のヒーローのひとりが同性愛者っていうことを番組の売りにしたら良かったんじゃないか?」

「時代の最先端番組になったかもな」

「ちなみにですね。日本は明治半ばごろまでは男性の特に武士や僧侶の間での同性愛は普通のことだったんだ。ただ、キリスト教では犯罪とみなされていたわけだ。LGBTの方々が立ち上がる契機になったのにストーンウォール事件というのがある。日本国憲法二十四条の婚姻は両性の合意のみに基づいて成立しという “両性 ”が男女だけでなく女同士、男同士をも指すというのが容認派の主張ね」

「特撮番組は教育番組だと仰っている大御所もいることだしな」

「幅広い教育番組になったかもな」

「でも、女部田のほうは結婚して子供もいますよね」

「すると女部田氏の奥さんにとって、鍋島氏は夫の不倫相手ということ?」

「男っていうのはショックだろうな。寧ろ女であってくれた方がまだ増し?」

「どっちも駄目です!」

 沙世・沙希姉妹がハモった。

「例えばの話だろ」

「世の中にはいろんな人がいて、それぞれの都合を認めろというわけだろうけど、少なくとも我々の公演が、やつらの逢引のカモフラージェにされたということだ」

「なんだよ、とんだ慈善公演だったのか?」


 一同が女部田に対して不信感を抱いたのは他にもあった。女部田の地元公演も無事に済んでから少しして、突然特撮ファンが劇団の稽古場を訪れた。


「劇団に入れて下さい」


 それが女部田サイト常連の特撮ファンの小沢である。龍三は取りあえず様子見で受け入れる事にした。ところが、小沢は住所不定のネット難民だったらしく、龍三は確認のために小沢に次回の稽古日に住民票を提示するよう求めた。それ以後も何人かの女部田サイトの常連が龍三の劇団に入りたいとやって来たが、龍三は住民票の提示を条件として求めるようになった。さらに、やって来る入団希望の特撮ファンとの会話で、小沢が入ってからの劇団の内部事情が女部田に筒抜けになっているらしいことが分かり、劇団員は小沢に対して警戒感を募らせていた。


 一同に遅れて劇団を主宰している龍三が現れた。


「松橋さん、先にやってます」

「ああ、遅れてすまん。集まってもらったのは、そろそろみんなに謝らなければならにと思ってね。特撮関係者のことで皆に不愉快な思いをさせて済まない」


 龍三は一同に頭を下げた。


「松橋さんが悪いわけじゃないですよ」

「いや、私が彼らにいい顔をしなければ良かったんだ。軽い親切心が仇になってしまった。いずれ近いうちに特撮関係者とはきっぱり縁を切る。沙世にも危険な目に遭わせた。女性陣は不安になったことだろうと…」


 龍三ははたと気が付いた。


「あれ? 環は?」

「環さんは急いで帰りました」

「環…最近元気ないよね。悩みでもあるのかな」

「あたし、あとでメールしてみます」

「そうか、頼む。兎に角、今、後援会に連絡したところなので、もう少し時間をください」

「女部田ってどんなやつですかね」

「後援会のメンバーの中に彼の私生活の情報を得られそうな人がいる。この先、諸々明らかになると思う。沙世に迷惑が…いや、危険が及んでしまったのも気付けなかった。特撮ファンだからと油断をしてしまった。特撮ファンは皆さん純粋な人だと思いたかった自分がいた」

「今になって見れば気になることがあるわ」

「気になること?」

「特撮ファン料理会オフの時、妹がしつこく女部田氏にメルアドを聞かれてた」

「沙希の?」

「あなたのステキなショットが撮れました。送りますのでメルアド教えて下さいって」

「だっせえな」

「松橋さんの顔を潰したらまずいかなと思って…」

「教えたのか!」

「迷ってたみたいだけど、その時に偶然、あたしが用事で沙希を呼んだみたい」

「…危なかったな」

「そう言えば、その打ち上げで特撮ファンの神主が “今日は花嫁さんを探しに来ました ”ってジョークを飛ばしたら、女部田が “ここはそんな場じゃありません!”て激怒して、自サイトのBBSで強引に謝罪させたっていう一件があったな」

「自分は参加女性に片っ端から交流してるくせにね」

「どういう事、早瀬?」

「彼は狙いを定めた女性特撮ファンに対してはそれ目的で参加させてる節があるんです。女部田氏主催のイベントを何回か手伝ったことのある知り合いの特撮ファンがいるんで…」

「それが本当だったら、やつが純粋な特撮ファンかも怪しくなって来るな」

「オフ会のカラオケで二度歌っただけで村八分にされた特撮ファンもいたそうだから、自分に甘く、他人に厳しくって方針なんじゃないスか?」

「後援会から女部田の情報が入ったら、その都度みんなに伝えるつもりだ。奴の情報を共有して今後の対策を考えよう」

「やつが2ちゃんねらーでないことを祈りたいよ」

「どういうこと?」

「ネット上で筋違いの腹癒せされたら最悪だな」

「まさかそこまでは…五十男の妻子あるひとりカキコはキモ過ぎるだろ?」

「ただ、今現在、やつらしき人物にクソみそに叩かれている何人かの特撮イベンターやファンがいるんだよ」

「やつだって分かるのか?」

「99.99%ね。女部田氏が自サイトで批判してる内容・筆癖がそっくりだから、まず間違いないよ」

「叩かれる悪どい理由があるからじゃないのか?」

「気に入らない相手なら叩く理由なんて何だっていいんだよ。殆ど私怨だよ。共通して言えるのは相手にされなかったこと。そのことで切れて、衝動のままに叩きまくっているのが見え見えなんだ。しかも叩くパターンは皆同じだ。このパターンを分析しておけば、もし松橋さん叩きのスレが立った場合、犯人が女部田かそうでないかぐらいは分かる」

「おまえ、2ちゃんねらーなのか?」

「単なるサーファーでございます。事件が起こったりすると一番情報が早いんだよ。情報の信憑性は話半分としても、事件のニュアンスは伝わってくる。その延長で特撮関連も…だって松橋さんが出演されてた特撮番組には興味あるし…」

「2ちゃんねるで何か松橋さんの話題は出てる?」

「番組自体のスレは立ってるよ。制作側の苦労も知らないで、結構な上目線での批評だな。松橋ファンも結構いるんだよ。でも、松橋さんを誹謗中傷するスレは今のところ立ってないようだけど…もし女部田が悪質な2ちゃんねらーだとすれば、スレが立つのは時間の問題だろうな」

「私は売られた喧嘩は買う。ただし、私に関するスレが立っても、みんなは絶対にレスなどして拘らないように、ここで約束してほしい。いいね」


 一同は頷いた。そんな彼らを見て、龍三は劇団を作ったことが良かったのかどうかの迷いすら生じていた。


 かつて龍三が芸能事務所の研修所を卒業して間もなくの頃、地方巡業の話が来た。座長は尊敬する俳優・烏丸からすま 倫太郎りんたろうだった。脚本演出が局のディレクターとなれば行くしかなかった。稽古場には龍三以外、ばりばりの現役俳優が揃っていた。龍三が初めて体験するシェイクスピア作品…局ディレクターの演出…現役俳優陣の演技力の圧迫感など、緊張の日々が始まった。この人達と一ヶ月間、行ったことのない四国巡業で過ごせるなんて何てラッキーなんだろうと龍三は思った。


 稽古が進むに連れて台本の浅読みが露呈し、誤魔化しが利かなくなる。研修所でのお飯事のような稽古は何だったのだろうとまで思った。演技は虚構だと思っていたが、己の嘘の喜怒哀楽など相手役に伝わらないという逆説…なんて摩訶不思議で素晴らしい世界なんだろうと龍三は思った。これだけのキャリアのある俳優たちがTVドラマの仕事を休んでまで、なぜ地方の小中校の巡業に出るんだろうという疑問も湧いた。随分後になって龍三はそのわけを知った。今では当然のように存在する俳優の組合を創設する運動の一環だった。烏丸は、もうその時から活動を始めていたのだ。座長として、新人の龍三をその舞台だけではなく、組合創設活動候補の一員に加えたのである。龍三はその後、創設された組合の一員として活動することになるが、その時にはそんな事など全く眼中になく、只管、四国の巡業を楽しんだ。


 設備のない青天井に舞台を作って公演した事もあった。移動時間がギリギリで必死にキャラバンに荷物を積んで発車したら、公演現場がすぐ隣だった事もあった。ドシャ降りで車が畦道に嵌り困窮しているところに、頼みもしない無愛想に近付いてきた地元の農家のおじさんに助けてもらい、全員ずぶ濡れで公演先に到着したこともあった。公演の観劇を先生じゃなく番長が仕切っていた高校もあった。龍三は小道具を忘れて登場したり、客席に落としてしまったり、随分失敗もしたが、龍三にとっては全てその後の仕事に不可欠な教訓の引き出しとなった。観劇する子供達の目と会話できるようになると、絶対に手抜きは出来ないという気持ちが強くなった。この舞台は虚構でも、演技の心に嘘はない。心からの演技をすれば観客は共感して拍手を送ってくれる。どんな状況にあっても手を抜いてはならない事を学んだ巡業だった。そして、龍三は自分にも子供達に伝えるものができたと思った。いつか師の千分の一でも真似事のような活動をしたいと思いながら、相変わらず空と海と川の美しい四国をあとにした。


 龍三が四国から帰るとホームドラマのレギュラーが決まっていた。巡業公演の演出をしてくれたディレクターのご褒美だった。テレビでしょっちゅう見掛ける俳優陣がずらっと名を連ねる台本に、龍三の名前も印刷されていた。その撮影で龍三は初めて中空きというものを経験した。早朝に「ドライ」というカメラワーク・照明・台詞や動きの段取り合わせをして、実際の撮影が夕方という場合もある。その間の時間の使い方が中々難しかった。 携帯電話のある今と違って、連絡の付く所に居なければならない。かといって、長時間控え室に閉じこもっているのもつらいが、新米の身でスタッフに煩わしい思いもさせられないので、龍三はやむなく控え室居残り組になった。龍三は巡業先で座長からプレゼントされた携帯用の固形絵の具セットを思い出した。絵を描くことが好きな龍三は、ミニ色紙と水彩絵の具を携帯するようになった。そのうち、B5の小型原稿用紙もバッグに入る事になった。なぜなら、巡業でのシェイクスピア作品の脚色にすっかり魅せられたからだ。控え室で書き溜めたその創作脚本が十年後に仲間と最初に結成した劇団で上演する事になるなんて思ってもみなかった。控え室で龍三がコツコツとそんな事をしていると、時々暇を持て余した共演者が遊びに来るようになった。龍三は新米の身で豪く恐縮するだけで場が持つ話題を持っているわけもなく、苦肉の策でバッグの中身に折りたたみ式の「オセロゲーム」が加わった。これが人気となり、龍三の控え室が言葉も交わせなかった俳優陣も通うオセロ会場になった。


 そんな幸せな日はあっという間に過ぎ去った。番組のクランクアップはなんとなく寂しい…龍三はその感覚も初めて味わった。龍三にとっては、仕事より共演者の方々ともう会えないというのが寂しかった。しかし、その後、別の番組でばったり会った時には、再会の幸せが待っているという事も知った。共演者として龍三を大切にしてくれた俳優と再会した時が一番感動した。一方で、寡黙だったり敵対してしまった俳優との再会もあった。番組に賭ける情熱からの気持ちであれば互いを認めざる得ないなと反省もした。時間の経過が結局、以前より心を開く再会になることも知った。それから暫くして特撮番組に就いたのは、母との同居も落ち着いた頃だった。特撮番組を契機に龍三は俳優の仕事に夢中になっていた。間もなく訪れた辛過ぎる母の他界は劇中の遠い過去のことにした。


 龍三は初めての劇団を結成して、それまでに温めていた仕掛けづくしの舞台装置も存分に験す機会を得た。長年温めていた大掛かりな装置だったので、大きな作業場を持つメンバーの住む網代に通った事がある。仕上げの段階になって、出演者全員で本番前々日から泊まり込みで作業に入った。結局、寝ずの事態となり、一同ボーッとなったままの作業が続くうち、単純作業が出来なくなっているメンバーが出てきた。何度修正しても、結局また同じ場所に取り憑かれたように間違った色を塗り続ける者、ひたすら空腹を訴えて喰い続ける者、笑顔が固定してスローモーションのように動きが鈍くなる者…もはや限界と、みんなには仮眠を取ってもらい、龍三は一人作業を急いだ。そんな龍三を見て「眠れないから」と無理を圧して起きてきて作業を続行するメンバーもいたりして、感動の青春ごっこも味わえた時期だった。元々、職業にしたいと思っていた舞台美術は、実際にやってみるとそれ程魅かれていない自分も発見した。いろいろな意味で龍三にとって将来への実験の時期だった。


 今、龍三はそれだけの環境を、稽古に通う彼らに与えることは到底できない。その上、自分の過去に就いた番組のことで煩わしい思いをさせてしまっている。そのことで活動の継続に迷いが生じていた。


「悪いけど、鷹野は沙世を家まで送ってってくれ」

「あたしは大丈夫です」

「いや、これからは常に万が一を考えて行動しなければならないんだ」

「鷹野の方が危ねえんじゃねえのか?」

「前田さん、あなたと一緒にしないでください」


 一同は笑いながら解散した。龍三は彼らの笑いが嬉しかった。


〈第3話「Wストーカー」につづく〉

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