第6話 偽装の助け舟
海外旅行から帰ったという特撮ファン姉妹の
「新宿に行く予定がありまして、この機会に松橋さんにどうしてもお渡ししたい海外旅行のお土産があります。お時間ありましたら是非お会いしたいなと思うんですが如何でしょうか?」
この特撮ファン姉妹の姉に関する情報が、既に杉渕から龍三の元に入っていた。姉は交際相手とのトラブルで裁判沙汰になっていた。数日前に海外から帰ったばかりだが、勝訴の慰謝料による傷心旅行であることはほぼ間違いないだろうとの報告を受けていた。
妹の
後援会の警戒網が布かれた。龍三は特撮ファン姉妹と会う場所をこちらが指定するという条件で会った。場所は後援会員の奈良哲郎が経営する新宿の割烹『だまっこ』になった。龍三は劇団の沙世・沙希姉妹を同席させた。
「私が居なければ女子会ですね。何なら用件が済んだら私は席を外しましょうか?」
龍三はそう冗談を切り出して笑ったが、雲居雁・落葉宮姉妹の表情は強張ったままだった。姉の雲居雁が話し出した。
「松橋さん…大変良くない状況です」
「何がですか?」
「2ちゃんねるで松橋さんが誹謗中傷されているのはご存じかと思います」
「そうですか、ご心配いただいて嬉しいのですが、他人様の口に戸は立てられませんしね」
「でも、このまま放置しておくと松橋さんのお仕事にも悪影響を及ぼします」
「そこまでご心配いただいて恐縮です」
「私はこれから女部田さん主催のオフ会に出るんですが、私が間に入りますので、彼に会ってご相談なさったほうが宜しいんじゃないでしょうか?」
「それまたどうして?」
「お二人は誤解なさってるように思います」
「どういう誤解ですか?」
「鍋島さんの劇団退団の一件でご関係が拗れていると伺いました」
「誰からそんな事を?」
「・・・・・」
「鍋島さんの退団は私どもの劇団のことですから、外部の方々には関係のないことです。雲居雁さんにも勿論関係のないことでしょ?」
「でも、2ちゃんねるで叩かれているのは鍋島さんを退団させたことに対する批判です」
「どなたが批判なさってるんです?」
「2ちゃんねるで…」
「ですから、2ちゃんねるでどなたが批判なさってるんです?」
「…2ちゃんねるなので個人の特定は…」
「相手が誰か分からないなら、放っておくしかないでしょ。匿名で批判するより、本人の私に直接言えば手っ取り早いのにねえ…余程の恥ずかしがり屋さんなのか…それとも腰抜けのクソ野郎なのか…」
龍三は笑うと、沙世・沙希姉妹も思わず噴き出した。
「あなたたち…笑い事じゃないと思いますよ。ご自分たちの劇団の大切なリーダーが大変な事態になっているんですよ!」
「恥ずかしがり屋さんか腰抜けのクソ野郎が、PCの前で必死に匿名で誹謗中傷している姿を想像してしまったんです。それが可笑しくて可笑しくて」
沙世・沙希姉妹が再び笑い出した。どうやら匿名の恥ずかしがり屋さんの姿が、二人の笑いのツボに嵌ったようだ。
「松橋さんは、私たち特撮ファンにとって、特撮番組というものがどれだけかけがえのない存在なのか分からないんです。特撮ヒーローの松橋さんからそんな言葉は聞きたくありませんでした」
「特撮ヒーローというものを勝手に美化されても、私はご期待に応えるつもりはありません。私にとっては過去の仕事の一つに過ぎません。皆さんの思い込みに巻き込まないでくださいよ」
「松橋さんはあまりにも楽観的にお考えだと思います。2ちゃんねるの影響は想像以上に大きいんです。今のうちに対応なさらないと、大変なことになります」
「それは2ちゃんねるで書き込んでいるクソ野郎が主張していることでしょ? 2ちゃんねるの影響が大きいなんて、クソ野郎の思い上がりですよ。クソ野郎に同調しているバカが何人いると思いますか? 多く見てもせいぜい2~3人でしょ」
龍三の煽り方は稽古での指導の常套手段だった。それに鍛えられている沙世・沙希姉妹は、龍三の煽りをよく経験していた。こうして客観的に見ていると、こんなにも面白い鍛え方をされていたのかと…込み上げる笑いを堪えていた。
「2ちゃんねるは世界の誰もが目に触れることが出来ます! 誰が見ているか分からない怖さがあるんです!」
「事実を知らない数人の欲求不満がネットの狭い井戸端で大騒ぎしているだけでしょ? あなたは違うでしょ? 事実を知りたくて私に会いに来られたんじゃないんですか?」
「・・・・・」
「事実を知りたくて来られたんじゃないですか?」
「それは…そうですが…」
「2ちゃんねるのクソ野郎の戯言より、本人の私に事実を確認して帰ってくださいよ」
「では、鍋島さんを辞めさせた理由を聞かせてください」
「そうです。真実は匿名ではなく、直接本人に会って聞くのが一番です。鍋島さんはね、ご自分から退団なさったんですよ。こちらから退団させたわけじゃありませんよ。急に鍋島さんと連絡が取れなくなって、数日後に控えた試演会が緊急事態に陥りもしました。鍋島さんの退団は、タイミング的にも我々が一番困りました」
「2ちゃんねるは、真実がどうであれ関係ないんです。早く事態を収拾しないと大変なことになります」
「誰が大変なことになるんですか?」
「…誰って、松橋さんに決まってるじゃありませんか!」
「私は全く大変なことになってませんよ」
「これからなるんです!」
「なるんですか? それは確かな根拠があって仰ってるんですか? 予告の責任は取れますか? 見方を変えれば…そう、もし厳ついこの私が美しくかよわきあなたに同じような予告を凄んだ場合、脅しにも成り得ませんか? あなたの予告は私への脅しですか?」
「違います!」
「我々は2ちゃんねるを基準にして活動しているわけじゃありませんから、2ちゃんねるがどうであろうと関係ありませんよ」
「でも、このまま放っておくと、いずれ皆さんの活動に悪影響が出てしまいます。早く収拾するめに女部田さんにご相談なさった方がいいと思います」
「2ちゃんねるを収拾することと、女部田さんと、どういう関係あるんですか?」
「女部田さんにご相談すれば、これ以上、傷を広げなくて済む対処をしてくれると思うんです」
「仰ってる意味がよく分かりませんが…女部田さんに相談すると2ちゃんねるを収拾できるんですか?」
「そうです! 彼はそうした問題を収拾することが出来る人なんです」
「それは凄いですね! 2ちゃんねるを収拾できるなんて、相当な人格者か、そうでなければ叩いている当事者くらいのもんですよね、普通に考えれば」
「・・・・・!」
「海外旅行はどちらへ?」
龍三は敢えて話題を逸らした。やはり、こいつらも女部田の指示で来たか…今日の女部田主催のオフ会に松橋龍三という手土産を同行させたくてここに来たか…相談という形でこの私に白旗を上げさせたいのだろうが、無駄足にして返してやるよ…龍三は微笑んだ。
「残念です」
「残念な海外旅行だったの? 旅先で恋人と喧嘩でもなさったんですか?」
「・・・・・!」
龍三は杉渕からの情報を確認したつもりだったが、雲居雁は想像以上に龍三の言葉に狼狽えた。
「旅行は…以前から計画していたことで、休暇が取れたので…」
「女性の一人旅ですか…雲居雁さんなら、それも絵になるでしょうね」
「残念と言うのは、女部田さんと和解していただこうと思ったのに残念という意味です」
「ああ、そっちの残念ね。いやいや、彼と和解する理由は何もないですよ。そもそも彼と揉めていることは何もないからね。それとも、2ちゃんねるの書き込みは彼なの?」
「違います!」
「そりゃそうですよね。奥様がいて…お子様も今度高校生ですか? …そんな彼が、2ちゃんねるの恥ずかしがり屋のクソ野郎であるわけがない」
沙世はもう笑いを吹き出す限界に達していた。妹の沙希は陰で必死に姉の衣服を引っ張って制していた。
「その彼が書き込みしてる人が誰だか分からなくても、事態を収拾できるなんて、私には意味が分からないんだが…彼が書き込みしてないことだけは雲居雁さんには分かるんですね」
「・・・・・!」
「成程、そうですか…まあ、それだけ彼を信頼なさっているということですよね。楽しいオフ会になるといいですね」
「あの…」
落葉宮が初めて口を開いた。
「私は…」
「あなたは黙ってなさい」
雲居雁は妹の発言を制した。彼女は何か言いたげに龍三を見つめて目を伏せた。龍三は落葉宮は何を言いたかったのだろうと気になった。
かつて女部田との軋轢がなかった頃、姉の雲居雁から落葉宮が引籠りだということを聞いた事があった。龍三は劇団の公開稽古に落葉宮を誘ってみた。姉の雲居雁からは、妹はいつも自分が付いていなければ外にも出られないと聞いていた。しかし、妹は公開稽古にひとりでやって来た。打ち上げにも出て楽しそうだった。姉から聞いていたのとはまるで別人のように明るい女性だった。
発言を姉に制されて龍三を見つめた彼女の目は、何か助けを求めているようにも見えた。もしかしたら、何かを言いたくて姉と一緒に来たのではないのか…龍三はそのことが気になった。恐らく、コンプレックスを持っているのは妹ではなく、姉のほうではないのかと龍三は思った。
「今日は海外旅行のお話で来たんじゃなかったんですか?」
雲居雁は慌ててバッグからお土産を出して龍三の前に置いた。
「これ、どうぞ…」
「あら~、海外旅行のお土産ですか! トランプですね! ありがとう!」
「トランプのコレクターだと聞いてましたので…」
「よくご存知ですね! ご当地トランプには目がなくて」
龍三は笑いながら妹の落葉宮に話を振った。
「落葉宮さんへのお土産は何だったのかな?」
「…ぬいぐるみ」
「ぬいぐるみですか…何のぬいぐるみですか?」
落葉宮が穏やかな表情に戻って、龍三に答えようとすると、雲居雁はあからさまに水を差した。
「帰ります!」
「まあ、何か食べて行ってくださいよ。ここのお料理、おいしいんですよ」
「もう時間がありませんので…」
「タイムリミットですか…雲居雁さんのご期待に沿えなかったようで残念でしたね」
雲居雁はきつい表情で龍三を睨み、席を立った。
「女部田さんに伝えることがあれば伺っておきます」
「何もありません」
龍三は微笑みながら即答した。雲居雁は、龍三のその微笑みの奥から発せられる射抜くような鋭い視線に恐怖を覚え、思わず目を逸らした。悔しげにバッグを手にして足早に出口に向かった。落葉宮はそそくさとお辞儀をして姉の後を追った。店を出て行く二人を見ながら、沙世はポツリと呟いた。
「妹さん…なんだか可愛そう…」
「あたしもそう思った!」
「あたしもあんな感じ? 不安になった」
「あそこまでじゃないけど…あんな感じかな」
「えーっ、やだ、やだ、やだ!」
「だから、あたしは可哀そうなんだよ」
「ざけんな!」
姉妹は情けなく笑った。
「お茶のお礼も云わなかったわね」
「終始、上目線で何様のつもりかしら」
「特撮オタ様なんだよ」
奥からオーナーの奈良が出て来た。
「一応、会話は頭から録っておきました。何れ裁判資料になるかもしれないんでね」
「お腹が空きました。松橋さん、ここのお料理、美味しいんでしょ?」
「美味しいよ! ただ、今日はね…」
「今日は、彼らがオフ会をしている新宿から離れたほうがいいでしょ」
「今度いらっしゃい」
「奈良さん、今日は場所を提供してくださってありがとう」
「いいんだよ。あの特撮オタ様たちが偵察に流れて来ないとも限らないので、今日は閉店!」
「そのために閉店なの?」
「と言いたいけど、もともと今日は定休日だよ」
食事が出来なくて萎んでいる沙世姉妹を龍三が笑った。
「そんなにショボくれるなよ。奈良さんが場所を替えて御馳走してくれるんだから」
龍三たちが店を出ると、道路向かいの国道から女部田指令に失敗した姉妹が店の写真を撮っているのが見えた。龍三が大袈裟に手を振ると、姉は踵を返すように足早に、妹は気まずそうにお辞儀をして去って行った。
〈第7話「情報Ⅰ」につづく〉
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