第7話 情報Ⅰ

 女部田が2ちゃんねる上で愚行をエスカレートさせてから、更に三年が経った。後援会の嶋田と杉渕は、これまでのスレの魚拓や資料を持って龍三の自宅を訪れていた。龍三はコーヒー好きな二人のために、いつものようにサイフォンコーヒーの支度を始めた。


 龍三叩きのレスはやや速度を落としたものの、スレパート5に達していた。主演カキコの連日の続投も止む気配はなかった。この頃になると、自己正当化のために過去の自分の虚言レスを証拠として使い増しするマンネリ化が目立ち始めた。


「相当苛ついてるな。こちらの反応がないことに苛立ちを越えて焦りすら感じているのか?」

「糞中の糞柱は、私に糞溜りの共催を期待しているらしいな」


 この頃になると、龍三は自分を叩いているスレを “糞黙り ”と命名していた。


「こんな薄汚い土俵に乗るやつも物好きとしか言いようがないな」

「暇なのさ」

「レスが複数ならな」

「確かに…これはほぼひとりだな。たまに側近らしき…いや、主演カキコが勝手に側近と思ってるやつかもしれないが、その主演カキコを煽ってる感じだな」

「今までは、歪曲乱舞の妙技を黙って愉しませてもらうのが芸の肥やしにもなるし、利巧だと思っていたが、これからは少し主演カキコを現実世界に引き擦り込んでやるのも一興かなと思っているよ」

「この脳内変換癖が主演カキコ自身の中で、いつの間にか真実化しているとみえる。たまの外野や記念カキコとの筆癖の差が、群を抜いてるからすぐに分かるが、本人は気付いてんだろうか?」

「本人だけが気付いてないだろうね。主演カキコは、龍ちゃんを叩かずには心の安定が得られない程2ちゃんねる…というか糞黙り中毒になっちまってる」

「想像が付くね。恐らく夕方になると、鬱屈が抑え切れなくなってPCを開けるんだろうよ」

「取り敢えず、ビールって感じでね」

「PCまで持たないだろ。PCの前に携帯にお漏らししちまうんじゃないのか?」

「知り合いの不動産組合のメンバーがくれた情報では、やつは3台の携帯を持っていたという話だよ」

「3台の携帯と2台のPCを駆使して、複数の特撮ファンが龍ちゃんを叩いてる仮想世界を創っているわけだろうが、このところレスの連投に余裕の無さが現れて来たね」

「携帯とPC以外にも複数のネットカフェに、自慢の大型クライスラージープで県を跨いで通ってるようだ」

「ご苦労なことだな」

「どこで書き込んだって、あの筆癖でバレバレだがな」

「特撮ファンってのは、同じ臭いがするんだよ…しょんべん臭えってのか、ミルク臭えってのか」

「この甘ったるい書き込みなんか、その典型だよ。 “汚された美しい想い出を返してください ”だとよ。笑わせんじゃねえよ」

「他人様を卑怯な匿名という手段で言いたい放題…汚されてるのはどっちだと思ってんだよ」

「幼稚と稚拙はえれえ違いだからな」

「特撮ファンが番組で影響を受けた “正義 ”を称賛し、同じファン仲間と共に懐古に酔いしれることは極めて健康的なことなんだろうが…ただ、オレはね…限度を超えた悪質なファン “もどき ”に対してまで、無抵抗なテレビの中の架空の存在でいるつもりはないからね。結界を破って不用意に近付けば、容赦なく厳しい態度を取らせていただくしかない」

「躾だよ、躾ね」

「でも2ちゃんねるに参戦せずに、どうやってその躾ができるかだな」

「最終的にればいいんだよ、9寸5分のナガサでね」

「おい、龍ちゃん、ナガサを凶器にするのだけはやめてくれよ。あれは神聖なものだ」

「そうだな…オレが殺る前に山神さまが天誅を下してくれると信じたいな」

「おまえら、なに罰当たりな冗談言ってるんだ。まず、これらの魚拓から推理できることだが…現時点の主演カキコは “挙げた拳 ”の振り下ろしどころに困って暴発寸前の態だということ。そして、日々 “糞溜り ”モニターを携帯から、PCから、ネットカフェから凝視し、慢性的な自傷の衝動に駆られているということ。さらに、その中毒の不安に日々苛まれているということだ」

「変化は? 今までと違う変化はあるのか?」

「実はこのところ、このレスの主演カキコと思われる人物の量産ハンドルネームによる他サイトへの書き込みが、手当たり次第になってるんだ。やつは、特撮関連サイトの至る所に、消せない足跡を残しまくっている」

「不安が溢れ出してるってことね」

「当初はそのコメントに対して、それぞれのサイト管理人は返してたんだが、余りにも頻繁で内容も理屈っぽい上、自己宣伝がしつこいので、サイト管理人がスルーするようになったんだよ。今じゃ完全に無視だ」

「つまり、実質上の出入り禁止状態ということか」

「そこまで来たか…」

「主演カキコは他人を強く叩く割に、自分は驚くほどガラスの神経だ。善き日再びと必死になって、サイト常連やフェイドアウトされた元特撮ファン仲間に交流復活を要請するしかなくなった。ところが、その努力も空しく何処もナシのつぶてで、ガラスの心は崩壊寸前まで罅が入り続けている…と考えられるわけだ」

「とっくに崩壊してるから、いい歳こいてこんなバカやってるんだろ」

「そうした状況とテレコして、女部田氏の共催相手が誰もいなくなったらしく、このところ彼はイベントから遠ざかっているよ」

「特撮ファン同士が、女部田怖ろしやで自己保身のために消極的になってるわけか?」

「女部田怖ろしやというより、女部田面倒臭やというとこだろうな」

「運営スタッフだけじゃない。やつとの共催経験者はこれまでパーフェクトに絶縁に至ってるだろ」

「対立した面子が糞溜りを興味深く覗いてることは考えられるな」

「主演カキコの形勢が悪くなったらどうなるか…見ものだな」

「強い側の味方になる…それが特撮ファンの正義だろうからね」

「トバッチリを受けたくなければそうなるだろう。平和主義者はトラブルには関わらないほうが一番と勘違いしてる。やつらの考える特撮番組的正義は、全てが責任転嫁に通じているってことみたいだからな」

「お籠り連中の考えそうなことだ」

「全部が全部そういうわけじゃないだろ。例えば、アスペルガー症候群の逆恨みだが、彼らにはマイルールがある。彼らのマイルールに違反すると執拗に逆恨みされ続けることになるんだ。たまたま特撮ファンの中にそういうやつらも混じっているってことなんじゃないの?」

「だったら特オタってのはアスペルガーだらけじゃねえのか?」

「それは偏見だな。アスペルガー症候群は優れた才能の偏りなんだ。脳の中にお宝が隠れているんだよ。ある意味、羨ましいよ」

「てことは、主演カキコは龍ちゃんに高い期待を寄せていたんだろうな。それだけに、やつのマイルールどおりになってくれないショックが大きくて逆恨みすることになった…」

「交通事故だな」


 嶋田はもう一つの情報も話し始めた。


「これはちょっと重大な変化なんだが…やつは、何もかも思惑どおりにいかなくて、ついに他の複数の特撮ヒーローにも誹謗中傷の範囲を広げたようなんだ」

「そもそも特撮出演者に誹謗中傷の手を下すというのはイベンターを続けるなら本末転倒な話だが、龍ちゃんを潰せないフラストレーションでそうなったのかもな」

「江戸の仇を長崎でってやつか?」

「他のヒーロー連中は龍ちゃんのように戦闘態勢は取れないだろ、体面第一だろうから」

「しかしな、出演者の度を越したファンへの迎合が誘い水になって、女部田のような勘違い野郎を生むこともあるんじゃねえのか?」

「耳が痛いよ」

「龍ちゃんのことを言ったわけじゃないよ」

「いや、五十歩百歩かもしれない…オレは甘っちょろい思いやりが仇になってしまった。出演者にとって軽いリップサービスのつもりで言ったことが、相手によっては迎合にも強制にも受け取れるだろうから、気を付けなければならないことなんだよ。甘っちょろい思いやりで痛い目に遭うのは一度で充分だ。分厚い結界を造って、特撮関係者全員をシャットアウトするしかない」

「2ちゃんねるの論理を見てると、曲解、妄想で99%味付けされてるからな。ど素人の主催するオフ会は危険極まりないということだよ。トラブルを避けるには龍ちゃんのように素人には頑丈な結界を作るのが一番だな」

「それでも何年も吠え続けているキチガイは例外中の例外じゃないのか?」

「そういうやつが存在するわけだから、どうしようもないよな」

「特撮ファンは善人だけという安易なイメージがあった。対人関係に閉鎖的な自分としては、実に不用意だったと反省してるよ」

「相手が悪かったかもしれないが、向こうにしても相手が悪かったと思ってるんじゃないのか?」


 杉渕は若かりし頃の龍三をよく知っていて、そのことを冷かして笑った。


「龍ちゃんを甘く見たら死ぬまで怖えぞ」

「お蔭で多くを学んだよ。特撮ヒーローが悪に立ち向かうには、番組と違ってお利口さんな正義や思いやりでは通用しないんだ。はっきり言えるよ。特撮番組は教育番組でなんか決してない。単なる理想の娯楽番組なんだよ。多くの子供に歪んだ正義を生ませる危険な娯楽番組かもしれない。出演した特撮ヒーローが番組のイメージで一生正義を求められても、応えられるわけがない。現実は正義だけではめったに勝てないからな」

「あれと同じだな。アイドルはオシッコもウンチもしない症候群。クソ垂れなきゃ死んじまうだろ」


 女部田は特撮俳優や友好関係にある特撮ファンには、歯の浮くくすぐりが得意である。同時に、実は他者からの歯の浮くくすぐりが大の好物でもある。自分へのそうした言葉は、尊崇の言葉と受け取り、2ちゃんねる上での外野の煽りに面白いように乗せられていった。煽りに込められた皮肉が女部田には分からない。ここに来て、なぜ龍三を誹謗中傷し続けなければならないのか、女部田自身にも分からなくなってしまった苦しい心の台所事情が伺える。嶋田らは主演カキコの攻撃パターンがマンネリ化して来たことで攻撃のバリエーションが底を突いたと判断した。

 杉渕が2ちゃんねらーの分析資料を出した。2ちゃんねらーが好んで叩く対象について詳しく記されていた。


「2ちゃんねらーを異常者と捉えるのは楽だが、それだと対処する策などないんで、彼らを普通の人間だと仮定して、その特徴を捉えて弱点を見付けるほうがいいだろう。件の主演カキコのこれまでの魚拓を見れば、まず神経質で相当な孤独恐怖症であることが窺える」


 杉渕の分析によると…第一に、件の主演カキコは、自分にとってのみ都合の良い行動を相手に強要しようとする余り、前後不覚に陥り全体像を見失い易い。そして、その失敗に於ける反省能力がないところが第一の攻撃材料になる。つまり龍三の取った策であるところの、相手の土俵に乗らず、相手の好まざる態度を貫いている作戦は心理的に極めて有効だったということだ。

 第二に、件の主演カキコは、自分の欠点は黙認し、攻撃対象の欠点を突きながら、良心、正義感にうったえて揺さ振りを掛けて来る。この手法は著名人には効果的だ。しかし、龍三の場合、自分が左程の著名人でもないという自覚があり、下らん体面など気にせず、あらゆる会合の場で正直に匿名の叩き屋に対する敵意を表明していることで、敵にとって攻めどころとして無効になっている。多くの特撮ヒーローは己の悪評が立つのを恐れて、特撮ファンと名乗る人物の要求にはせっせと応え、龍三のような一件には黙して語らず、無関心を装っている。先々に於いては、正義であるはずの特撮ヒーローらのそうした優柔不断な姿勢は、事態を客観的に見ることのできる特撮ファンによって疑問の目を向けられることになろう。つまり、件の主演カキコと癒着のある特撮ヒーローのプライバシーを公に晒すことが効果的であろうことが分かる…が、龍三はその案に対しては渋った。

 第三に、件の主演カキコは、特撮ヒーローに接近する手段として、贈物作戦、俄か偽装ファン作戦、他俳優からの紹介作戦などを駆使している。対象を信用させる騙しのテクニックにもかなり長けている。対象から携帯電話を借りるなどして個人情報を手に入れ、万が一の攻撃材料にする手法もお手の物だ。捏造やハッタリを並べるだけでビビる特撮俳優が驚くほど多いことを知ってしまった主演カキコは、俳優落としに自信すら持っている。しかし、龍三の場合、朧月子の一件以来、特撮関係者に対して一定の距離を譲らなかったことで、望みどおりの情報が入らず、捏造もハッタリも妄想主体のかなりの筋違いなものになり、スレを重ねるに連れて2ちゃんねるの外野連に食い足りなさを抱かせてしまっている。それが徐々に主演カキコの勢いに暗雲を落としている。その外野連の苛立ちが逆に主演カキコの個人情報を晒すや、主演カキコの面白い程の乱れように、事態が急展開しつつある。主演カキコがその火消しに躍起になっていることで外野連は喜び、このスレに新しい興味を持った。つまり、このスレは主演カキコが叩かれるであろう展開を醸している。主演カキコの立場が逆転し、叩かれる対象になった場合、己の悪評に至るものは全て火消しをしなければならなくなる。龍三の場合は無視すれば済むことでも、2ちゃんねる叩きが中毒になってしまった主演カキコにとって、無視の忍耐は不可能なことであり、自己弁護に駈けずり回ることになろう。そうなった場合、龍三をさらに叩くことに救いを求め、これまで以上に龍三を叩かずにはいられなくなる。主演カキコが龍三を叩けば、外野は益々面白がって主演カキコにブーメランレスを返す。主演カキコは必死にならざるを得ないのだ。そして、そのひとり相撲の攻防も限界を迎える時は必ず来る。


 龍三による主演カキコ晒し…こうした事態に誘い込むために、件のスレが立って間もなく、龍三はスレの未来を予言する『主演カキコ物語』を執筆し、後援会のブログに掲載していた。その予言が的中して、急に閲覧数が上がっている昨今、主演カキコを追い詰める効果が顕著に表れてきたことを物語っている。

 第四に、件の主演カキコの松橋龍三という人間に対する誤算である。予定では、松橋は真面目な人間…作戦としては、2ちゃんねるでスレが立ち、ひどく叩かれていることを告げれば、自尊心過剰なはずの龍三はそのことだけで派手に取り乱すであろう…そして相談に乗って解決してやれば、以後の交流に際し主導権を握ることができる。要求は思いのままだ…主演カキコは、他の特撮ヒーローを嵌めていた成功体験でそう自信を持っていた。

 ところが結果はどうだろう。龍三は闘志を剝き出しにしてきたばかりか、2ちゃんねるの叩き内容を逆手にとって後援会のブログに『主演カキコ物語』を掲載したのだ。その内容によって2ちゃんねる叩きの捏造が次々に暴かれ、主演カキコの人間像がリアルに晒されている。『主演カキコ物語』は、外野らが2ちゃんねると双方較べて楽しめる内容になっていた。

 第五に、件の主演カキコが自分自身という人間に対しての誤算である。自己称賛の主演カキコは、自分は強い人間だと疑わなかった。家庭でもそうであったように、常に上目線で通して来たレスで、いつの間にか自分は絶対的な権力者であるかのように錯覚していった。2ちゃんねらーは相手のコンプレックスが大好物である。弱い部分を攻撃するという心理戦は基本中の基本だ。コンプレックスを攻撃された相手は平常心を失いやすくなる。一旦暴発した激情は犯罪や自殺に最も近くなる。ところが、中々責めるべきコンプレックスの見当たらない龍三を攻めあぐねている間に、龍三の『主演カキコ物語』で自分のコンプレックスをドラマチックに描かれてしまった。日々、他人を甚振ることを無上の喜びにしている外野連は、今後そのターゲットに主演カキコと松橋龍三の何れを選ぶかは目に見えている。


 龍三は主演カキコがスレを立てて以来、『主演カキコ物語』以外、自ブログの閲覧を即座に制限した。悪意の彼らは個人情報を容易に得られる日記等のコンテンツを隈なく読み漁り、偽造HNで善人を装って近付いたり、架空の個人情報を伝えて信用させようと様子を窺ってメール交換を申し込んだり、増産HNで質問してはさり気無く情報を伺ってくるなど多種多様の術を使ってくる。それが彼らの二十四時間体制の趣味だ。

 しかし、件の主演カキコには決定的な欠点があった。筆癖が濃い上、堪え性がなく、要求が短兵急なのですぐに同一人物とバレる。自分が優れているという自負のせいで、自作自演もすぐにバレてしまう。大胆な攻撃の反面、攻撃された場合、動揺を隠せずに感情的になって更に攻撃の手を強める。攻撃がイコール動揺していることを敵に悟られてしまうというのが主演カキコの哀しい性である。

 最大無敵の効果があると信じてやまない2ちゃんねるで、お山の大将を気取っていたはずが、自分が立てたスレで閑古鳥が鳴くと、何とか自分にとって満足な匿名自己レスを見せたいがために、わざわざ特撮ファン関係者のブログに通知して回る。2ちゃんねるは人が見て初めて効果がある一方で、見なければゴミ同然の代物だ。

 主演カキコを晒す龍三の対策は成功に向かっていることは確かだった。嶋田と杉渕は、龍三の『主演カキコ物語』掲載のシリーズ化を勧めた。龍三もそれを了承した。しかし、龍三は主演カキコに対する殺意を消すつもりは毛頭なかった。龍三にとって主演カキコに対する合法的社会制裁など片腹痛かった。


 女部田という人間はプライドの高い人間である。自分より他人が幸せであることは許せなかった。周囲に比較して自分が一番優れている人間である必要があった。誰からも愛され、尊敬されている必要があった。従って、自分より優れ、自分より幸せで、自分より愛され、自分より尊敬されている存在は叩き潰す必要があった。女部田は、その象徴的な不満を松橋龍三という人間に的を絞った。龍三より優れているはずの自分は愛されず、そのせいで自信が持てないという怒りが込み上げてくる。この怒りで心が潰れそうになり、自分を傷付けそうになると、龍三を2ちゃんねるで叩くことによって辛うじてプライドを保ち、一時の平静を取り戻すという悪循環を何年も繰り返していた。

 最初、その矛先は自サイトの共同運営者に向いていた。そのうち、イベントを企画開催するようになると、イベント協力者一個人に向いた。そして責任回避策で共催者を迎えるようになると、その共催者に向くようになった。更に招待した特撮ヒーローに向かい、最終的に他のイベンターに向き、今ではその全てを敵と判断するようになってしまった。女部田の味方は己の分身のみ。偽装HN、量産HN、架空HNが闊歩できるインターネットの匿名は、女部田の信頼できる戦友である。全て自分の分身なのだから裏切る者はいない…と、バーチャルなネット空間の深みに嵌り、叩く相手が現実世界の生身の人間であるという認識が麻痺していった。そこで躓いた石が、厄介な現実・松橋龍三という石である。


 サイフォンコーヒーの香りが部屋全体を癒している。作戦会議で一息吐く龍三は、カップにコーヒーを注ぎながら呟いた。


「残るだろうに…自分の子供たちがいつかそれを目にした時、もう消せない父親の恥の勲章が…」

「もう目にしているだろうよ…家族との不仲がそれを物語っている」


 そうだった…女部田の息子は既に中学時代にオタである父親に嫌悪感を抱いて今に至っている。杉渕の調査によって主催オフ会が妻への裏切りの場と化していることも明らかになっている。家族だけにとどまらず、特撮オタであるがゆえに、その醜態は健全な特撮ファンの嗜好をも汚す行為となる。女部田と交流を続ける特撮ファンにしても、グッズが貰えるからとか、敵に回すと面倒だからという理由で、暴走する主演カキコの援護を装って群がる。そんなことでグッズを手に入れて満足しているというのも、悪意すら醸しているが、女部田には気付かない。仮想世界に魅了された似非特撮ファンの女部田にとって、彼らは無機質な下僕でしかない。自分の足下に群がって従順であればそれでいいのだ。あろうことか、その下僕の中に元特撮ヒーローも複数存在し、女部田の被害に遭った特撮ファンらのことなど黙して正義の偽善を装っている姿が、龍三にとって最も残念なことだった。

 

 昨今、年少者のLINEの心無い書き込みが不幸を招いている。誹謗中傷の対象になった子たちは優しい子ほど孤立に向かう。みんなと仲良くとか、誰に対しても思いやりをとか、相手の過ちを許してやろうとか、凡そ自己防衛とは逆行する能書きに洗脳されて育っている。

 生き残るためには殺意すら養わなければならないことを教育者や親たちは禁忌なものとしている。誹謗中傷は悪い事と教えられ、かと言って、それに対する復讐も悪い事と教えられる。復讐のどこが悪いのか…復讐には様々な手段があろう。いじめの相手より幸せになることが最大の復讐ではないのか…ならば、誹謗中傷は強くなる “負のお手本 ”として学べばいいということになる。打たれ弱い孤独な犬こそLINEで吠えるものだし、糞に群がる蝿は一生を通してどこにでも湧いてうるさいものだ。そんなものに歩調を合わせてあげる必要など全くない。況してや、自らの命を犠牲にする価値など更々ない。糞や蠅の危険が迫るなら、形振り構わず無様に逃げていればいい。登校拒否、引籠り、家出、自殺、結構なことじゃないか…その苦痛の叫びは立派な自己防衛だ。教師、生徒の中に蔓延るクソや蠅の存在する学校に通うことに、どれだけの価値があるのだろう。


 しかし待てよ…引籠って何になる? 家出して何になる? 自殺して何になる? いじめられている自分に、更に自分の手で負荷を掛けて何になる? 誰が自分を守ってくれるんだ? 両親? 祖父母? 兄弟姉妹? 親戚? 友達? 担任? その誰にも守ってもらおうとしないから、今、自分はいじめで苦しんで自殺まで考えているんじゃないのか? 助けを求めたのに誰も守ってくれないから、どうせ死ぬしかないんだ…そうか、止めやしない。ただし、死ねばいじめたやつらが反省するとでも思ってるなら大間違いだ。真逆だ。やつらは目的達成で大満足するだけだ。


 仮に、加害者に良心の呵責があるとしても、時の経過が、やつらの良心を癒してしまうんだ。時間までもが加害者の味方をするのだ。死ぬのは止めやしないが、どうせ死ぬなら、その前にその命を賭けてならやれることがある。それは積年の恨みを晴らす楽しい復讐ごっこではないか? だから考える、考え抜く、楽しい復讐ごっこのために学ぶ、自分の成長を待つ、復讐のチャンスを待つ。待てないなら法を犯して復讐するしかない。

 しかしそうなると、被害者と加害者が逆転して大損ではないか? 待てるなら、今は歯を食いしばって時間を稼ぐ。自分を磨く。これから五十年…そのうち必ず復讐のチャンスはやって来る。それまで自分をいじめたやつらに一生へばり付いて、やつらがチャンスを掴もうとする就職・恋愛・結婚などあらゆる節目節目のその時に、彼らの前に現れるだけでいい。上司を交えて、恋人を交えて、妻を交えて、じっくり楽しみながらいじめられた苦しみの日々を思い出させて甚振ってやればいいじゃないか? いじめた当人以外、誰も文句を言わない。誰にも文句を言われる筋合いもない。せいぜい特撮ファン “もどき ”と同類の偽善者どもが、人権、人権と徒党を組んで空しいお題目を唱えるだけだ。何が起こったって、どうせ自殺したはずの命なんだから痛くも痒くもないだろ。


 誹謗中傷を受ける事は寧ろ名誉な事で、それを踏み台にする発想が持てたら強い自分への第一歩ではないのか…凶器の心を養い、実践する日を目標に自分を鍛えることは楽しそうではないか? もしそれでも己が行き詰まったら、その時こそ、最後の手段に出ればいいではないか…どうせ死ぬんだから。ただ、死ぬ順番はいじめの主犯共犯者が先だ。いじめられている自分の生きる誇りを、自分以外に誰が守れるというのだ。誰も加害者を裁けないなら、復讐を実行する被害者のことを誰が制止できよう。誰にも止められる筋合いはない…人は生き方より、終わり方が大事だ。それを思えば、今、自分が何をすれば良いか分かるはずだ…


 龍三はそんなことを考えながらコーヒーを啜っていた。


〈第8話「変化」につづく〉

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