11 とんでもないものを盗まれました
時計は午前六時を指していた。
今日は平日だし、一度帰って着替えなければ会社に行けない。ミサは顔をしかめる。同じ服を着て行くなどもってのほか。
(あー、先週に引き続き、なんで平日にこんなに飲んでんだろ。……ここから家まで15分くらい? じゃあすぐ帰れば余裕か)
慌ただしく身支度をしたミサは、部屋を出るなり何か忘れ物をしている気になる。
だが既に室内の自動精算機で清算済みだ。普通のホテルとはシステムが違い、清算後は中には入れない。
バッグの中の財布とスマホを確認すると、あとはしょうがないと諦める事にした。場所が場所だけに、さすがに従業員に問い合わせなどという間抜けな事は避けたかったし、何よりそんな時間が無い。
それでも後ろ髪を引かれ、立ち止まるミサをウエハラが振り返った。
「なにしてんすか。出るっすよ」
「いっしょに!? 誰かに見られたらどうすんのよ!」
冗談じゃないと目を剥く。だが、
「腹減って無いっすか? 朝から開いてる美味い店知ってるんすけど」
ウエハラはへらっと笑って提案する。
「あんた、話聞いてた!?」
「あ、別にファストフードでもいいっすよ」
「だから、話聞いて――」
「あ! あそこにいるのは高階くん」
「なっ」
ミサは条件反射的にウエハラの巨体に身を隠す。直後、ウエハラがその名を知っているはずがないと気づき、激した。
「なんであんたが彼を知ってるわけ!?」
「なんでって、昨日自分でぺらぺらしゃべってたじゃないっすか。振られたから慰めてーって」
もしかしたらそうかもしれない、と曖昧な記憶の中を探るが、後半はあからさまに嘘だ。ミサは振られてはいない。――振ったのだ!
「しれっと嘘吐くな!」
とっさに叫ぶが、
「あんまり大きな声は迷惑っすよ。ってか、かなり目立ってるっす。誰かに見られちゃまずいんじゃなかったすか?」
ニヤニヤ笑われてミサは飛び上がった。ロビーで追加料金の精算中なのか、何組かのカップルが気まずそうに、しかし、しっかりこちらに注目している。幸い知った顔はないものの気まずさはマックスである。
集まった視線に頭に血の上ったミサは、ウエハラのスーツの裾を引っ張ると、足早に外に出る。
そして、いかがわしいホテル街を無言で駆け抜けると、ちょうどカフェの看板が目に入った。ミサは事情徴収の続きを行おうと彼を店へと連れ込んだ。
**
店内に漂うコーヒーの匂いを嗅ぐと急にいつもの日常が振って来た。
落ち着きを取り戻したミサは、朝限定のメニューを注文する。イングリッシュマフィンにベーコンとチーズとレタスが挟まれている。付け合わせにハッシュドポテトとコーヒーというありふれた朝食だが、すべて温かいのがほっとする。
遅れてやって来たウエハラが、ミサの目の前にパンケーキのセットを置き、さっそくメープルシロップとバターをケーキの上に乗せている。
バターがケーキの熱でとろとろと溶けて行き、卵とシロップの絡み合った甘い香りが漂う。
(うっわああ……美味しそう……でも、こんなメニューあった?)
ミサは多くの女性と同じく甘い物には目がない。だが、話が出来れば朝食はどうでもいいと思っていたため、せっかちに最初に目に入った物を注文してしまったのだ。
(迂闊だ)
じっくり選べば良かったかも、と羨ましく思った瞬間、ケーキを切って口に入れようとしていたウエハラと目が合った。
「……一口いるっすか?」
フォークを差し出され、ミサは慌てて視線を自分の食事に落とした。どうしてウエハラとそんなコイビトごっこみたいな真似をせねばならないのだ!
「――って、あのね、別に一緒に朝食食べるためにここに入ったわけじゃないんだよ!」
「食べてからでいいじゃないっすか? でも何の話っすか?」
「それは――」
(……なんだっけ?)
パンケーキに気を取られてど忘れしたミサは焦る。事情徴収が進まなければ、本当に朝食を共にするためだけにここにいることになりそうだ。
ミサはうーんと唸りながら必死で思い出そうとする。だが、焦れば焦るほど頭の中が真っ白になって行く。
ウエハラはその間、待ちもせずにパンケーキをどんどん口に運び、とうとう最後の一切れまで口にいれた。続けてハッシュドポテトを齧り、最後にカフェラテに砂糖を入れる。
そこでミサはまた目を見開いた。
「なに、カフェラテとかあったの!? うそ!」
「もうちょっと、落ち着いてよく見た方がいいっすよ。メニューだけの話じゃないっすけどー」
呆れたようにウエハラはマドラーでミルクの泡をかき混ぜる。
羨ましさにじっと見ていると、
「いるっすかー? べつに替えてあげてもいいっすよ?」
と尋ねられ、
「――買ってくるし!」
頷きそうになったミサは慌てて立ち上がり、しまった、と顔をしかめた。叫んだせいで、思い出しかけていたものがまた消えてしまったのだ。
**
結局ミサはウエハラとただ普通に朝食をとり、家に帰った。
一緒に飲んで、ラブホテルに泊まり、一緒に朝食まで食べたとなると、万が一ウエハラが寝ているミサに手を出していたとしても告訴は取り合ってもらえないだろう。
(まさかそういう作戦か?)
一瞬そう考えたが、途中でなんだか馬鹿馬鹿しくなった。
なぜなら、ウエハラは最低だが、そういう卑怯な事はしないという妙な信頼があったのだ。
時計を見ると七時半。シャワーを浴びて着替えて化粧をするための時間は十分にありそうだった。
ひとまずシャワーにしようと風呂場に行き、服を脱いだとたん、ミサはホテルを出る時に気になった忘れ物がなんだったか――それから、それが忘れ物ではなく、盗まれた事に気が付いた。どう考えても落としたりしない物だったからだ。
「ウエハラのヤツ……!! どれだけ人を馬鹿にしたら気が済むんだよ……!」
怒り心頭のミサはメールを打つ手間も惜しんだ。
というより、今、例の顔文字が返って来たら頭の血管が切れそうだ。
アドレス帳を開くと電話をかける。
「あんた、あれどうしたの!?」
相手が出ると同時にミサは噛み付く。
『なんすか、薮から棒に』
「ブラのパッド盗んだでしょーー!? 信じらんない、何やってんの!? すぐ返せ!」
『いやっすよー』
暢気に返されて、ミサは彼の言葉尻に顔文字(例えるなら『ヽ(´Д`)ノ』)が付いているように錯覚し、頭に血が上った。
「うっわあ、変態、キモチワルイ、最低、今度こそ訴えてやるから――」
暴言が止まらないミサを、ウエハラは大きなため息で遮った。
『――あんなので世間を騙してるから、あんたの周りには最悪な男しか集まらないんだよ。あんたがあんたらしくしてれば、一番相応しい男が現れるに決まってんのに、なんでわざわざ遠回りしてるわけ?』
「……よ、余計なお世話、」
突如真剣な口調で言われて、ミサは心臓が止まるかと思った。
『余計なお世話は十分承知。ってか、俺なんでこんなに世話焼いてんのか自分でもわかんねーし』
「……とにかく、返して。それ、あんたが思ってるより高いんだよ」
動揺しながらもミサはなんとか言った。だがウエハラはミサの願いには応えないばかりか、諭すように言った。
『試しに今日一日そのままで似合う服を選んでみればいい。周りを変えたかったら、自分が変わるのが一番近道なんだ』
熱い湯を浴びせられたかと思った。
「意味わかんない! いいよ、今日あとで取りに行くし!」
ミサは叫ぶと、そのまま電話を切る。
そしてシャワーを浴びて頭を冷やして、ウエハラの言葉を耳から追い出そうとした。
だが張り付いた言葉はなかなか剥がれない。
頭を渇かし、バスタオルを巻いただけの姿でクローゼットへ向かう。引き出しを開けて新しい下着を出す。
身に付けて胸の形を整えたが、
『それ、偽物だろー?』
というウエハラの過去の言葉までもが蘇り、凄まじい羞恥心で落ち着かなくなった。
彼は先ほどの言葉一つで、ミサが長年つけて来た鎧をいとも簡単に壊してしまった。
(あー、あの男、めちゃくちゃたち悪い……!)
少なくとも、もうミサは胸を張って彼の前を歩けない。鎧の役目を果たせなくなってしまった下着は、ただ重いだけ。
ため息を吐くとミサは補正下着を仕舞い、出かける予定の無い休日などにつける、補正の無い下着を選ぶ。
楽だが、補正しているのが常だったので確実に違和感がある。
なんとなく寂しい胸元を隠すべく、クローゼットからは、いつも愛用している開襟ではなく、丸襟の白ブラウスを出す。淡いベージュのニットカーディガンを羽織り、茶色のフレアスカートを合わせる。髪は巻くかわりに丁寧に梳かして、項でおとなしめに纏めた。
メイクは丁寧にファンデーションを塗ると、付けまつ毛をやめてマスカラのみにして、アイシャドウは茶系の落ち着いた物を。チークもこめかみに向かってさっと叩くだけ。唇にはカーディガンに合わせた落ち着いたベージュピンクを乗せた。グロスはこの際使わない。
出来上がったのは就職活動のときのような、地味なメイクだが、選んだ服にはとても合っていた。
(あれ)
姿見で確認して、妙に若く見えると自分で思う。若作り、と言うわけではなく、なんだか年相応で無理が無かった。
(っていうか……実は似合ってない、これ?)
試しにやってみよう、似合わなければやめればいいし。そんな気持ちでやっていたのに意外だった。
(っていうか、ウエハラ、あいつ……知ってて言ったわけ?)
どうもウエハラに会ってから、思いも寄らない事が多過ぎる。
(……まさかね)
そう首を横に振りつつも、家を出るミサの足取りは軽かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます