2 罪状が変わりました
会社に遅刻の連絡を入れたあと、ミサは婦人科の待合室で待った。
診察待ちの女性は、大抵がお腹が大きくて幸せそうだ。一人青くなって震えるミサは明らかに場違いで、気を使った受付の女性が別室を用意してくれた。
「飲ませられたわけじゃないんですけど、そういう場合でも告訴できますか?」
ミサが不安を訴えると、
「相手が心神喪失状態に乗じたわけだから、訴えられるわよ。それより妊娠が心配だから、アフターピルを処方して貰った方がいいかも。言いにくいかもしれないけれど、先生にちゃんと相談してね」
看護師さんは親身になってくれた。
たくさん励まされて診察室に向かったミサだったが、拷問に近い診察を受けたあとに、半笑いの医師が言ったのは、ミサが想像もしなかった事だった。
*
さくらの蕾が膨んでいる。日暮れはだんだんと遅くなるが、風はまだ随分と冷たい。
会社を定時で上がって、大急ぎでやって来たミサは、イデアール赤坂II号館と書かれた建物の前に居た。
ここはウエハラの職場でSHIMADAというデザイン事務所だ。昔手に入れた名刺を手に待ち伏せをしていたのだ。
あの日貰った名刺はいっそ破り捨てたかったけれど、ミサは作った人脈というのは宝だと思っている。どこで何が役に立つかはわからないと思って、捨てずに取っておいたのだった。
SHIMADAでは、古いマンションの一室をオフィスに改装しているらしい。通りに面した二階がそうで、まだ電気が点いていて人の気配があった。階段を登りかけたが、残業しているのは、ミサの苦手な人物かもしれないと思いとどまる。
(あの女には会いたくないんだったー……!)
あの女というのは、片桐さくら――いや、今はもう島田さくらと名を変えた女だ。ミサの母校の女子大にいた、冴えない同窓生。
そんな彼女がどうして気に食わないかというと、まるで興味のなさそうな顔をしていたくせに、ミサが狙っていた島田をあっさり攫って行き、昨年見事玉の輿に乗ったからだった。
ドラマや小説でも大抵そうだけれども、なぜだかイケメン御曹司は、ああいった天然が入った平凡な女が好みなのだ。理由も驚くほど同じ。『君だけが本当の僕を見てくれる』とかいうやつ。ぼーっとしていて情報に疎いだけなのに、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
(ああいうタイプが一番、神経逆なでするんだよ)
腐りかけていると入り口から巨体が現れた。天敵ではなくてほっとしつつも、ミサは肩を怒らせ挨拶もせずに詰め寄った。
「ウエハラ、あんた、一体どう言うつもりであんな嘘ついたわけ。おかげで病院で大恥かいちゃったじゃないの!」
「え、病院行ったんっすか、まじで!? え、そういう場合って、どんな検査するわけ? せんせー何て言った!?」
人の気も知らないで、彼は腹を抱えてゲラゲラ笑いだした。表の通行人がちらちらとミサたちに目をやる。カッと頭に血が上ったミサは、
「ここじゃ何だから、場所移すわよ」
ウエハラの上着の裾を引っ張る。ただでさえ、ここには会いたくない女がいる。見られたらどんな皮肉を言われるかわからない。いや、まだ皮肉の方がいい。ああいう天然女は、なぜか人が一番嫌がる事を無意識に察して、勘だけで突きつけるのだ。
「場所移すって、ラブホっすか」
「警察に突き出されたくなかったら、これ以上ふざけんじゃないわよ」
「今度の罪状はなんすかねえ」
マジうける、と笑いながらウエハラは尋ねた。強姦罪はどう頑張っても適用されないことは、病院で嫌というほど知らされた。ミサは少し考える。
「強制わいせつ罪だよ。でっち上げてでも訴えてやるから。訴えられただけで結構なダメージでしょう」
痴漢の冤罪で会社をクビになった人間などざらだ。さすがに降参するだろうとにやりと笑うが、ウエハラは予想に反して全く動じない。
「虚偽告訴罪って知ってます? 嘘吐いたらとそれも犯罪になるんすよ」
とスマホをちらちらと振ってにやりと笑った。妙に詳しくて、ミサは怯んだ。
「偽証って、酔わせて裸にしたんなら、もうそれ犯罪でしょ!?」
「って、そっちが『風呂はいるー』とか言って勝手に脱いだんだって。あーあ、じゃあ告訴するつもりなら、俺、恥ずかしい写真ばらまきますよー?」
卑劣な言葉に、逆にミサの方が青くなった。
「なんですって……! どこまで根性腐ってるの。え、ちょっと何を撮ったわけ!?」
「や、だってさ、あんたの根性の腐り方考えてると、どう考えても俺ヤバいし。俺だってこの若さで人生捨てたくないから保険くらいかけるし。合意の上ってわかるように、写真とか動画とかいっぱい取らせてもらったっす」
ウエハラはスマホをいじってミサの写真を開いた。そこには唇を鶏の油でてかてかにしたミサが、ご機嫌な笑顔でピースサインを出している。当然全く覚えがない。
(どういうこと……!)
混乱。動揺のあと、ウエハラの言った『いっぱい』と『動画』に肝が冷えた。怒りと恐怖でミサは震える。
「……ま、まさか、あんた、それをネタに
「どうしよっかなあ」
飄々と言われてミサは思わずスマホの握られた手に飛びついた。だが、手が触れる寸でで上に逃げられる。相手は熊の体格。対してミサは151センチと小柄な方だ。飛び上がってもまるで届かない。
「ちょっと、あんた身長何センチあるの!?」
「あ? 185くらいっすけど」
30センチ以上の差に目を見開くミサの頭上で、何か操作していたウエハラは、「送信かんりょー」と驚愕させるようなことを言った。
「何を!? どこに!?」
「大切な証拠だし、奪われて消されたら困るから、メールサーバーにバックアップっすよ。あとストレージサービスにも」
「ストレージって……なに」
実はミサはパソコン周りの知識に少々疎い。ワードやエクセルなどの事務ソフトくらいは勉強はしているが、本来文系なのも手伝って、苦手意識が強いのだ。
ウエハラは鼻で笑うが、意外にも説明をくれる。
「ネット上のファイル管理サービス。どこからでも、PCスマホ機種関係なくファイル取り出せて便利っすよ」
いや、この際便利かどうかはどうでも良かった。
「そ、それって誰かに見られたりしないの!?」
「そりゃ、ネットに繋がってるし全世界に公開する事も出来るけど、今は鍵かけてるし」
今はという事は外せるという事だ。ミサの全身の血が引いて行く。
「脅してるの!? もしそんなことしたら、今度は脅迫罪で訴えるから……!」
「準強姦罪の次は、強制わいせつ、で、今度は脅迫っすか。そりゃ、相当法律の勉強しなきゃいけないっすねえ」
かかかと笑われて、ミサはとうとう爆発した。
「こっちは真剣なんだよ! つきあってらんない。馬鹿馬鹿しい」
泣きたくなりながら踵を返したミサに、ウエハラは朗らかに言った。
「大丈夫っすよ。あんたが変な事しない限り、こっちも大人しくしときますし、個人的に楽しむに止めときます。あ、でも、俺の言う事聞いてくれたら、写真返してあげてもいいっすよ?」
個人的にのくだりでぞっとする。ミサの写真でなにをするというのだ。寒気がして、思わず腕をさする。
「言う事って……なに?」
胡乱な目を向けると、ウエハラは何か企むように不敵に笑った。
ミサは思わず構える。
「今度はそっちが手羽先と酒おごってくれる? 散々愚痴聞かされたあげく、昨日の会計、飲食代ホテル代全部俺持ちっすよ。財布空になって、給料日までピンチ」
健全な申し出に拍子抜けするが、一拍後ピンと来た。
「って、なに!? その後またどこか連れ込もうって魂胆!?」
「お望みなら相手するけど。今度は最後まで」
強調されて、病院での不愉快な出来事を思い出したミサはムッとした。
そうなのだ。ウエハラが余裕なのは、そのせい。
彼は、ミサに手を出していなかった。
ミサを診察した医師は『痕跡は全く残っていない』と笑ったのだ。どうしてそう言いきれると食い下がったら、逆にそりゃすぐにわかりますと根拠を示された。
だが、裸で一緒に寝ていたのは事実。だというのに、一体どういうことなのだろうか。
(もしも、私には魅力がないとか言いだしたら……いっそ殺す)
二年前の、胸がないという失礼な発言を思い出すと殺意が湧いてくる。射殺せそうな目で見ても、ウエハラはどこ吹く風だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます