16 一芝居うちました
それでもミサは自ら立てたスケジュールに押されるようにして、翌週半ば、都心へ向かって飛び立った。
有給を取って、本社に突撃である。
「居づらいんです」
というと、事なかれ主義の上司、川瀬は勝手に退職前の有給消化かと勘違いしてあっさり頷いたし、面会相手のアポイントも既に取ってある。アポなし訪問も覚悟していたが、本山の女性関係についてと含ませると、相手は態度を変えた。忙しいだろうに、時間を裂いてミサに会ってくれることになったのだ。
(それにしても……)
古い喫茶店の窓から、ビルで出来た林が見えた。中でも特に目立つ自社ビルを見上げる。ミサの勤める支店も大きいが、さすがは本社ビル。風格が違った。背負う歴史の醸し出す迫力に負けそうになりながらもミサは黙って待った。
上品なクラシックが流れる中、ちっちっち……と時計の秒針が微かな音を立てて進む。
スマホでメールをチェックする。約束の時間まであと5分と言ったところで、喫茶店の入り口のドアが大きく開く。現れたのは会社のパンフレットを持つ初老の男。
ミサは立ち上がり頭を下げた。
「初めまして、本山部長」
彼は、本山の義父。本山は本社勤務時代に彼の娘に見初められて婿養子に入っている。――つまり、立場がとても弱いと思われた。
「忙しいのでね。手短に頼む」
本山の父は、辺りを見回し、社内の人間が居ないかを確認している。そして、顔見知りの不在にほっとしたようにソファに腰掛けた。
「はい。では早速」
ミサは、例のペットボトルを取り出し、まずは自分が受けた不倫の誘いに始まるストーカー被害を話した。そして、他の営業所にも数名の不倫相手が居る事を告げる。
難しい顔をしていた本山部長だったが、ミサの話を聞き終えたあと、ひと言言った。
「話にならんな。証拠が無いだろう」
「え?」
ミサは目を見開き、耳を疑った。
「証拠も無いのに弾劾すれば、私が娘に家庭に波風を立てたと恨まれるだけで終わる。困るんだよ」
「ご自分のお嬢さんが裏切られているって言うのに、そんな人ごとみたいな」
つぶやくと、本山部長は喉の奥で笑う。
「君みたいな女性に、ふらっとする気持ちがわからなくもないからね」
言われてミサは呆然とするが、やがてじわじわと理解する。
(ああ、そうか)
この男も、本山と同じタイプの男なのか。
これは予想外。予定外だった。まさか父親が娘より婿を選ぶとは思いもしなかったのだ。
「それに、私自身、罪も無いのに嵌められそうになったことがあるからね。今は嫌だねえ、痴漢の冤罪も多いし。男っていうのは本当に損だ」
彼はさらに言うとテーブルの上の証拠物件、ペットボトルをちらりと見る。ねつ造品とでも言いたいのだろうか。ミサは足元の地面が突如消え、深い穴の中に落ちていくような感覚に陥った。
(証拠……)
せめて酒中の薬の成分を調べてもらっていれば。ミサは詰めの甘さを思い知らされる。
(ウエハラの言う事、聞いてれば良かったって事? 告訴してれば、多分警察の人が調べてくれたんじゃ……ほら、刑事ドラマとかで鑑識とかでてくるし)
目の前が暗くなった時だった。
「――じゃあ確たる証拠があればいいんすよね?」
聞き覚えのある声に、顔を上げてミサは目を見開いた。ここにいるはずの無い人間が居たのだ。
「な……なんであんたがここに」
「
さらっと言うと、ウエハラは自分のスマホを取り出してメモを開く。そこにはミサがしゃべった計画。日時と場所までしっかりメモされている。
だけど飛行機の時間まではわからないと思っていた。だから情報を明かしたのだ。
「日帰りでLCC(格安航空会社)使うんなら、便、限られるから」
「で、でも日帰りだとも、格安航空券使うとも限らないよね」
「予算オーバーって言ったし。なら宿泊無しで、少しでも安いところ使うに決まってるっすよ」
まるでドラマなど出ててくる名探偵のようだ。少し感心したミサに、ウエハラがドヤ顔で笑ったときだった。
「君はなんだ?」
怪訝そうに本山部長が問う。ウエハラはさっと名刺を取り出してテーブルに置いた。そして堂々と名乗った。
「はじめまして。上原良平と言います。青山さんは僕の恋人です。ずっと本山さんにつきまとわれていて迷惑していたのを知っていたので、証言しようと待機していたんです」
(な……何て言った今)
コーヒーを噴くのを堪えた自分を褒め称えたい。ミサは咽せそうになりながらウエハラを見上げるが、彼は微かに口の端を持ち上げるだけ。涼しい顔を崩さない。
「そうなのか?」
本山が煩わしそうにミサを見る。ミサはウエハラが口裏を合わせろとでも言うように小さく頷くのを見たあと、「はい」と肯定する。
ウエハラがミサが受けた被害を、彼の視点から同じように説明すると、部長は信憑性があると感じたらしく、先ほどより深刻な顔をした。
「だがね。私としても、家庭に無駄に波風を立てるのはね……」
それでも渋る部長を見て、ウエハラはスマホを立ち上げる。
そしてボイスメモのアプリを立ち上げた。彼が再生ボタンを押したとたん、本山父とミサは同時に固まった。
『じゃあ、あんたはどうしてつきまとってるんすか』
というウエハラの声に続いて聞こえて来たのは、
『そりゃ、貢いだ分くらい元取らないと勿体ないからに決まってるだろ。この間の酒代、いくらだと思ってんだ』
という本山の声だったからだ。
ボイスメモはそれだけではなく、最初の準強姦未遂の時の、
『あんまりにも酔わないんで、魔が差しただけなんだ。だって、ワインとカクテルで十杯とか、有り得ないし、まだ飲みそうだったし』
『歓迎会の時とか、すぐ酔ってたから、ちょろいと思ってたんだけどな』
『騙されたなあ。男が好きで、すぐやらせてくれそうだったのに、びっくりするくらいお堅いし』
と最低な台詞のオンパレードも含まれていた。
「こ、これだけあったら、告訴出来るんじゃ……」
ミサが半ば呆然と呟くと、
「あんま詳しくないっすけど、薬入りの酒と合わせ技で可能かもしれないっすね」
ウエハラは飄々と頷く。
そして、ミサの驚愕よりも本山部長の方が酷いのは当然で。
「な、何が望みかね。か、金かね」
と刑事ドラマで、脅迫される被害者みたいな事を言い出した。
ミサは笑いそうになるのを堪えると、
「いえ、本山さんがしっかりと更生して下さって、部長のお嬢様を含め、世の中の女性が心安らかに過ごせるようになれば、それで満足です」
とにこやかに答えた。
憤怒で赤くなった部長は、お手拭きで額の汗をひとしきり拭いたあと、「その件は一度家に持ち帰らせて頂く」と連絡先の書いた名刺を置いて喫茶店を出て行った。
ミサはしばらくぼんやりと本山父の去った扉をじっと見つめていた。
緊張が解けて放心状態だったのだ。
ピピっと、誰かの時計が小さく電子音を立ててはっとする。ふと顔を上げると、ウエハラが黙ってミサの前の席に腰掛けていた。
彼はミサと目が合うと、大きくため息を吐いた。
「――ほんとにアレでいいんすか?」
「どういう意味」
「さっき言ってたみたいに、弁護士使って、きちんとやれば、罪に問える可能性あるかもしれない」
ウエハラは真面目な顔でミサを見つめた。
「そうだね。今思えば、そうしてればよかったかもね。でもやっぱ面倒だし、弁護士ってなるとお金もかかりそうだし。大体、告訴出来ないって思ってたんだよ。あんな切り札持ってるとか知らなかった。……ってさっさと出してくれたらよかったんだよ」
「だってあんた、自信満々で人の事頼る気なかったろ。ひと言、『手伝って』って言えばよかったんすよ。そしたら、いくらでも協力した。そのために録音してたんすから」
「あんたに借りを作るのが嫌だったんだよ」
「ほんっと可愛くないっすね」
ウエハラは呆れ顔だ。ミサも自分で自分に呆れる。ここまでしてもらってまだ意地を張っているなんてとんだバカだ。腹に力を入れると、ミサは深呼吸をした。そして、
「でも、ありがと。助かった」
小さな声でそう言うと、ウエハラが目を丸くして、窓から外を見上げ「あ、雨降って来た」と失礼なことを言った。ムッとしながらミサは外を見る。てっきり皮肉だと思ったが、ウエハラの言葉は本当だった。
雨雲が西からどんどん流れて来ている。先ほどより随分暗くなっていると思ったら、すでに時計は四時を指していた。
「……あー、もう帰らなきゃ」
暗くなると家に帰りたくなるのは習性か。ミサがぽつりと言うと、ウエハラが尋ねる。
「帰りの飛行機は?」
「まだチケット取ってない。時間どれだけかかるかわかんなかったし」
「LCC使うっすよね? なら、今からだと17時30分のやつ取れるっすよ。品川まで出ればすぐだし、急げば間に合う」
ウエハラはスマホを操作しながらミサを促す。
「空席ありそう?」
「平日だし、20時の最終便まで余裕っすよ」
ウエハラは頷く。ミサは少し考えて答えた。
「じゃあせっかくだから、ちょっと観光して最終で帰る」
「そーっすか」
ウエハラは素っ気なく頷くとあっという間に予約を完了させる。どうやらミサの誘いを無視して、さっさと自分だけで帰るようだった。
デートに誘ったつもりだったけれど、そんなに分かり難かっただろうか?
(気があれば普通食いつくところだよね? ああ、もう、わけわかんない……)
ミサは腐る。
しびれるほどにかっこ良くミサを救いに来てくれたかと思うと、見返りも求めずに去ってしまう。
思い返すとずっとそうだ。一体何のためにミサを助けてくれるのかわからない。ミサのことを気にかけてくれているのは、ただウエハラが誰にでも親切なのか。それとも――
悶々と悩むミサの前で、ウエハラは空っぽのコーヒーカップを見やると「とにかくここにはもう用がない」と立ち上がった。会計を済ませ店の外に出る。
ミサも続けて外に出て、ふと空を眺めた。
灰色の空から、雨が音もなく降っていた。磨かれた大理石で出来た床に、しずくが落ちている。
傘がいるな、そんなことを考えて憂鬱な気分になる。なにより、ここでウエハラとはお別れだと思うと、気が滅入った。
だが、ウエハラはミサを見下ろして尋ねた。
「観光ってどこ行くっすか? スカイツリー? それとも秋葉――ってあんたの柄じゃねえか。じゃあ、原宿? 代官山? そっち系、俺、全然わかんねえ」
ミサはきょとんとする。
「え? あんたは帰らないの」
「俺も最終で帰るし」
彼は予約完了画面を見せる。てっきり一番早い便の予約かと思ったら、最終便だった。大人二名分――ミサの分の飛行機のチケットも一緒に予約されていた。
「な、なんで一緒に帰ることになってるわけ」
憂鬱から一転してミサがたじろぐ一方、ウエハラは涼しい顔だった。
「なに言ってんすか? 恋人なら一緒に帰るに決まってるじゃないっすか?」
「こ、恋人!? って、あれ、お芝居でしょうが」
目を剥くミサに、ウエハラは不敵に笑う。
「芝居にしたいんすか?」
妙に自信たっぷりの態度に、
「あんた……ど、どんだけ自分に自信があるわけ」
強引なのが許されるのはイケメンだけだ! と呆れつつも、抗えない。彼に振り回されるのはムカつくけれど、ここで意地を張って「芝居だ」と言ってしまうのも勿体ない気がした。
(だけどね、私にもプライドってものがあるんだよ!)
これほど邪魔だと思った事も無いが、長年連れ添った自尊心、そう簡単に捨てられる物でもないようだった。
揺れるミサは結局質問を返す。
「あ、あんたはどうなの。お芝居で終わるつもりなの」
ここまで心に踏み込まれて、ひっくり返されたらもう立ち直れない。ミサは最後の抵抗をした。するとウエハラはやれやれと肩をすくめた。
「俺? わざわざ追いかけてきて、助けてやって――ここまでしてもわかんないんすか?」
相手が普通の男ならば脈有りと見て、とっくに自分から告っているとミサは思った。だが、
「あんたの場合、日頃の行いが悪すぎて、なに考えてるかさっぱりわかんないっ。とんでもない罠を仕掛けられてる気がしてしょうがないんだよ!」
だから、はっきりきっぱりと言え、と目で訴える。するとウエハラはにやっと笑って身をかがめた。
(ま、まさか、こんなとこでなにする気――)
近づく顔に身を固めたミサだったが、彼の唇はミサの頬を掠めただけ。耳の傍で止まって小さく動く。熱い息が耳に触れるのと同時に、
「言ったら、あんたの最初の男になれる?」
耳元でとんでもない事を囁かれてミサは硬直した。
「な、ななななな、なに言ってるわけ!?」
ミサが反射的に鞄を振り上げると、ウエハラは「こえー」と巨体に似合わない素早さで逃れた。
「傘買ってくるっす」
彼はあっという間にいつもの調子に戻り、喫茶店の隣にあったコンビニに逃げ込む。またもや、結論がうやむやになってしまって、ミサは地団駄を踏みたくなった。
どっちが先に言うかの我慢比べみたいで、もどかしい。言ったら負けな気がするけれど、言わなければおそらくいつまでも平行線をたどる。白黒はっきりさせたいけれど怖い。苦しい。
ミサはウエハラを追ってコンビニに入る。真っ赤な顔で大きな背中を睨む。
(ってか、なんで知ってるんだよ……!)
いつか落とさなければならない男が現れたときのため――結婚してもいいと感じた相手が現れたときのためにミサが大事に取っておいた切り札。
ミサははっとする。
今までずっと相応しい男が現れないと愚痴っていたが……もしかしたら、ウエハラがその相手なのだろうか。
切り札を使うときが訪れたのだろうか。
今までのもろもろを思い出しつつ、今後のことを想像していると、異常に胸がドキドキしてきた。
ミサはウエハラの息が触れた耳を思わず手で擦る。感触が残ってムズムズしたのだ。だが、それは本山などに感じたおぞましさではない。むしろ――
(ときめいたとか、嘘だよね!?)
しかし体は熱を失わず、それどころかどんどん体温が上がっていく。体はミサの頭よりも随分正直者のようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます