8 喧嘩を売られました
ひそひそとした声が、ミサの周りを取り巻いている。
(高階と別れたのって最近だったよなあ)
(乗り換え早いわよね)
(しかも既婚者とか)
(節操無いとは思ってたけど、まさかねえ)
嫌な名前が聞こえた気がして、ミサは顔を上げた。エクセルファイルの開かれたディスプレイの向こう側、壁際に人が集まって、ちらちらとこちらに視線を投げている。
「どうかしました?」
「いや、なんでも」
問いかけても、誰もが作り笑顔でするりと逃げてしまう。
(これ……、なんか覚えあるんだけど)
中学だったか高校だったか。友達だと思っていた人間が、急によそよそしくなった瞬間があった。
確か、クラスメイトが付き合っていた男子に、ミサが告白された時だ。
好きじゃなかったから断ったし、悪いのはどう考えても浮気心を動かしたその男だというのに、ミサはその後しばらくクラスの女子全員に無視された。しかも悪意という魔物に取り付かれた女子たちが、ある事無い事吹聴して、いつの間にか悪女に仕立て上げられていた。
まさにあのとき、ミサは女子との友情を見限ったと言っていいのだが……今、当時と同じ臭いが、周囲に漂っている気がして仕方がない。
(……まさかね)
だが、結論を言うと、ミサの嫌な予感は当たっていた。
夕方になり、急にミサは上司――課長の川瀬に呼び出された。
彼はミサの直属の上司だ。堅実で温厚な性格をしていて、面倒見もいい。少し歳が離れ過ぎていて、妻子持ちなのが惜しいと常々思っている。
もしかしたら、本山の事でなにかを小耳に挟んで、心配してくれているのかもしれない。味方が出来たと思ったとたん、安堵が沸き上がる。
フロアの端にあるパーティションで区切られたブース。ちょっとした打ち合わせに使うような場所だった。
「会議室取れなくて、こんなところで悪いんだけどねえ」
と、簡易椅子に座るなり、川瀬は声を潜めた。
「青山君。早速だけどね、不倫は困るんだよねぇ」
「……! していませんし!」
予想とは真逆の展開にミサは仰天した。
(え、っていうか、それ、こんなとこ、誰が聞いてるかもわかんないようなとこでする話か!?)
だが、ミサの抗議も気にせず、川瀬は口早に続けた。さっさと話を切り上げたそうだ。
「それは知ってる。だけど、つきまとわれて困っているって、そういう報告が上がって来てるんだよ」
川瀬は心底迷惑そうに眉を下げる。普段が優しい表情だからこそ、この変化はずしんと重かった。
「つきまとわれてるのは私の方です。報告上げたの、本山さんですよね」
「いや、誰とは言えないんだけどね」
(めっちゃ図々しい奴……!)
ミサは腹を立てる。本山は、未遂なのをいい事に、事実をねじ曲げ、先周りして上司に縋ったのだ。
しかも、先ほどの同僚の様子から察するに、周囲から根回しをしている。ミサを孤立させ、追い出すつもりなのだろう。
たった一晩で、この状況を作り出すのは感心だけれど、その情熱とスキルは仕事にだけ生かすべきだと思う。
(うわあ、女の腐ったようなヤツ……!)
ギリと歯ぎしりすると、川瀬は穏やかな笑みを浮かべてミサを見た。
「積極的なのは青山君のいいところだと思うけれど、他に独身の男はたくさんいるだろう、ほら高階君とか」
「彼には結婚予定の彼女が居るはずですけど」
「あ、そう。じゃあ、正木君とかは?」
「…………」
あんな仕事のできないのは問題外です。喉元まででかかるが、辛うじて堪える。
ミサが黙り込むと、川瀬は別の方向に話の舵を切る。
「君みたいな家庭的な女性はモテるだろうから、選び放題だろう?」
突如出て来た家庭的という言葉にミサの右眉が跳ねる。話の持って行き方が不自然だ。なにか含みを感じてミサは問う。
「それ、どういう意味ですか?」
まさかこれは、と胸騒ぎがする。
川瀬はこほん、ともったいぶった咳払いをした。
「なんだかいろいろ噂になってるようだしね、青山君も居辛いんじゃ無いかと思って。この仕事が好きというんなら、異動という手もあるよ?」
「はぁ?」
耳を疑った。思わず地が出て柄が悪くなると、川瀬が目をしばたたかせる。
「青山君?」
我に返って角をひとまず引っ込めると、川瀬は安心したように言った。
「南の方とかどうかね。暖かいし、温泉もあるし。あ、確か青山君の実家もあっちの方じゃなかったかね」
そのまま彼は会社のパンフレットを開き、九州の南端K県にある支店を指差した。ミサの会社は規模が大きいだけあって、各都道府県に支店があるのだ。
「いえ、私、S県出身なんで」
(独身の女に一人で地方に行けと!?)
都会に憧れて大学を選んで出て来たのに、そして、この街を気に入っているのに、どうして今更縁もゆかりもない地方に行かなければならないのだ――!
「ああそうだったか。じゃあS県の支店は? ご両親も喜ばれるだろうし」
とってつけたように言われて、ミサの堪忍袋の緒は切れた。
「悪い冗談はやめて頂けますか? 私、一方的な被害者なんですけど」
だが川瀬は取り合わない。ミサの言い分は全く汲んでもらえない。
「でもね、喧嘩両成敗って言うだろう? こういう場合って、どっちにもそれなりの処罰をするもんなんだよ」
「両成敗? じゃあ、本山さんはどうなるんですか。異動ですか? どこに?」
問いつめると、川瀬はまあまあと誤摩化し、逃げるようにブースを出る。
ミサにはピンと来た。彼は楽な方に逃げている。本山は総合職で、ミサは事務職。課長として、本山を優遇し、代わりはいくらでもいるミサを切りにかかっている。もしかしたら既に上に話が行っている可能性だってある。
(これ、もしセクハラで相談していても、無かった事にされたかもしれない)
川瀬の物わかりの良さそうな顔に騙された。
(あー、なんていうか、男全体に幻滅……)
廊下に出るとざっと人が動くのがわかった。物陰に数人の気配。どうやら盗み聞きでもしていたのだろう。
(また変な噂が広まるってわけ?)
腹立ちを隠す事が出来そうもなく、爆発する前にとミサは給湯室へと逃れた。そして、スマホを取り出すと、ウエハラにメールを打つ。
上司があてにならないのなら、自分で成敗するしかない。喧嘩を売られて黙っているようなタマではないのだ。
『例の薬入りの酒のペットボトル、あんたが持ってるでしょ。捨ててないよね? 使うことになりそうだから、返してくれる? それから、この間の件、証言して欲しいんだけど』
後半は図々しい願いだとは承知している。断られても、それどころか無視されてもおかしくないと思っていたが、意外にもすぐに返事が来た。
しかしその内容にミサは眉を寄せた。
『証言はしてもいいっすけど、起訴は無理っぽいっすよ。未遂だったから、罪には問えないらしいっす。不可罰っていうらしいっすよ』
『なにそれ』
『悪いこと考えてるだけじゃ、捕まえられないってことっすよ』
『なんで詳しいわけ』
『詳しいのは元上司っすよ。あの人、見かけによらず優秀なんすよ』
ミサは顔をしかめ、返事もせずにスマホをしまう。
のりが悪い。なんだか遠回しに拒絶されているように感じたのだ。それならば、もうウエハラには用は無い。
(別の方法、考えるしかなさそう……でもなぁ)
周囲の冷たい視線が、ミサの心に影を落とした。
一人には慣れている。むしろ馴れ合いが嫌いなミサは、一人の方が気楽だった。だけどそれは、自分の生活を脅かされない場合だけだ。一人で社内の人間を敵に戦うことになりそうな今後を考えると、ひたすらうんざりした。
ミサは紅茶を入れて、気分を変えようとする。茶葉がゆるゆると開くのを待つ間、手の中のスマホをいじってメールを確認するが、新着はない。
しばしぼんやりとディスプレイを見つめたあと、紅茶を口に運ぶと、それはいつの間にか熱を失っていた。
すっと心が冷えるのがわかった。
がっかりしている自分を知り、どうしてだろうと気になった。
何気なくスマホをもう一度取り出す。ウエハラからのメールを眺めると、鬱陶しいくらいに使われていた顔文字が一つもない。
「ああ、それで」
感じたよそよそしさの原因はきっとこれだ。物足りない。張り合いが無い……そんな言葉がぽん、ぽんと浮かんだ。
(嘘でしょ、それってつまり――)
要するに寂しく思っているらしい。それどころか、メールを待っているという事は、もしかしたら、頼りたかったのかも――
弱っている自分を妙なところで気づかされ、ミサは「らしくない。どうかしてる」と呟いた。
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