9 相手は猿でした

「まいづるー。まいづるー」


 地下鉄の車内に降車駅を告げるアナウンスが響き、ミサは座席から立ち上がった。

 ミサの住むマンションは、会社の最寄り駅から地下鉄で三駅目にある。

 繁華街からも二駅の、マンションが立ち並ぶ住宅街だった。飲み会で終電に間に合わなくとも、タクシーを使うのも躊躇わない距離。下手したら歩いても帰れる(運動不足解消のために歩くこともある)ので、非常に便利なのだ。

 だが、今日はそんな短い通勤時間でも堪えた。悪意に触れ続けるとものすごく疲れることを、思い出してぐったりしていたのだった。


「……なんか、めっちゃ疲れた」


 肩を落としたまま、ミサはとぼとぼと地下鉄から降りた。発車ベルが響き、ドアが閉まる音が背中を改札へと押し出す。

 床のタイルを見つめながら重い足を動かして改札を出る。人気ひとけの無い五番出口への細い通路を歩いていると、後ろから足音が近づいた。


(珍しいなあ)


 大抵の人は改札前のエスカレーターへと吸込まれていて、階段を使う人間は少ない。ミサがエスカレーターもエレベーターも使わないことにしているのは、足のラインを気にしているからだ。

 ぞわり、と嫌な予感が足元から這い上がる。なにか、危険なものが近づいている。ミサの本能がそう訴える。自然、早歩きになったが、足音は離されることなく着いてきた。

 怖くて振り返れなかった。

 ミサはポケットからスマホを取り出すと、目に飛び込んだ番号をとっさにタップする。

 だが、その時、足音がミサを追い抜いた。

 高そうで、だが磨かれていない残念な靴が目の前に現れる。足はミサの前に回り込み、立ちふさがった。ミサが恐れを呑み込んで顔を上げると、そこには彼女の天敵が居た。

 彼は、ミサの手のスマホを掴むと、ディスプレイをなぞって通話を勝手に終了する。


「――こんばんは。アオヤマミサちゃん」


 ギラギラとした目がミサを刺した。階段を降りてきた女性が、通り過ぎながら見とれるのを見て、そういえば背格好と顔立ちは良かったと今さらながら思い出すが、中身の醜悪さが滲み出て台無しだった。

 本山は女性の足音が過ぎ去ると同時に口を開く。声は壁に反響して、ミサをじわじわと縛り上げる。


「この間は、余計なお世話をありがとう。騙されたなあ。番号教えないで、警察行ってればよかった。どうせ訴えられないんだからさ」


 どうやら不可罰というやつを彼も調べたらしい。舌打ちしたい気分だが、攻撃の成果が気になったミサは問う。


「……あの後、奥さんとはどうなったんです?」

「うちの奥さんは僕にべた惚れでね。信じてくれたよ」

「そりゃあ、良かったですね」


 ミサは少なからずがっかりしながらも、彼にこれ以上用はないと一歩踏み出した。だが、本山の方はここまで来るだけあって、用は済んでいなかったらしい。再びミサを遮る。


「でも、妻が離婚とか言い出した時には随分肝が冷えた。重役の縁故がなしに出世するのって、正直言うとすごくだるいしね。それに、あれから束縛が窮屈でさあ。今後はかなり行動を制限されそうだ。だから迷惑料くらい貰ってもいいんじゃないかなって思ってさ」


 本山はものすごく身勝手なことを言いながらミサの手を握る。汗ばんだ温い手。鳥肌が一気に噴き出して、ミサはすぐに手を振り払った。


「ご自分が、この間何をしたか覚えてらっしゃらないんですかね?」


 だがすぐにまた手を攫われ、耳元で囁かれる。


「もちろん覚えてる。たくさんだろ? 取引しないか? でいいから、さ。そしたら、噂の撤回協力するし。課長も問題起こさなければ、目、瞑ってくれるはずだしさ」


 すべてを許すように甘く微笑まれる。大抵の女は、これで転ぶだろうというような完璧な笑み。自分が寛容だと、信じ込んでいる笑みだった。


(うわ、キモすぎ……!)


 おぞましくて寒気がして、ミサは無視して手を振り切り、横を通り過ぎる。

 本山は、手応えが無いのが予想外だったらしい。雰囲気を尖らせるとミサを追って来た。ミサは足を急がせる。とにかく、この寂しい場所から逃れたかった。


「何けちけちしてるわけ? 減るもんじゃないだろ」

「減ると思いますけど」


 何を馬鹿なことを言っているのだと心の中で反論する。


「減らないよ。むしろいい思いするだけだろ」


 こいつは猿だ。人の言葉が通じないとミサはうんざりした。


「本山さんて、奥さんが浮気しても大丈夫な人ですか?」

「は? あいつが浮気するわけないだろ」


 本山は意味がわからないと言った顔をする。妻が別格なのか、それともミサの扱いが軽すぎるのか。失礼過ぎると腹が立つ。

 本山はミサの怒りにも気づかずについてくる。通路が長過ぎるとミサは苛立った。


「高い食事と高級ホテルで気に入らないなら、何か買ってやるよ? ブランド物のバグとか? アクセサリーとか? それで、高階にもやらせたんだろ?」

「彼のことは本山さんには関係ありません」


(高階のヤツ、しゃべったの!? どいつもこいつも腐ってる)


 しかも中途半端に自分にだけ都合がいいようにしゃべっているから、余計にたちが悪い。

 舌打ちして顔を上げると出口が見える。階段を早足で駆け上がると息が上がっていた。

 だが、ミサはそこで気づいた。


(あ、家までついて来られたら困る……!)


 ミサは一人暮らしだ。押し入られたら危険だった。どこかに逃げようと思ったが、寂れた出口の周りにはマンションが立ち並ぶばかりで、コンビニが無い。逃げ場が思いつかず動揺する。


(怖い)


 怖がりたくなどなかったけれど、相手は酒に薬を入れるような卑劣な男だ。わかっているからこそ寒気がした。何をされるかわからない。

 前回は準強姦未遂。今度はもしかしたら――


(まじ、冗談じゃないし!)


 ぞっとしたミサは思わず大きな声を上げた。


「ついて来ないで下さい」


 本山が怯んだ隙に、ミサは自宅とは反対方向――繁華街の方へと歩きはじめた。少し行けばコンビニがあるのだ。

 灯りはもう見えている。だが随分遠く感じるのは、間に公園があるためだろう。

 通り抜けようかと悩むけれど、夜の公園は危険だと回り道をする。

 とにかく人ごみが恋しいとミサは急いだ。

 そうしながら、ポケットからスマホを出すと、着信履歴があった。震える手でロックを解除すると、迷わずリダイヤルする。


(出て! 出て、お願い!)


 震えながら祈ると、電話が繋がった。


『――どうかしたっすか?』


 ウエハラの声がスマホから漏れたとたん、ミサはあまりの安堵に目が潤んだ。


「あいつが、本山が、家の近所までつけて来て、今も追って来てて」


 ウエハラは落ち着いた声で尋ねる。


『今、どこっすか』

「舞鶴の五番出口から、西通りに向かってるところ」

『すぐ行く』


 と電話があっさり切れる。


「ま、待って切らないで!」


 喪失感に呆然とした直後、ミサは涙ににじんだ視界に入った人影に目を眇めた。


(ん?)


 影はどんどん大きくなり、ミサの近くに来たとたん、いつものクマのサイズになる。


「え、瞬間移動!?」


 ウエハラの息が上がっている。今まで汗の一つも見たことがなかったから、額にかいた汗になんだか釘付けになってしまう。


「瞬間移動って、……なんだ、余裕あるじゃないっすか」


 ほっとしたようにウエハラは笑った。


「ど、どうして、こんなに早く――」


 問いながら、ミサは手の震えが止まっている事に気が付く。


「どうしてって、さっき電話きてすぐ切れたから。うちの会社ここの近くで……ってそんな事今はどうでもいいっすね。ほら、そこの人、ちょっと待て!」


 隙を見て後ずさりしている本山をウエハラは取っ捕まえる。


「尾行して自宅まで押し掛けるとか、こういうのストーカー規制法で警告ものっすよ。事件が増えたせいで、この頃は警察も、ちゃんと相談のってくれるようになったみたいですし」


 ウエハラは頭一つほど小さな本山を見下ろした。


「警告聞かなかったら、たしか、懲役とか罰金っすけど、それでもいいんすか?」


 通る大きな声でウエハラが言うと、通行人が足を止め、野次馬と化した。この時間だけれど、塵も積もれば山となるらしく、結構な数だった。

 本山は、悔しそうにウエハラを見上げた。


「……お前、まさか、この女に気があるとか? やめとけ、こんなの、散々貢がされて捨てられるに決まってる」

「まだ人として言っちゃいけない事言ってるんすか?」

「こんな女、どこがいいんだよ」

「はぁ? めっちゃ可愛いっすよ?」


 思わずミサは目を丸くする。まさか本性を知られた今もそんな風に言われるとは思いもしない。

 対して、本山は「顔はね!」とゲラゲラと笑った。

 ウエハラは冷めた顔で逆に問うた。


「じゃあ、あんたはどうしてつきまとってるんすか」

「そりゃ、貢いだ分くらい元取らないと勿体ないからに決まってるだろ。この間の酒代、いくらだと思ってんだ」


 ウエハラの拳に血管が浮くのを見て、ミサは静かに止めた。


「やめといて」

「でも、いいんすか?」


 ミサは根性で笑うと、ウエハラの大きな手に自分の手を乗せた。


「殴った方の手も痛いんだよ。あんたが痛い思いするほどの価値、このクズには無い」


 ウエハラがミサの言う通りに手を離すと、本山は不快そうに襟を正す。

 逃げるように背を向ける彼に、ウエハラが釘を刺す。


「今度したら告訴っすよ」


 本山が足早に去るのを見て、ミサは耐えきれずその場にしゃがみ込む。

 怒りがいきなり体中を駆け巡って、血が沸騰しそうだった。


(……ムカツク……!)


 膝に顔を埋めると、じわりと滲んだ涙をこっそりと拭った。

 黙って隣に立っていたウエハラは、ぼそっと呟いた。


「一発殴っといた方が良かったんじゃないすか」

「ああいう卑怯者は、逆に告訴するよ。こっちが悪者にされたら腹立つ」

「意外に冷静っすね」

「まあ、今までで慣れてるし」


 経験上、ああいうヤツは会社でまた陰湿な嫌がらせをするに決まってる。昼間の事を思い出すと憂鬱な気分になった。


(あー、むしゃくしゃする! こういうときは自棄食いに限るんだけど!)


 と、そのときウエハラが隣で伸びをした。


「手羽先でも食いにいくっすか?」


 心の中の希望が彼の口から漏れ、


「……そうしよっか」


 ミサは思わず頷いていた。

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