12 天敵に出会いました

 その日、ミサは自分を取り巻く空気の違いを肌で感じた。

 服装を変えただけで大きな変化があるわけはないし、期待もしなかった。だが、やましい事は何も無いと開き直って背筋を伸ばし、悪評に耳を塞いで仕事に打ち込んでいたら、今までミサを避けていた人間が関わって来たのだ。

 たとえば、真面目だけが取り柄で仕事ができないと思っていた同僚の山中は、


「いや、どうも近寄りがたかったんだよねー」


 と、仕事を持って来て、別世界の人種だと思っていたと小さい声で付け加えた。

 また、隣のデスクで黙々と入力作業をしていた事務員の松本が、


「そういう恰好もするんだ。そっちの方が似合うと思う」


 と誉めてくれたり、ついでに飴を分けてくれたりした。

 小さな変化だったが、村八分を覚悟していた分、普通に扱ってもらえた事が酷くありがたかった。



 定時に社を出たミサは、足取りも軽くSHIMADAへと向かった。

 SHIMADAのある通りは、繁華街から少し離れたお洒落な通りで、お洒落なカフェやセレクトショップなどが立ち並ぶ。若者に人気の場所だった。

 漂ってくる美味しそうな匂いを嗅ぎながら、ミサは今夜の計画を立てた。


(もちろんあれを返してもらうけど、詫びさせないと)


 ミサは例のブツを受け取ったあと、ウエハラにおごらせようと思っていたのだ。

 酒が入るから妙なことになるが、酒を飲まなければ今度こそ大丈夫のはずだ。


(居酒屋ばっかりだけど、たまにはお洒落イタリアンでもいいかなー。酒を飲まないんなら、あ! カレーとかでもいいし)


 通りがかったインド料理店から独特の香辛料の香りが漂う。

 引き寄せられて、メニューを覗き込み、


(ナン食べ放題とかだったら、お酒なしでもお腹膨れるよね。ウエハラ結構食べるし、ここがいいかなー)


 そんな事を考えたミサは、窓ガラスに移った楽しげな自分の顔を見てぎょっとした。


(って、何うきうきしてるわけ!? 詫びさせるだけなのに……馬鹿!?)


 慌てて店の前を足早に通り過ぎ、SHIMADAへ急ぐ。

 そして会社の入っているビルに辿り着く。階段を上がろうとしたところで、階上からカツカツと足音が響いた。


(ウエハラか!?)


 思わず見上げたミサは、階段の踊り場に天敵の女が立ちすくんでいるのを見つけ、息を呑んだ。

 くせのついた明るい髪のショートボブは異国の子供みたいだ。切れ長の目に小さな口という昭和風の顔立ち。以前は地味だなと感じていたが、化粧を変えたのか、活動的な印象に変わっている。悔しいが、こういうふうにすると、ミサとは対極にいる美人な気がする。

 ざっくりしたチュニックと細身のジーンズという服装は、会社勤めには少々カジュアル過ぎる気がしたが、そういう社風なのだろう。


「青山さん? え、どうしてここに?」

「か、片桐さ――、いやあの、もう島田さんだっけ」


 天敵、島田さくら。元々大学の同窓ではあるが、学科がミサが英文、さくらが生物化学と違うため、二人は名前を呼び合うほどの仲ではない。ミサもさくらもある意味有名人であったからお互いを知っていたくらいだった。

(ちなみにミサはどんな合コンにも顔を出し、女子大生を謳歌したせい。さくらは真逆で、おしゃれにも興味を持たず学業ばかりに熱心な理系女子リケジョだったせいだ)


 さくらも驚いたらしいが、ミサは彼女よりも慌てていた。

 失念していた。そういえば、ここには彼女がいたのだ。


「島田さんなら本社に勤務先変わったから、ここにはいないよ」


 さくらは強ばった笑みを浮かべている。

 彼女が島田と結婚する前、ミサは島田にアプローチをしたことがある。そして、彼らが交際していると聞いて、羨ましさからさくらに嫌みを言った事もある。だからおそらくいろいろと警戒しているのだろう。

 だがミサは既婚者には興味は無い。島田は魅力的な男ではあったが、万が一にもミサに落ちたら幻滅するだろう。本山の件でこりごりだった。


「いや、あの、わたしが用があるのはウエハラさんで」


 と言った直後にミサはある事に気が付いて青くなる。


(まさかウエハラから変な風に聞いてないよね!?)


 ウエハラも高階のように会社でぺらぺらしゃべっているかもしれない。ハラハラしつつ見守っていると、さくらは不思議そうに首を傾げた。


「上原さん? あれ? そういえば知り合いだったっけ?」

「ええと、前に合コンで知り合って、だけど、今日は忘れ物を返してもらおうと――」


 ほっとしつつ、補足と言い訳を始めるミサだったが、


(何、余計な事言ってんだ! 合コンって何年前だよ! それから忘れ物がなにかとか聞かれたら、どうすんだよ!)


 と自らの失言に焦りに焦った。

 だがさくらは深く考えなかったのか、追及せず、踵を返した。


「じゃあ、呼んでこよっか?」

「いや、いいよ。電話で呼び出すし」

「え、なんで? 電話代もったいないし、ちょっと待ってて」

「電話代!? いいって別に!」


(御曹司捕まえて、玉の輿に乗っておいて、なんなんだ、そのみみっちさは)


 ミサがさくらの後ろ姿に突っ込んでいる間に、彼女はオフィスへ入って行く。そしてすぐにウエハラと共に扉から現れた。

 狭い階段の踊り場はウエハラを加えると余計に狭く見えた。圧迫感に怯むミサに、


「こんなとこまで来て、なんか用すかー?」


 ウエハラはニヤニヤと笑いかけた。彼は一段、一段をゆっくり通りてくると、ミサの前に立った。


「朝、電話したでしょ。か、返してもらいに来たの」


 気まずさを堪えながら必死で訴えるが、彼はひときわ楽しそうに笑っただけだった。


「なにをっすか?」

「………!」


 一発お見舞したいくらいだった。だが、ミサがまだ階上にいるさくらを気にして黙ると、彼女は鈍いなりに何か勘づいたらしい。


「あ、遅くなるからもう帰りますねー。夕食作らなきゃ。お先に失礼します」


 と空気を読んで階段を下りはじめた。

 ウエハラが一段階段を降りて道を開ける。

 だがミサが道を塞いでいたせいか、避けようとしたさくらがすれ違いざまによろめいた。


「わ!」

「あ、あぶねえ!」


 ウエハラが落ちかけたさくらの体を支えるが、代わりに背中と腰を壁に打ち付ける。

 間一髪と言ったところだった。

 結構大きな衝撃音が響いたけれど、ウエハラは呻くこともせずに、真っ青な顔で腕の中のさくらを見下ろしていた。


「う、、あー、危なかった! ありがとうございます……助かりましたー!」


 さくらが心底ほっとした顔でウエハラに礼を言う。

 だが、ウエハラは真剣な顔でさくらを怒鳴りつけた。


「マジやめろって。こういうの! めちゃくちゃ心臓に悪い……俺まだ死にたくないんだけど」

「す、すみませんでした!」


 ウエハラの剣幕に、さくらは目を見開いている。そして、


(死ぬ? 死ぬってなんだよ)


 ウエハラの尋常でない心配の仕方に、ミサも絶句していた。


(一段踏み外しそうになったくらいで、どういうこと。抱きとめるまでするってどういうこと)


 あたまの中がぐわんぐわんと揺れていた。

 そんなミサの前で、ウエハラの腕を意識したのか、さくらが気まずそうに彼から離れる。ウエハラもミサという観察者の存在を思い出したのか、僅かに焦った様子でさくらを離した。


「気を付けて帰れよ。まだ今の時期に仕事抜けられると困るし」

「はい、ありがとうございます」


 ミサは去って行くさくらの後ろ姿を半ば呆然と見送る。


(なんなんだ、今の)


 まるで、ドラマのワンシーンのように見えて仕方がない。これは、あれだ。恋に落ちる前の布石に使われるような、きっかけの場面。


 嫌な予感がジワジワと足元から上って来て、ミサを縛って行く。

 気が付けば、うきうきとしていた心はいつの間にか萎んでしまっていた。


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