18 三度目は正直でした

 階段から吹き降りる生ぬるい風が頬を撫でる。

 引っ張られて上を目指す。エスカレーターを登ると、そこはきらびやかなホテルのエントランスだった。

 前回、前々回と経験した場末のラブホテルから、何ランクアップであろうか。

 そもそもジャンルが違うので比べるのがまず間違っているのかもしれない。有名なレストランや結婚式場なども入っている高級ホテルだった。


(ここって、確か、一泊一人二万はするよね?)


 冷や汗をかくミサの前で、ウエハラは迷いなくフロントに向かうと、「部屋空いてますか」と尋ねた。


「何名様でしょうか」


 フロント係が笑顔で丁寧に問う。


「二名です。あ、できればダブルルームで」


 ウエハラは淡々と手続きをする。思わぬ展開にミサは言葉を失う。


(ああああ、どうしようどうしよう……っていきなりなわけ!?)


 確かに先に部屋に誘おうとしたのはミサだが、部屋に入れたからといってそういう展開を望んでいたわけではない。ただもう少し一緒にいて、気持ちを確かめ合ったりする時間が欲しかっただけなのだ。

 だが、ホテルにわざわざ泊まるとなると、逃げ場がない。行き着く先はひとつ。


(空室ありませんように!)


 だが半泣きのミサの祈りは届かない。なんでもないウィークデーのホテルは部屋を持て余していた。


(よ、んまん、四万円ってフツメンにはきついんじゃあ……)


 泡を食うミサの前で、ウエハラはさっさと部屋をとってしまった。

 キーを受け取ると「じゃあ行くっすよ」と促す。

 頭が真っ白になりながらも、ミサはウエハラの後ろをふらふらとついていく。


(こ、ここで逃げたら四万がふいになっちゃう、よね……さすがに、逃げたらだめだよね)


 青くなりながらエレベーターで上階に登る。部屋は十一階だった。人気のない廊下。足元には毛足の長いじゅうたんが敷かれていて、足音さえも響かない。

 ドクンドクンと胸が騒がしい。頭に血が上って耳が遠くなっているのかもしれなかった。

 やがてひとつの扉の前でウエハラは立ち止まる。そしてようやくミサを振り返った。


「怖じ気づいたんなら、別に逃げてもいいっすよ」


 ウエハラは挑発的な目でミサを見た。


「逃げてもいいって……あ、あんた、四万が無駄になるんだよ?

 ほんと、どういうつもり――」

「それはこっちの台詞。ここで逃げられたら、さすがに俺、降りる。諦める」

「諦める? ってどういう意味」


 今のミサとウエハラの立場からすると違和感のある言葉だった。芝居にしないでほしいと言ったのは、ミサだ。諦めるのは追っているミサであってウエハラではないはず。そういう認識だった。

 ウエハラは大きくため息をつくと、ミサの質問には答えずに、三本の指を突き出した。


「三回目」

「は?」


 っくしょう、マジで質わりい女、とウエハラは苛立ちながら言った。


「あんたは覚えてないのかもしれないけど、こうしてホテルに泊まるのはこれで三回目っす。あんたが部屋に入ったら、俺は三度目の正直を選ぶ。だけど……二度あることは三度あっても、四度目はないと俺は思ってる」


 つまり次はないと含められて、ミサはゴクリと喉を鳴らす。


「『三度目の正直』と『二度あることは三度ある』、あんたはどっちを選ぶ?」


 彼と部屋に入るのか、それともこのままさよならか。どっちかと言われたら、道はひとつしかないと思った。ミサは、このまま彼と終わりたくない。どうしても一緒に居たかった。

 もう一度小さく喉を鳴らす。口を開くと、かすれた声が出た。


「……じゃあ、正直の方」


 ウエハラがドアを開けると部屋の照明が自動的につく。高級ホテルでの憧れのシチュエーション。相手は世界中を探してもこれ以上はいないと思えるイケメン。誰がなんと言おうと、そう思った。

 男の価値は、付随しているものではない。ただひとつ、ミサの心が決めるのだ。

 部屋からはオレンジ色の温かい光がこぼれていた。ミサは誘われるように部屋の戸をくぐった。




 部屋のドアが閉まるなり、ウエハラはミサを壁に押し付けた。

 彼の唇がミサの唇に触れたとたん、比喩ではなく体がしびれた。胸が熱くなり、思わず息を止めていたミサは、息苦しさに大きくあえぐ。とたん、ウエハラは深く口付けてきた。


「待って」


 体の芯がうずく。逸る気持ちを必死で抑えながらミサは訴えた。


「なんすか」


 胸を押すと、苛立たしげにウエハラが顔を上げる。だが、やはりこれだけは譲れない。譲ってはいけない。


「好きって言ってくれないと、これ以上はダメ」


 待ったをかけるが、


「んな、いまさら。約束が違うっすよ。部屋に入ったらあんたは俺の言いなり。でも、あんたが言ったら、俺も言うっすよ。あ、それから、一応さっきの録音してる」


 ウエハラがにっと笑いながらスマホを目の前にかざす。


「な、」


(こ、この男は! 油断も隙もないったら――)


 逆上しそうなミサに、ウエハラは悪びれる事無く言った。


「あんたの相手をするんなら、保険は必須。また訴えるとか言われたら、困るんっすよ。今度は確実にやばい」


 保険と聞いて、ミサは急に思い出す。


「あ、あんた、そういえば写真は!? 動画は!?」


 これ以上弱みを握られるのはたくさんだ。大体、関係を深めるのなら、もうあんなもの要らないではないか。

 突如ミサの中の危険物処理班が働き始める。ミサはスマホを奪うと、操作しようとする。だがご丁寧な指紋認証がミサを阻んだあと、六桁の数字パスワードが立ちふさがる。ミサは舌打ちすると乱暴に訊く。


「誕生日いつ」

「十月十日」

「体育の日?」

「今はハッピーマンデーで違うっすよ」

「覚えやすくっていい数字。で、生まれた年は?」


 彼はミサが生まれた二年前の数字を口にした。頭に焼き付けながらも、言われた数字を打ち込むとあっさりロックは解除される。


「これ、ダメな設定例じゃない? 馬鹿なの?」


 呆れるミサにやれやれと肩をすくめつつも、ウエハラは「自分の誕生日覚えてる人間に隠すことなんか、そんなにないっすよね」とハッキングを見過ごしている。


「ストレージサービスってどれ」


 ミサはさらに尋ねるが、ウエハラは無視して他の質問をした。


「あんたは?」

「え?」

「誕生日」

「ああ、五月十三日。なんでもない覚えにくい日。あ、でもパスワードはちゃんと別で設定してるし」


 ディスプレイをスワイプしながら答えると、ウエハラはぼそっと「五月十三日、ねえ」と繰り返した。

 ウエハラのスマホは意外にもきちんと整理されており、ページごとに機能がわかれている。しかも無駄なアプリが殆ど無い。怪しげなものは数個しかなかった。しかもアプリの使用履歴を辿ればもっと楽だ。


(んー、電話、メール、ライン、カレンダー、カメラ、ツイッター、ブラウザ……あ、これかな)


 ミサの指が見つけ出したアプリを起動したのと同時だった。


「それ消さなきゃダメっすか?」


 現れた画面に呆然としていたミサが見上げると、ウエハラはわずかに惜しそうな顔をしていた。


「だ、めに決まって、る」


 口からはそう漏れるものの、心は真逆のことを訴え始める。

 ウエハラはミサをじっと見下ろしながら、もどかしげにため息を吐いた。


「あんたさ、最初に飲んだ時、酒飲んで管巻いてどうしようもなかったけど……その分素直で、純粋で可愛いかった。大体いまどきいねえだろ。『結婚すると決めた相手としか寝ない』とか宣言する女。しかも、その外見で言うとか、ギャップひどすぎ」


 なんの冗談かと思った、とウエハラは一瞬軽く笑ったが、すぐに真面目な顔に戻って続けた。


「――でも、いつも必死で突っ張ってるけど、あれがホントのあんただと思った。俺は、あの顔に惚れたんだと思う。だから、ああやって余計な世話を焼いた。あんたが、に写ってるのと同じ女なら、俺は、もうとっくに落ちてる」


 そこにはミサの寝顔が写っていた。写真の中のミサは、とても幸せそうに微笑んでいて、満たされた顔をしている。化粧は落ちていて、髪も解けている。なのに、いつもの気合の入った作り物のミサより――自分で言うのも何だが――あどけなく、愛らしく写っていた。


「どうなんすか。それは、あんたじゃないんすか」


 ウエハラは真剣に尋ねて来る。思わず目をそらして俯いた。


「んなの、わかんない」


 なぜかひどく腹が立っていた。そして怯えていた。

 じゃあ、ウエハラの好きなのはミサではない。こんな女、ミサだって知らないのだ。


「わかるわけない」


 泣きたくなりながら、ミサはウエハラの腕の中から逃れる。


「あんたも結局他の男とおんなじ。素直で物分りの良い可愛い女が好きなんだよ」


 写真に写っているのが自分なのに、自分じゃないという事実に、コンプレックスがひどく刺激される。

 とたん、心のどこかに引っかかっていたのだろう、一人の女の顔がぽんと浮かび上がった。ミサは、ずっとああなりたかった。守ってもらえる可愛い女に憧れていたのだ。


「片桐さんみたいな女が好きなんでしょ。でも、あんたの理想を押し付けられるのは迷惑」


 名前を口にしたとたん、例の場面が蘇った。ウエハラが体を張って、さくらを助けたシーンだ。

 忘れていたけれど、さくらにしたような気遣いは、ウエハラはミサには見せてくれなかった。

 結局ミサは二番手だ。いくら頑張っても、素直で可愛い女の補欠なのだ。

 胸の内の卑屈さがむくむくと育つ。こんなに自分がみじめだと思ったのは久しぶりだった。


「は? 片桐?」

「このあいだ、階段から落ちかけた時にっ『まだ死にたくない』とかなんとか――、どうせあれだろ、島田さんに持ってかれて諦めようとしたけど、やっぱり諦めきれないとかそういうやつ。私を利用して諦めようと思ってんならお生憎様。そんな都合のいい女じゃないんだよ!」


 だが、ミサの放言にもウエハラはまったく堪えた様子がない。


「あー? 片桐ってか、島田嫁は今妊婦だし、転けたらヤバイだろ」

「……え」


 ミサはピキンと固まった。そして、誤解して取り乱したことに気がついて、かあああと耳が赤くなるのがわかる。


「なに? それヤキモチ?」


 ニヤニヤと笑いかけられ、図星を指されたミサは切れそうになる。だが、口を開こうとしたとたん、目からぽろりと落ちるものがあってぎょっとする。


(な、なに? なんで、わたし泣いてるわけ!??)


 慌てて目元を拭うと強がった。


「ふ、フツメン相手に妬くわけないし」


 だがぽろぽろと涙はこぼれ落ち続ける。止まれ! と命じても、まったく言うことを聞かない。


「ったく、そんな顔して、今さら何いってんすか」


 目の下に唇が当たる。体をこわばらせるミサを、ウエハラはそっと抱き寄せる。

 彼の体は大きくて、ミサはすっぽりと包み込まれてしまう。

 シャツ越しに感じるウエハラの腕や胸は筋肉で盛り上がり、腹は硬く引き締まっている。以前見た半身を思い出して、ミサは動揺を隠せない。

 だが、


「あんたの泣き顔、めっちゃヤバい」


 頭上でそんなことを言われて、水を差されたミサは「うるさいんだよ」とむっとする。


「かわいいって意味の『ヤバい』っすよ?」


 顔を覗きこまれたミサはとたんに首まで真っ赤になる。


「……な、なな何言ってんの、キモいんだよ」


 照れ隠しをしようとしたら余計な言葉までがこぼれて、ミサは自分の口を縫いつけたくなった。


「俺はあんたの口から出る言葉と、顔に駄々漏れてる言葉とどっちを信じればいいんすかね」


 ウエハラはめんどくせえとため息をつく。そして頬を傾けると唇が触れるか触れないかの位置で囁いた。


「とりあえずうるさいから塞ぐっすよ?」


 答える前に、ミサの唇はウエハラに奪われていた。

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