19 最高のイケメンでした

 五月のとある日曜日。ミサとウエハラは今日も行きつけの居酒屋のカウンターに並んで座っていた。


「本山が来月関東行き? それ、栄転じゃないっすか?」


 そう言いながら、ウエハラが最後の手羽先をかっさらった。じっとりと彼の手に握られた肉を睨みながらもミサは頷いた。


「まあね。でも結構大変だったみたい。離婚訴訟起こすって言われて、本社に乗り込んで土下座までしたらしいよ。本社勤務の人間に聞いた」

「人生かかってんだから、土下座くらい安いもんじゃないんすか。騙されてるっすよ。あの部長も奥さんもちょろいっすね」

「まー、でも、奥さんにしても離婚は大変だろうしさ。部長にしても娘がシングルになって苦労するのも嫌だったから、現状維持監視つきっていう苦肉の策で手を打ったんじゃない? あれだけ騒ぎになったらさすがに社内で手は出せないし、まずガッツリ疑われてるからもう一生自由はないよ」


 思わず首輪のついた本山の姿を想像してミサはニンマリと笑った。


「なんか丸くなったすね。あんたは仕事辞めるっつうのに、やっぱり甘すぎないっすか」


 ミサはうーんと考えこむ。


「次やったら社会的に死ぬだろうし、社会のゴミが野放しじゃなくなったならもういい。やり過ぎると――ほら、また面倒に巻き込まれるしさ。今度は刺されかねないじゃん。それに、辞めるのは本山の事もあったけど、それだけじゃないし。やりたいこと思い出したっていうか」

「やりたいこと? 何?」


 初耳だとウエハラは身を乗り出した。ミサはフフンと笑う。


「やっぱもうちょっと張り合いのある仕事? 営業とか。ノルマもどんと来いだよ」

「ふうん、営業、ねー。らしいっちゃあ、らしい」

「だよねー?」

「でも、次を決めてからやめたほうがいいとは思うんすけどね」

「そうなんだけどね、さすがにもう居づらいんだよ。ま、一応貯金もあるし、失業保険出るし、なんとかなるよ」


 本山は全てはミサのせいだと逆恨みをしている。有りもしない下劣なうわさ話を流してミサに復讐を試みた。女々しい行動が自分の評価を落としていることにも気づいていないらしい。気にしないことにはしているが、居心地の悪さを我慢して続けるほどの仕事ではないと思ったのだ。

 ウエハラはまだ少し納得行かない顔をしている。


「……これでもコネとか一応あるっすよ? 可愛く『お願い』って頼ってくれてもいいんすよ?」


 低い声での『お願い』に軽くダメージを受けたミサは、顔をしかめて言った。


「いいや、遠慮しとく。こういうのは自分で選ばないと後悔するもんなんだよ。それに紹介だと、しがらみがめんどくさい」

「……やっぱ一匹オオカミだなあんた。まー、それもらしいっちゃあ、らしいけど」


 少しは頼ってくれてもいいんすけどねえ、とウエハラは小さく唸った。

 ミサは空の皿を見下ろした。カウンターに向かって声を上げる。


「おじさん、手羽先もう一皿」

「まだ食うんすか。何皿目だと思ってるんすか」

「いーんだよ、一応祝宴だし。おじさん、あと焼酎、芋、ロックで」


 ミサの注文にウエハラが嫌な顔をする。


「祝宴って――前祝いだろ。今日はやめとけ。おじさん今のナシで」


 手羽先は認めたくせに、酒はなぜか禁止らしい。


「でも明日はそんなに飲めないとこだよね?」


 明日、五月十三日はミサの誕生日だ。明日の約束もすでにしてあるので――と言っても『誕生日だからおごれ』とミサが強引に約束を取り付けたのだが――、今日は普通のデート、いわば前夜祭である。

 以来、週末はいつも彼と一緒だった。別に好きだとか、付き合おうとかいう言葉があったわけでもないのに(ウエハラは結局言わなかったなと、翌日、冷静になってから気がついた)、どちらからともなく言い出して飲みに行っているし、その足でミサの家に向かったりもしていた。

 この関係をなんと呼べばいいのか。はっきりした言葉が無いため、表現できない。


(ってか、ご飯食べて泊まってって……下手したらセフレとかそんな感じじゃないもしかして)


 楽しい時間だというのに、ふとそんなことが思い浮かぶ。ミサは密かに屈託を抱えている。

 ふるふると頭を振って湧き上がる不安を追い出す。


「えっと、じゃあ焼酎じゃなかったらいいわけ?」


 芋ロックという注文がまずかったかと、ミサはメニューを覗きこむ。

 だが、


「とにかく今日は飲むな」


 有無を言わせずメニューを取り上げられて、ミサは胸の中のもやもやも手伝ってとっさに反抗した。


「えっらそうに命令すんな」

「だれがゲロの処理すると思ってんすか」 

「酒飲んで吐いたこととかないし」

「……覚えてねえのかよ。やっぱり質わりい」

「え、吐いた? いつ?」

。だから脱いでたんすよ」


 未だ空白になっている二つの夜の場面がパズルのように埋まる。納得と同時に「まじで!?」とミサは反撃の手を緩めた。

 その隙を突いてウエハラは言った。


「おじさん、焼酎はなしで会計お願いします。それから、手羽先はもう揚げてますよね? じゃあおみやげで」


 ウエハラは勝手に会計に向かう。むっとしながらも時計を見て考えを改めた。もう十一時を回っている。日曜の夜だし、明日も仕事なのだ。これ以上飲み屋にいて一日が終わるのはどうかと思った。

 店主は万札を取り出すウエハラに嬉しそうに問う。


「あんた、ほんとにその子落としたんだねえ。さすがに無理だと思ってたんだが」


 なんで店主にバレたんだとミサは動揺する。ごく普通に振舞っていたから余計にだ。


「落ちてませんからー。全然落ちてませんからー!」


 ミサが必死で涼しい顔を作って否定すると、ウエハラが後ろで頷いてさらりと言った。


「そうそう、単なるセフレなんで」

「はぁ!? ふざけんな、誰があんたなんかと」


 ミサがキレると、ウエハラがミサの頭をグリグリと撫で回して自分に引き寄せる。胸に顔を突っ込んだミサは瞬く間に赤くなる。

 ウエハラは、してやったりという顔でニヤッと笑った。


「顔に出てんだよ。そろそろ自覚したらどうっすか」


 そうなの?と店主を見ると、彼はウンウンと頷いた。


「うそ」


 ミサは思わず顔を手で覆う。


「――ってわけで付き合ってます。ご迷惑かけますけど、彼女ここの手羽先好きなんで、また来ます。今後とも宜しく」


「おうよ」と楽しげに頷く店主から、逃げるように外に出る。付き合ってると言われて、思わず顔が緩んでしまったのだ。




「んじゃ、行くっすよ」

「は? どこ?」


 てっきり家に帰ると思っていたミサは、ウエハラが方向転換したのを見て驚いた。


「どこでしょーか」


 にやにやと笑うウエハラは地下鉄の駅を通り過ぎ川沿いを行く。そっちにはラブホテルが乱立した地帯。最初にミサたちが泊まったホテルもある場所だ。


「え、え? なんで?」

「デートの締め」

「今日泊まる予定だったっけ? しかもラブホ? なら家でいいじゃん、もったいないし、明日仕事なんだけど。それに、明日も会うんだからさあ」


 文句を言いながらもミサはウエハラに付いていく。すると、彼は歓楽街をスルーして、川の中州にある商業地まで足を進めた。


「どこ行ってんの?」


 わけが分からずミサが問うと、


「いいから。店が閉まっちまう」


 ウエハラは有無を言わせずエレベーターにミサを乗せた。


(って、ここホテルだよね?)


 商業施設と合体したタイプだが、エレベーターは別になっている。

 なんだろうと首を傾げるミサがたどり着いたのは、どうやらホテルの中のバーだった。


「飲んじゃダメじゃなかった?」


 今日のウエハラはあちこち矛盾している。


「ここにつくまでに出来上がってたら洒落にならねえし」


 苦笑いしながらウエハラは窓際の席を指定する。ぐるりと見回すと、日曜の夜の店内は、客がまばら。その大部分がカップルで、ヒソヒソと内緒話をするようにささやき合っている。

 ウエハラが選ぶ店にしては上品すぎた。


「こーいうとこ、焼酎ないんじゃない」


 物足りないなあと思いながらミサはモスコミュールを注文する。ウエハラはスコッチだった。


「つまり焼酎が似合わねえ話するんすよ」


 飲み物が届くと同時に、ウエハラは小さな箱をテーブルの上に出した。


「なにこれ?」


 ウエハラは時計を見る。そして針が0時を指すのを見計らって、


「五月十三日になった。――開けてみて」


 と言った。

 手のひらの上に乗るサイズの箱。包装を解くと、ビロードの小さなケースが出てきてミサは手に汗をかく。


(あ、これ、もしかして)


 ミサは期待を抑えきれなくなる。相手はウエハラ。びっくり箱だったとしても驚きたくない。

 ドキドキしながら箱を開ける。刹那。びっくり箱でもないのに、ミサは目を丸くした。


「え、なにこれ」

「指輪。誕生日プレゼント」

「……た、誕生日プレゼント……? これが?」

「文句あるっすか」


 ミサは震える手でリングを持ち上げる。


「いや、あの、それにしてはめちゃくちゃ立派なんですけど……」


 プラチナの台にダイヤが乗っている。シンプルだが台がしっかりしていて、石の大きさも輝きも尋常ではない。どう考えても、これはファッションリングではない気がする。まだお目にかかるとは思っていなかったヤツだ。

 動揺するミサの手を取ると、ウエハラはリングをミサの左手薬指にはめた。ぴったりで驚く。小柄なミサの手は普通より小さく、指も細い。指輪は5号で、大抵サイズがないのだ。


「え、どうして、サイズ知ってんの」


 キモいと言いかけてかろうじて飲み込んだ。


「測る機会はいくらでもあったし」

「っていうか、これなに」

「見ての通りっすよ」

「だから、なんで」

「そりゃあ、頂いたからに決まってる。だって結婚する相手のために、後生大事にとってたんすよね?」


 ミサは仰天する。


「で、でもそんなこと簡単に決めていいわけ。ほら、まだ付き合いだして間がないのに」


 ミサは思わず指折り数える。とりあえず最初にそういうことになってからは、まだ一ヶ月も経っていない。


「あんたは簡単に決めたんすか? 俺は、もうあの時にそうするって決めてたんすけど」


 はーと深く息を吐いたウエハラは、ミサの左手を両手で包む。

 どくどくと胸が早鐘を打つ。耳が遠くなっているにもかかわらず、ウエハラの声ははっきりと聞こえた。


「結婚してくれ」


 ミサは息が止まりそうになっていたが、辛うじて問う。


「本気で言ってる?」


 ウエハラは頷いたあと、不愉快そうに眉をしかめた。


「こーいうときは、普通シンプルに答えるもんだと思うんすけどね」

「でも、好きとかそういうのなしで?」

「今さら何言ってんすか。言わないとわかんないすか?」

「あんたは顔に出ない。わかんない」

「オッケーくれたら、ベッドの中でいくらでも言ってやるっすよ」


 茶化されてミサは腹を立てる。


「それ、嘘でしょ。じゃあ、言ってくれたらオッケーしてやるよ」


 ミサの反撃に、むうとウエハラは口をつぐむ。

 そしてしばらくスコッチを弄んだあと、やがて困ったように頭をかく。


「そういう言葉って、言えば言うほど軽くならないっすか? 勿体無くて言えねえ」

「一回も言ってないのに重いも軽いもないんだよ」

「……」


 黙りこむウエハラに、ここまで来てもまた決着がつかないのか、とミサが諦めかけた時だった。

 ウエハラは気だるそうに息を吐くと、


「あんたが好きだ」


 と言った。

 ウエハラは瞬く間に耳まで真っ赤になってそっぽを向く。ミサは目を丸くしたあと、つられて赤くなった。


「き、キモいから赤くならないでよ」

「わかってるから言えないんすよ……あんたは赤くなったらかわいいっすけどね」


 追い打ちを掛けられたミサは、全身を這いまわるむず痒さにぎゃーと叫びたくなる。益々頭に血が上るのがわかって、苦情を訴えた。


「今かわいいとか言うのは反則! ――わかったよ。その言葉に免じて結婚してあげるよ」


 ウエハラはわずかにほっとした様子を見せたが、直後真顔になって目を据わらせる。


「――で? あんたはどうなんすか」


 今度はあんたの番だとウエハラが唇の端を釣り上げた。からかうような顔は、どう考えてもプロポーズの返事をもらったあとの顔ではない。

 だが、あんなふうに言ってもらったのだから、言うべきかともじもじとしていると、ウエハラが悪乗りした。


「せっかくなんで『りょうへいあいしてる』で」

「調子に乗んな――って、良平? その顔で良平?」


 もちろん名前は知っていたが、照れ隠しで笑ってごまかす。習性で、人目があると余計に突っ張ってしまうようだった。

 と、目を泳がせたその時、ウエイターと目が合う。気まずそうな表情のウエイターが、テーブルを遠巻きにして立っていた。助けを求めるようにミサが見つめると、彼は顔を輝かせた。


「……あの……お取り込み中申し訳ありませんが……」


 どうやらウエイターの方も、話の切れ目を待っていたらしい。


(ってことは、うわああああ、聞かれた!? 今のやりとり聞かれた!?)


 ミサの顔が瞬く間にぼっと火を噴く。


「閉店のお時間なので……」


 被害妄想かもしれないが、ウエイターの顔にはなんとなく『いちゃつくならほかでやれ』と書かれているような気がした。

 ウエハラにもそう見えたのか、彼は一瞬むっとした顔をしたが、すぐに切り替えて立ち上がると、ミサの手をとった。


「行くっすよ」



 *



 ウエハラはその足でフロントへ向かうと、キーを受け取り、エレベーターにミサを連れ込んだ。

 きらびやかな夜景が眼下に広がっていく。ミサはあまりのスムーズさに驚いた。


「え、部屋とってあったの!?」


 ウエハラは頷く。


「だって誕生日だし」

「で、でも明日――じゃなくって今日の夜も会うって」

「月曜日に寝不足と火曜日に寝不足、どっちがいいんすか? 俺は月曜日の方がいいっす。なんか充実した休日過ごしたみたいじゃないっすか?」


 寝不足という言葉にあらぬ想像をしたミサは固まる。


「わ、私はどっちも嫌だよ」

「じゃあ風呂入って眠るだけにするっすよ」


 さらっと言われて、ミサは目を剥く。


「あんた、たまにすごくもったいないこと平気で言うよね。ってか、断られたらどうする気だったんだよ。一人で泊まった? 指輪は質に入れるとか?」

「断られない自信はあったんでー。あれだけ結婚する男としか寝ないって豪語してたんすから」


 へらへらと笑われて、ミサはむっとする。


「寝たら気が変わったとか十分あると思わない? ほ、ほら性の不一致とか……」


 そんなことはないと自分でもわかっているので、どうも滑舌が良くない。


(っていうか、その言葉が生々しくて恥ずかしいんだよ!)


 ミサがゴニョゴニョ言っていると、ウエハラは涼しい顔で言った。


「気は変わったと思うっすよ?」


 だって――とウエハラはニヤリと笑うと耳元で囁いた。


「もっと抱かれたくなっただろ」

「――――――!?」


(なんでそういうこと言うかなこの男は!!)


 ウエハラは固まるミサをエレベーターから連れ出すと、部屋の前に連れて行く。


「じゃあ、さっきの続きを聞かせてもらうっす。誰もいないから、どんだけでも好きって叫んでくれていいっすよ?」

「い、言わないし!」


 どうやらベッドの中で好きだと言わされるのはミサの方らしい。

 強引さには呆れるし腹が立つが、どうにも逃げられる気がしない。そして、逃げる気もない。


 目の前のウエハラは、ミサが手に入れたかった最高のイケメンだったからだ。



《完》

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