1 訴えることにしました

「アオヤマ……ミサ、ちゃん、だっけ?」


 後ろから訝しげな声をかけられて、ミサはぎょっとした。反射的にポケットティッシュを出すと口を拭く。手羽先の唐揚げで、口の周りがテカテカだったのだ。

 ミサの好物である手羽先の唐揚げは、おしゃれな店では決して出してくれず、出されたとしても、手づかみで食べるわけにもいかず、いつだって少量しか食べられない。

 何よりも、ミサは居酒屋で手羽先を食べるようなキャラではない。オフィス帰りの小洒落たスーツで右手に手羽先、左手に焼酎のグラスを握っている姿など、知り合いには絶対に見られる訳にはいかなかったのだ。


 しかし、声をかけた人物を検めると、ミサはすぐに口を拭く手を止めた。


(なあんだ。ティッシュ一枚無駄にしちゃったじゃん)


 思った直後、苦々しい思いが湧き上がる。呼びかけが同じだったせいか、約二年前の記憶が鮮やかに蘇ってしまったのだ。失敬なやりとりまで、まるっと込みで。


「……ウエハラさんでしたっけ?」


 ミサが見上げていたのは、宿敵とも言える男。

 相変わらずの、熊のような、体格が立派なだけの男だった。


「何か?」


 ツンケンと言い捨てたが、


「オジちゃん、俺にも手羽先とビール」


 ウエハラは図々しくも隣に座った。


「ちょっと、そこ座らないでよ。誤解されたら困るし」


 ミサはいきり立つが、ウエハラはまるで無視。腰を落ち着けて上着を脱いだ。


「いいじゃん、どうせまだなんだろーが」

「失礼な事言わないで」

「彼氏持ちの女が居酒屋で一人で手羽先食ってるのが問題。ってか、まず若い女が一人で手羽先と焼酎ってのがやべえ。連れが居た方がまだ居心地いいんじゃねえの」


 ゲラゲラ笑うと、ウエハラはミサの顔を覗き込んだ。

 ミサは黙って手羽先にかぶりつく。徹底無視を決め込むことにしたのだ。


「生、おかわり」


 だがウエハラはミサの無視も気にせずに、テンポ良く酒を追加して行く。そして、ふ、と口元を緩ませると、言った。


「なあ、せっかくだし、飲み比べでもする?」

「なあんで、あんたなんかと」

「あんた本当はめっちゃくちゃ強いんだろ? いつもおしゃれな店ばっかで、飲み足りないんじゃねえの?」


 挑発されたのもあったが、ウエハラの言うとおり、丁度飲みたい気分だったからこうして一人で居酒屋にやって来たことを思い出した。


(こいつ、動かなさそうだし、こっちが出るのも癪だし)


 考えを巡らせながら、ミサもカウンター越しに店員に声をかける。


「焼酎、芋、お湯割りで」


 その注文が答えの代わりだった。

 今まで酒で潰れたこともない。飲み比べて負けたこともない。その自信がミサの背中を押していたのだ。

 ウエハラは目を見開いたあと、ビールを一気に空ける。


「この間も――って言ってももう二年前だけど――すごかったよな。男より飲んでた。しかも高い酒ばっかり選んで飲みやがって。おごりっていったら普通ちょっとは遠慮しねえ? あれがトラウマで、二度とあんたみたいな外面女と合コンしねえって心に決めた」


 そういえばと前回の事を思い出し、ミサはひらめいた。ならば、飲ませて潰して、会計を押し付けてしまえばいい。ウエハラの言う通り、ミサはザルだ。イケメンの前では酔ったふりが出来ずに都合か悪いから隠しているが、合コンの相手が気に入らない場合など、潰してさよならするのにはとても都合がいいのだ。


「飲み比べ、付き合ってあげる」


 負けた方が会計持ちね、という企みを笑顔で隠すと、ミサは好物の手羽先と枝豆の追加をした。



 *



 タバコ臭いなあ、そんな不快な気分で目が覚めた。


(くっさぁ、だれだよー、私の部屋で煙草吸ったやつは)


 シーツに顔を伏せて、鼻に皺を寄せる。鼻の奥をくすぐる独特の臭いは、どうも布団自体に染み付いている。

 耐えきれずに顔を上げる。ぼんやりとした視界に映ったものを見て、ミサは悪い夢だと思った。

 隣に男が寝ている。


「は?」


 一度しっかり目を閉じ、もう一度開いた。

 しかし、やはりいる。しかも裸だ。

 次に頬をつねってみた。痛かった。

 痛みに呻く頃には、ミサはもう真っ青だった。


「ど、ど、どういうこと……」


 マンガやドラマなどでは見たことがあった。目が覚めたらイケメンが隣に寝ていたというシチュエーションは、ロマンスの始まりとして鉄板だ。

 あーあ、やっちゃったとか人ごとだから笑っていた。フィクションだからこそのことだし、「※ただしイケメンに限る」と但し書きがつくけれども、ときめきさえもしていた。

 だが実際あれは有り得ないと思っていた。酒は飲んでも飲まれないミサは、そこまで泥酔できることが信じられなかったのだ。

 だから、まさか自分がこんな事態になるなど考えもしなかった。

 慌てて服を拾い上げる。ショーツを拾い上げた時には絶望感で死にたくなっていた。


(よ、よりによって、こんなフツメンと……!)


 そうなのだ。ミサが寝てしまったのは、昨晩潰したはずの男。以前、ミサを散々馬鹿にしたウエハラだった。

 上下する背中を震えながら睨みつける。が、骨太でいい体に一瞬見とれかけた。着やせの反対はなんだろう。着太りだろうか。

 昔はもうちょっと肉付きが良かった気がするのだけれど。一体どうやって痩せたのだろうか……

 などと考えはじめたミサは、はっとして頭を振る。


(私、こんな男相手に、許すわけないんだけど!)


 ミサの相手は顔よしスタイルよしのイケメン御曹司でなければならない。最大の武器をこんなフツメンに使うわけが無い。つまり――


「ご……強姦!?」


 思わず考えがだだ漏れ、めまいがしたとたん、ベッドの上で眠りこけていたと思った男が「……ちがうっすよ、そういうのは準強姦罪って言うの。抵抗できないくらいに泥酔とか、薬飲ませてとか」と呟いた。


「認めるの!? 飲ませたの!?」

「いーや、さすがに最初は覚えてると思うけど、あんたが勝手に飲んだ。それに、まず、合意があったから、違うし。むしろ襲われたが正しい」


 顔を上げたウエハラにニヤニヤと笑いかけられて、ミサは思わず男に張り手を食らわせる。だが、手首を掴まれて引き寄せられた。

 大きな体に包まれて上から見下ろされる。どこにでもありそうな普通の大きさの目、さして長くもない睫毛、普通の高さの鼻、多少濃いが、それでも日本人の平均的な顔だ。何より前に貰った名刺には、肩書きが一つもついていなかった。

 やっぱり違う。こんなフツメン、相手にするわけが無い。


「……どういうことか説明しなさいよ」


 睨み据えると、


「あんたも相当酒強いみたいだけど、俺が上だったってだけの事。どんだけ自信があるのか知らねえが、過信して酔いつぶれたから介抱してやったら、襲われた」


 ウエハラはふてぶてしい顔のまま、厚かましくも言う。


「嘘言わないで。襲う!? 誰がそんな事信じるの」


 やってられないと、ミサは立ち上がる。そして宣戦布告を突きつけた。


「告訴してやるから」


 こういえば泣いて謝るだろうとミサは思った。だが、ウエハラはにやりと笑って言った。


「ご自由にどうぞ。でも告訴って大変っすよ。ま、せいぜい頑張れば」



 ミサはホテルを飛び出す。表に出て、スマホを取り出して現在位置を確かめると川沿いの歓楽街だった。昨夜飲んでいた店のすぐ近くの寂れたラブホテルだ。


(よ、よりによって、こんなところで!)


 何もかも理想と違って頭がクラクラして来た。

 ミサの望んだシチュエーションは、それこそウエハラの上司のようなイケメン御曹司と高級ホテルでシャンパンでも飲んだあと、愛を囁きあって――以下ドラマのように暗転。そんなラグジュアリーでロマンティックなものだった。

 間違っても、居酒屋で手羽先とビールと焼酎で酔いつぶれて、脂ぎったフツメンと場末の煙草臭い連れ込み宿などという状況は有り得ないはずだった。


 怒りで吐き気までして来たミサは、ベンチに腰掛けるとブラウザを開いて、ブルブルと震える手で『準強姦罪 告訴』と検索する。

 おしえて系のURLがヒットし、いくつか情報を得たミサは、勢いにまかせて産婦人科へと駆け込んだ。

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