後日談 顔を見られたくない時
「前にさあ。新しい営業に心当たりあるって言ってなかったか、おまえ」
夕方のオフィスには人気がない。社長は娘の保育園送迎で、そして後輩のデザイナーは時短勤務で既に退社済み。営業は外回りから直帰だ。それをいいことに、寄り道をしている元上司の声に上原は顔をしかめる。
「あー、そういやそういうこと言ってましたっけ」
「おまえから言い出したんだろ? 人手不足が結構深刻なのはおまえが一番わかってるだろ」
「聞いてみたけど、あてが外れたっていうか」
「さくらの育休もあるし、人員補填しないとまずいんだよ」
「片桐、育休あんまり取らないって言ってましたよ」
「え、まじで!」
島田は、妻の旧姓呼びを訂正することさえ忘れたようだ。慌てぶりに呆れる。
「また意思疎通出来てないんすか。どうせ取るのが当たり前とか思いこんでたんすよねー。あいつが家でじっとしてると思います? 社長と同じタイプっすよ。もう保育園くらい考えてそうっすよね」
「マジか……」
頭を抱える島田を横目に、上原はマッキントッシュのディスプレイに向かい合う。
とにかく無駄を削りに削ったシンプルなデザインは、商業ビルに納品するもの。ステンレス製のプレートに印刷したら映えるようにと考えている。上原の得意とするオフィス向けのピクトサイン(※トイレのマークのようなもの)だ。
少し視線を逸らすと、隣の席には木製プレートが置かれている。そちらは学校向けの柔らかいデザイン。可愛らしいイラストのサインが描かれている。片桐――島田さくらの仕事だった。
「ってか、そうするつもりなら、人員補填しないとまずいのはデザイナーっすよ。営業は竹中くんが居るっすよ」
竹中は外回りに出ている。だが前任の島田に比べると押しが弱い。真面目だけが取り柄の汗っかきな彼は、ヒイヒイ言いながら自転車で近場を回っているはず。
「なんかなー、あいつ、さくらに色目使ってないか? さくらはなんつうか、そこんとこ鈍いから」
「馬鹿っすか」
上原は切って捨てた。今、心配するべきは受注量の減少だ。
「おまえ上司に向かって」
「元上司っすよー。口出ししすぎっす。あとは社長に任せればいいんじゃないすかね」
正論を吐くと、ようやく島田は黙り込んだ。だが、静かになった、とコーヒーを口に含んだとたん、
「おまえが紹介してくれるのって、ミサちゃん、だと思ってたんだけどなあ」
図星を突如指されて、上原はコーヒーを吹きそうになる。
彼女のことについては、前飲んだとき以来、口からも、顔からも、何も出していないはずだった。だから、その名前が今出てくることに驚いた。
「なんでですか」
なんとかむせるのを免れた上原を気にせずに、島田はひょうひょうとつづける。
「いや、なんとなく。女子なら安心かと思ってさ。さくらの同窓生だし、姉ちゃ――いや、社長が昔言ってたの覚えてないか? あのバイタリティは買いたいって」
「……言ってました、けど、よく覚えてましたねそんなの」
(うっわ……相変わらずこの人、タチわりい)
馬鹿なのか賢いのかわからないと、上原は心の中で文句をつける。
大会社の社長令息で、誰が見てもイケメンで、凄まじく仕事も出来るくせに、肝心なときに重大なポカをする(主に恋愛面でだが)せいで、ちょっと頼りない男に成り下がっている。だからこそ、なんとなく油断を誘う。放っておけない。育ちがいいというのはこういうことなのだろうと思う。
「だとしても、スカウトなら自分でしてくださ――」
と口にしかけた上原は途中で口をつぐむ。なんとなく、島田がミサを口説くというその絵面が気に食わなかったのだった。
上原は自分に自信がないわけではない。だが、人の心というのは揺れるものだ。だからこそ、あえて危険を冒す必要はない。
「いや、片桐に頼めばいいんじゃないっすか」
我ながらいい案だと思ったのは、彼女が、さくらのことを上原が好きだとかなんだとか、信じ込んでいたようだから。
ミサが自分で仕事を探すと言っているのだから、余計な干渉はしないつもりだった。だから、別にスカウトを受けようが受けまいがどちらでもいい(というか、彼女は多分断る気がする)。だが、二人の間にしこりは残さないのが今後のためには良いと思ったのだ。
(この際、仲良くしてもらったほうがいいんすけどね。多分ずっと付き合わないといけない相手だし)
島田との付き合いは、おそらく一生続くだろう。――と思えるくらいには、上原は彼のことが好きだった。兄は一人居るけれども、もうひとりの兄と思えるくらいには慕っているのだ。
それに、島田の姉はSHIMADAの社長である。つまりさくらは社長の義妹なのだ。上原が勤めつづける間は縁が切れない相手だった。アットホームな会社だし、家族ぐるみでの付き合いも多い。となると、仲良くしておくに越したことはない。
だが――
「あいつ、友達いないっすからね……」
ポツリつぶやくと、島田は「さくらには友達多いよ?」と首を傾げた。
*
その提案を持ち出されたとたん、ミサは即答した。
「やだよ」
「あー、やっぱそうっすか」
「やっぱってなんだよ。っていうか、片桐さんに会えとか、何企んでんの」
「同窓生だろーが」
「天敵だよ」
「そうっすか? 話してみたら案外気が合うと思ったんすけどね」
「正反対だって。合うわけないし」
「まー、自分のことは自分じゃわかんないか。まあいいっす、今回は適当に断っとくから」
ウエハラは意味ありげに言うと、肩をすくめる。なんだか含みを持たされて腹立たしい。ミサは小さな反撃を繰り出す。
「それに、私、あんたと一緒の会社で働くのはやだし。カッカして血圧上がりそう」
「あー、俺に見とれて仕事になんないってやつっすか」
「どこから、その自信が湧いてくるわけ……! 育てた親の顔が見てみたいよ!!」
「じゃあ、見に行くっすか? 早く連れてこいって言われてるし」
「は?」
いつもの応酬からの、いきなりの展開にミサは固まった。
「俺んちに先にくる? それから、俺があんたんちに行けばいいっすかね」
「…………」
ミサは動揺する。
(これは)
確かに誕生日にプロポーズされて、指輪までもらっている。そして、OKの返事も、その日のうちに半ば強引に言わされた。
だが、交際期間も短いせいか、まだふわふわとした気持ちで恋人気分を継続中だったのだ。
よく考えると、プロポーズのあとは結婚が待っている。当たり前のことなのだが、半同棲をしているせいで、いつでも会えるので切実さはなかった。だから、今はじめて、事態が現実味を帯びた気がしたミサはにわかに焦った。
「あー、ミサって、俺のこと本気じゃなかったんすね」
「ちが、ちがうし!」
そういうんじゃない。だけど態度がそう言ってしまっていることに気がついて、ミサは胸が苦しくなった。ウエハラが、傷ついたんじゃないかと考えただけで、だめだった。
「じょーだんすよ。……そんな顔しなさんな」
ミサは、自分がどんな顔をしているかわからなかった。ただ、ウエハラの顔が陰っているだけで、自分がひどい顔をしていることだけはわかった。
頭を抱えられ、腕の中に囲われる。
こうされるとホッとして、とたんに目頭が熱くなる。
「ごめん――ちょっと焦っただけ」
小さなつぶやきに、思わず顔をあげようとしたけれど、ウエハラの腕は緩まない。顔を見られたくない時、彼はこうすると、ミサはなんとなく察している。
やがて腕が緩み、顔を上げたときには、彼の顔にはいつもの笑顔。何事にも動じない、ふてぶてしい笑顔だった。
「ま、いつでもいいっすよ。ミサがそうしたくなった時で」
たまらなくなって、ミサはそのまま彼のお腹にタックルするように抱きついた。
「今週末リョウヘイんとこで……! で、来週末はうち! 電話しとくから」
「……あー……」
彼は一瞬顔を歪めたかと思うと、再びミサを胸に閉じ込め、無言でミサの背中を撫でる。大きな手で、まるで子供をあやすような仕草に、心底ほっとしつつも、ミサは今、彼の顔が見てみたいと必死で顔を上げようとする。
だが、次に腕が緩んだときには――
「ほんっと、あんた、可愛すぎて、ヤバイ」
そんな言葉に頭が真っ白になる。そして、顔が近すぎて、表情を読むことなど出来なかったのだった。
ただし、イケメンに限るッッ!! 山本 風碧 @greenapple
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