7 元上司に絡みました

「……あー、それそのままじゃ、ちょっとまずいんじゃないか」


 上原は無言で皿の上の手羽先を取る。パリパリに揚げられた皮は、きれいなきつね色をしている。色はこれより濃いと苦味が出て、薄いと食感が悪い。いつもながらに絶妙な揚げ方だと心のなかで絶賛する。

 唐揚げは、手羽元よりも断然手羽先派だ。

 手羽元ほど油っこくなく、ササミほどぱさつくこともない。絶妙なバランスなのだ。

 ぱきん、と手羽先を半分に折る。特に、骨の間の肉が一番柔らかくてジューシーで、上原は好きだった。

 食べ方には色々あるけれど、上原は丸かじりよりも、分解派。手と口どちらが汚れるのならば、手が汚れたほうがいいのだった。


(あーあ、丸かじりするから、テカテカなんすよ)


 流派の違いに文句を言いつつも、油で艶の良くなった唇が目に浮かんで、一瞬ぼうっとなる。


「聞いてるのか? おまえがぼうっとするのは、珍しいな」


 という上司の声に、上原は我に返った。


「えっと、なんでしたっけ」

「だから、そのアオヤマミサちゃんの話。危ないだろ、それ」

「やっぱそうっすかね」

「ってか、元々それくらいじゃあ罪に問われないからなあ……飲んでたら傷害罪でいけただろうけど、飲まなかったから未遂だし、通報しても実害ないから不可罰で済まされそう」


 聞きなれない言葉に上原は目を細める。


「不可罰ってなんすか?」

「んー、法律で罰することの出来ない罪? 通念上は罪だと思われたとしても、法律上では規定されていない罪のこと。今回の場合、その”ミサちゃん”が直接被害を被ってないから、何の罪に問えばいいかわからないってこと」


 冷静に指摘され、上原はムッとする。


 ここは上原の行きつけの居酒屋だ。手羽先が美味く、酒の種類が豊富で、とにかく安い店。そして先日青山美砂と飲み比べをした店だった。

 だが、今日、隣の席に座るのは会社の元上司の島田だった。

 彼は昨年まで上原の会社SHIMADAに在籍していたが、結婚と同時にその親会社、島田美装に戻った。

 ――はずだったけれども、彼は相変わらずSHIMADAにちょくちょく顔を見せる。彼曰く、新しく入った後任の営業が頼りないのが気に入らず、鍛えに来ているらしい。


(ま、表向きだろうが)


 それを理由に妻の様子を見に来ているのではと上原は疑っている。この島田という男は、穏やかそうで案外嫉妬深いのだ。自分の嫁が世界一だと思っていて、だからこそ、他の男に奪われるのではないかと気が気でないという、肝の小さな男なのだった。

 そんな彼に、上原は飲みに誘われた。「今、家で飲み辛いんだよな」という理由は気に入らないが、ならばおごってもらおうとホイホイ付いて来たのだ。何しろ、今月はいろいろ出費が嵩んでいる。

 だが、世話話に出した話題で、不愉快になってしまっては元が取れない気がしないでもない。

 今の島田の言い方では、まるで、ミサが多少被害に遭っていた方が良かったかのように取れる。しかも、上原が邪魔をしなければ良かったとも。


「じゃあ、薬入りの酒を飲んでれば良かったって言うんすか。邪魔した俺が悪いんすか」


 口を尖らせ、ビールを飲み干すと、島田は肩をすくめた。


「いやまさか。俺が言いたいのはバランスの問題だ。その子はちょっとやり過ぎちゃったかもな。あんまり想像したくないけど、男の逆恨みが怖い。お釣り報復が来るの覚悟した方がいいかも」

「やり過ぎっすか? 浮気してんだから、当然の報いっすよ」

「いや、でも、これからその男、確実に奥さんに疑われるし、最悪離婚とか慰謝料とかって話になる訳だし」


 俺はそんなのやだなあ、と島田はぼやく。上原は気に入らない。まず、あの本山には同情は要らない。


「なんか、妙に向こうの肩もちますねえ。あーあー、気持ちがわかるってわけですかね。さては片桐の見てないところで遊んでるってわけっすか。選び放題っすもんね。こういうときでも不自由しなくっていいっすね、イケメン御曹司は」


 上原の暴言も気にせず、島田は関係ないところにツッコミを入れる。


「お前、いい加減片桐ってのは止めろよ。嫌がらせか、俺に対する」


 片桐は島田の妻の旧姓だ。上原は結婚前からの知り合いなので、ずっとそう呼び続けている。というのも、島田が職場に足繁く通うせいで呼び名に困るからであって、つまりは自業自得である。


「じゃあ『さくら』って呼びましょっかね」

「ヤメロ」


 嫁の名を出したとたん、ぽかんと頭を殴られる。むっとした上原はスマホを取り出すとメールを打ち始める。島田の妻、そして上原の職場の後輩である島田さくら宛だ。


『島田さん、浮気してるっすよ! 留守番ざまあ(´▽`) '`,、'`,、』


 即送信すると、島田が「あー、何してんだよ、もう」と口を尖らせる。


(でも慌てないんだよな。そこがムカつく)


 先日のあの本山とかいう男は、密告に真っ青だったが、要は夫婦間の信頼関係の問題なのだろう。

 上原が思い出していると、手元のスマホがブルリと震える。


『顔文字新作ですか? 可愛いっすね。

 あー、浮気はいいですけど、あんまり、飲ませないで下さいね! めちゃくちゃ酒癖悪いんですから! あといくら好きでも、啓介さんのお持ち帰りは禁止です! 清いお付き合いでお願いしますねー』


 こっちも冷静。しかも疑っていない。そして何かずれている。


『( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン 浮気は俺とじゃねえよ!』


 とっさに打とうとしたが、結局馬鹿らしくて止めた。

 前半の顔文字だけ消して文章だけ送る。効かない相手に技を使うのは通信料の無駄使いである。

 すぐに返信があり、


『またまたー。無理しなくっていいっすよ』


 スマホを覗き込んで吹き出した島田に「ほーら、無駄だって。俺、信用されてるし」と言われ、さらに機嫌が悪くなる。


「あー、新婚さんは仲睦まじくって羨ましいっすねえ」


 そう口では言いつつも、顔には不機嫌さがダダモレているはず。だが、隠そうとも思わない。リア充は爆発しろ。

 すると、島田は心配そうな顔で上原を覗き込んだ。


「今日、お前、なんか妙に絡むな? 何かあった?」


 顔を背けて追及を避ける。原因は自分でよくわかっているけれども、そもそもこの会合はただの気晴らしであって、相談するつもりはまるでない。恋だの愛だので悩む自分を想像すると、柄じゃなさすぎて自分で辟易するのだ。

 だから、悩むより、考える。


「いや、なーんもないっすよ」


 さらっと返すと、


「まぁ、ミサちゃんの事は、気を付けてやった方がいいと思う。お前にも責任あるし」


 終わったはずの話題と結びつけられて不快さが増した。この上司は、鈍いのか鋭いのかよくわからないとよく思う。


「いや、関係ないっす。ってか、迷惑がられてるし俺。あ、島田さんが構ってくれたら喜ぶんじゃないすか。前も絡まれてたじゃないっすか」


 僅かに卑屈になると、島田は真面目に返す。


「いや、俺は無理。それに、彼女、不倫とかしないタイプなんだろ」


 そう言えばと例の居酒屋の一件を思い出す。


「しないでしょうね。まともな恋愛と結婚がしたいって愚痴ってましたからねー。馬鹿ですよあれ。どうぞ食ってくれと言わんばかりの恰好で、そして態度で、どうして結婚相手が釣れると思ってんのか本気でわからないっす。そうしたいんならいっそ片桐を見習うべき。そーしたら、が釣れるっていうのに」

「いや、さくらは放っといたら行き遅れる典型だと思うけどなぁ――まぁ、だからよかったんだけど」


 皮肉に気付いていないのか、聞こえなかったふりをしたのか、島田の顔が緩んでいる。なんだかだんだん惚気に聞こえてくるのは気のせいだろうか。


(まあ、片桐は埋もれるタイプだし。掘り出して磨いたのがよっぽど誇らしいみたいっすね)


 嘆息すると、まだ惚気足りなそうな島田を黙らせようと上原は先手を打った。


「今の、片桐にちくっておきますねー」

「まて! 上原もさんざん言ってただろ、さくらのこと女子力ゼロって……って俺は思ってなかったけど!」


 島田は今度はひどく慌てた。妻が何を言われて傷つくか一番知っているからこそのことだ。上原はにやりと笑った。


「じゃあ、黙っとく代わりに、ここおごりでいいっすか」


 上原の出した交換条件に、島田は目を剥いた。


「お前それだけ飲んでおいて……!」

「イケメン御曹司なら痛くも痒くもないっすよね」

「いちいちイケメンをつけんな。思っても無いくせに、嫌みか。それに、さくらの財布の紐が固い事、よく知ってるだろ。これから物入りだから無駄遣いはやめてもらいますからね! って、この頃さらに締め付けがきついんだよ、かわいそうだろ!」


 悲哀に満ちた懇願だったが、幸せな悲鳴には耳を貸せない。


(かわいそう? どこがっすか)


 心の狭い上原はさらっと無視をして、泡盛を追加した。


 だが、その日、上原はいくら飲んでも酔えなかった。

 そわそわと落ち着かない原因には心当たりが十分にあった。


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