第11話

 スマフォが青野の手から落ちた。

 彼女は膝を突いた。「ぐぷ」と言うような音がした。酸っぱい匂いが漂う。彼女は嘔吐していた。

「青野さん」

 僕は跪いて、彼女の背中に手を当てた。

「……ごめん……」灯りが消えた。「……見ない…で……」

「行こう」

「……どこへ?」

「とにかく、ここから離れよう」

「うん……」

 僕は立ち上がって、手を差し出した。「手をかして」

 彼女はためらったようだ。「手が……」

「いいよ、そんなこと」手が吐瀉物で汚れていることくらい、今はどうでもいい。

 僕は闇の中をうかがった。もう自分たちがどの方向から来た、とかそんなことも完全に分からない。スマートフォンのバッテリーもどのくらい持つか分からないし、少し点けて見当を付け、後は手探りで……。

 青野はまだためらっているようだった。僕は繰り返した。

「青野さん」

 返事がない。

「青野さん?」

 僕は闇を手探りした。何にも触れない。

 床に這いつくばって、僕は蜘蛛のように手脚を伸ばした。彼女の吐いた反吐に手が触れた。それだけだった。それだけ残して青野はいなくなっていた。


「青野さん?青野……青野さん、青野さぁん!」

 僕は這いつくばったまま、わめき続け、それから自分のスマフォに手を伸ばした。

 これ以上、この暗闇に一人でいたら、気が狂う。自信があった。

 僕は震える手で腰に吊したサックからスマフォを取り出し、アゴの下まで持ってきた。両手を使ったのは落とすことが恐かったからだ。

 両手で持ったまま、親指で起動を押した。

 ふわっと画面が明るくなった。

 顔があった。

 口を半開きにした青野の顔が斜めになって、僕の鼻先に浮いていた。

 そして、その上に彼女の生首をくわえたシーラカンス……。

 僕は叫んだ。

 意味不明のことを叫びながら、僕はそこから逃げた。

 スマフォを抱き抱え、何事かを喚きながら、暗闇に向かって、一散に走った。

 どのくらい走ったろうか。

 僕はつんのめり、何かに突き当たって、はずみで宙に浮き、ものすごい勢いで叩きつけられた。

 しばらくは息もできなかった。

 スマフォはどこかへ飛んでいった。辺りは完全な暗闇だった。手も足も、自分の身体さえそこにあるのか、自信が持てなかった。

 痛みよりも恐怖で身体を動かせなかった。

 けれど、何か冷たくて濡れたものが、右の手の甲に這い上がった。

 絶叫した。

 僕は絶叫して、何かを振り払い、立ち上がって駆け出した。

 直ぐに何かに頭から突っ込んだ。

 理屈から言えばそれは棚のはずだ。

 けれど、違った。

 それは力を入れれば簡単に折れる、脆い、細い管を編んで造った網のようなものだった。僕はそれをバラバラにして這い出た。

 途端に右腕がヌルヌルとした、ゼラチン質の溜まりに突っ込んだ。手の中に何かブヨブヨしたものがあって、握りしめるとそいつは痙攣けいれんをして、細い脚のようなものを出した。

 僕は喚いて、そいつを暗闇に向かって投げ捨てた。

 なんとか僕は立ち上がった。靴の下がぬかるんでいた。

 両手を真っ直ぐ前に伸ばして、歯を食いしばって、一歩前に出た。3歩目で指が何か固いものに触れた。悲鳴はなんとか、押し殺した。それは木の皮のような手触りで、薄い毛が生えていた。小さな丸い孔が幾つも開いていた。その一つに、人差し指が吸い込まれた。

 引き抜いて、僕は逃げだした。走ってしまって、また網のようなものに突っ込んだ。今度は絡まった。

 ちくしょう。棚はどこに行った?地下壕はどこへ行ったんだ?

 そのとき、頬に何かが張り付いた。

 手を伸ばしてかきむしろうとした。

 できなかった。

 頬に触れるものがなかった。僕へ腕があるはずの暗闇を凝視した。

 ちくしょう。僕の腕はどこに行っ



 学生バイトら、行方不明。

 東京の大学で、地下室の棚卸しに雇われた、バイト学生3名と大学職員1名が、2日前から連絡が取れなくなっていることが分かった。4名は10日の水曜、新たに発見された地下室の調査のため、構内にある施設に向かい、そのまま消息を絶った模様。何らかの事件に巻き込まれたものとみて、警察が行方を捜している。

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深く、闇が淀むところ 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749

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