第8話

 多分、暗闇の中の僕と青野は、タンデムで体育座りをしていた。僕はまだ背後から彼女を抱きしめていた。

 〝彼女の髪はいい香りがした〟。僕はそんなことばかり考え、周囲の闇については考えないようにしていた。

 彼女の身体はまだ熱かったけれど、もう震えてはいなかった。

「……さっきはありがと」

「うん」

「今もそうだけど……。置き去りにしないで、戻ってきてくれて」

「大村に追いつけそうになかったから。一人は俺もいやだった」

「そう。でも、ありがと」

「……あのさ。ここを出てからの話だけど、デートを申し込んだら受けてくれるかい?」

「……」

「ダメかな?」

 彼女が首を振る気配が伝わってきた。「ううん」

「じゃ、オッケー?」

「うん。……ねえ、二人合せたら4万円でしょ、バイト料?」

「うん」

「そのときに全部使っちゃわない?」

「よし。それで行こう」

 青野は笑いかけて、ふと息を呑んだ。灯りが見えた。ふらふらとそれは、ゆっくりとだが、こちらへ向かってくる。

 やっぱりタンデムになっていたぼくらは、急いで立ち上がった。

 彼女はハンカチを出して涙の痕を慌てて拭った。ちらと僕を見上げて、ぎこちない笑みを見せた。

「やあ」疲れ果てたように大村は言った。

「ダメだ。どれだけ走っても、壁なんか無い。ここは一体どうなっているんだ?トンネルはどこへ行ったんだ?」

「大きな部屋の中に柱みたいなものがあって」青野が不意に言い出した。

「トンネルはその柱の側壁に開いていた。わたしたちは柱の脇を通り過ぎてしまった」

 大村がすごく緩慢かんまんにうなずいた。確かにそう考えれば、辻褄つじつまは合わないことはない。

「それなら、あれだけ走っても壁にたどり着かないわけは?ここが、そんなに広いわけは?」

 青野はぼんやりと浮かんで見える棚の連なりを見つめた。

「この棚は真っ直ぐ並んでいるようだけど、実は微妙に弧を描いているのかも知れない。実は円を描いてるのかも知れない」

「俺は同じところを走ってたと?」

「ええ」

 そんなはずはなかった。

 それなら大村は反対から来て、ぼくらの脇を駆け抜けていたはずだ。

 けれど、僕は黙っていた。3人ともそのことは分かっていたけれど、誰も指摘しなかった。

「それじゃあ、今まで、俺たちは通路を行くとき、前ばっか見てた。けど、今度は、その…柱だっけ?を探すように通路の両側も注意しながら行く。これでいいな」

「ええ」

「よし――」

 振り向いた、大村が懐中電灯を振ったとき、何かが床の上で光った。

「さっき、わたしが踏んだ――」

 僕は彼女が転ぶ寸前、小さな破砕音を聞いたことを思いだした。

「それで転んだんだ」

「うん」

 大村は既にその脇まで行って、真上から光を当てていた。ぼくらが近づくと、奇妙な上目遣いでぼくらを見た。

 それは黒縁の眼鏡だった。レンズにひびが入り、片方のツルが外れていた。

 僕は「白菜」と言いたいのを堪えた。

 第一、黒縁眼鏡くらいどこにだってある。白菜の眼鏡だって、証拠は……。

 そのとき、青野が眼鏡の欠片を拾い上げた。彼女は少し迷ってから、それを棚に置いた。

 カタンと音がした。

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