深く、闇が淀むところ

南枯添一

第1話

 日当は2万円だった。


 始まりは〈実験棟〉の解体に、予算が付いたことだった。耐震不足を指摘された本館の改築が本決まりとなった、そのついでだと言う。

 〈実験棟〉は戦前からある建物で、かっては理学科の実験施設があったと言われていて、今もその名で呼ばれている。ただ、名前だけで、かなり以前から何にも使われていない。

 業者が入って、解体のための下調べを始めた日、一階の壁の一部が崩落した。

 崩れ落ちた壁の下からは地下へと向かう長いトンネルが現れた。

 トンネルの先にあったのは、地下壕とでも呼ぶしかない空間だった。

 驚くほどの広さがそこにはあり、ほとんど使われていない、無数の棚が、暗闇の中で、整然と並んでいた。

 おそらく、戦時中に貴重な資料や収集品の避難先として造られたらしいと推測することはできた。けれど、誰が何のために造ったのかと言うような、具体的な事実は皆目分からなかった。

 何かを知っていると言う人間は見つからなかったし、何らの資料も残されていなかった。

 この地下壕をどうするかについては侃々諤々かんかんがくがくの騒ぎが起きた。結局、「調査の必要があるかを決定するための予備調査」が行われることが決まった。


「だから、大したことじゃないんだよ」杉本すぎもとと名乗った、大学の職員は言った。色白でアゴの線が緩く、縦に長い顔の上に蓬髪が乗っていた。まるで黒縁眼鏡を掛けた白菜だった。

「ホンの予備調査だから。棚卸しみたいなモンさ。力仕事でもないし。君たちは箱の数を数えるだけ。それだけで2万円だ。まあ、労働環境がいいとまでは言わないけどさ」

 白菜はそんなことを言い、最後にどこか虚ろな感じで笑って見せた。

「でも」と僕は言った。

「なんだね、佐野さのくん」

「募集人員、集まらなかったんですね」

 5人のはずだったのに、ぼくらは3人しかいなかった。僕以外は、日焼けした経済学部の大男と、数学科の女のコだった。日焼けの方が大村おおむら、女のコが青野あおのと言った。

「うん…。まあね」

「変な噂が流れてるからなあ」大村が言った。

「噂?」

「くだらない」

 数学科の女のコが吐き捨てた。細い目と薄い唇に酷薄こくはくそうな色があって、基本かわいいのに、人には好かれないタイプのコだった。彼女のおかげで、この話はそこまでになった。


 キャンパスの北東の隅、雑木林の中に〈実験棟〉はあった。この辺りは、昼間でも妙に薄暗くて、学生もあまり近寄らない一角だった。

 木立の陰に見える〈実験棟〉は汚れていたし、割れているガラスもあるようだ。それでも、廃屋には見えなかった。普通に使えそうだった。

「不思議だな」僕は言った。

「ああ?」前を歩いていた大村が振り向いた。

「こんなものがキャンパス内にあって、どうして未公認同好会の類いに占拠されてないんだ」

「出るんじゃないのか?」

 大村は幽霊の手つきをして見せた。その腕の間に、青野の、不快そうに歪めている顔が見えた。

「違うな。それを言うんだったら、旧館だって、出るって話はいっぱいあるんだぜ。誰がそんなことを気にしてる?」

「ああ」大村は虚を突かれたように、「そういや、そうだな」

 彼は〈実験棟〉を振り仰いだ。梢を抜けて、灰色の壁が見えた。その上の空も灰色だった。惚けたように、大村は続けた。

「どうしてだろうな」

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