ムーンストーンを心に灯して(1)

 いつか、こんな日が来るのではないかと思っていた。心のどこかで、怯えていた。

 だから、あの日、妻に——





 ◆ ◆ ◆





 ジークは走っていた。

 道とも空とも見分けがつかぬほど深い闇の中を、一心不乱に駆け抜けた。白銀しろがねの長髪をなびかせ、地面を蹴り上げ、ただひたすらに。

 心臓が痛い。針金で絞めつけられるように。皮膚を切り裂かんばかりの冷気を吸い込んだ肺は、今にも叫喚しそうだ。

 だが、足を止めるわけにも、速度を落とすわけにもいかなかった。

 一分一秒でも早く妻のもとへ——ディアナのもとへ、辿り着くために。

 マキシムとの通話終了後、すぐに彼のほうから折り返し連絡が入った。ディアナの居場所がわかったと。

 マキシムが測位した場所は、郊外のとある港。数年前まで、国際輸送の拠点としての役割を担っていた重要な港だったが、現在は使用されていないらしい。

 所有者を調べると、必然というべきか否か、ハンス・リヴドの名前が挙がった。

 ジーク率いる旅団は、元帥の中止命令を受け、早々に演習を切り上げた。少しでも時間を短縮するために、ジークはこのまま港へ直行することを決意。百人余りの部下たちを現地で解散させ、軍用機で空から現場へと向かう手筈を整えた。これが現時点での最速手段だと判断したからだ。

 一人で赴くつもりだった。疲労困憊している部下たちを連れて行くのは気が引けたし、できることなら巻き込みたくはなかった。

 はっきり言って、今自分が行っていることは、職務規律違反だ。

 軍の極秘事項であるGPSを無断で私的に転用し、実際に使用した。自分は、何かしらの罰を与えられることになる。組織に属している以上、これは免れないだろう。

 だから、部下に迷惑をかけぬよう、あえて彼らには何も告げずに一人で赴くつもりだった。

 だが今、自分の後ろには、ジャスパーはじめ七名の部下が懸命について走ってくれている。その発端となったのは、ジャスパーの一言だった。


 ——ディアナ様に、何かあったのですね?


 ジークは平然を装っていたが、副旅団長であるジャスパーは、緊迫したこの状況をすぐさま察知し、上司の心情を的確に汲み取った。

 燦爛と輝くターコイズブルー。ジャスパーの真摯な眼差しに、ジークは事態を正直に話した。隠し通すことなどできなかった。

 すると、ジャスパーは、部隊の中でもジークと特に馴染みの深い六名の勇士を引き連れ、同行させてほしいと志願してきたのである。

 部下たちの厚意が、胸に滲んだ。

 悩んだすえ、ジークは彼らの想いを受け取った。彼らを守る——そう覚悟して。

 こうして、今に至る。

 もう五分以上経過しただろうか。しだいに潮の香りが近くなってきた。

 港には、軍用機が離着陸できる十分なスペースがないため、三キロほど離れたところにある広大な空き地へと降り立ち、そこから彼らは延々と走り続けている。飛び散る汗も顧みず、一心に目的地だけを見据えて。

 軍人として日々鍛錬を積んでいるとはいえ、大剣・長剣といった武器を各々装備しての全力疾走には、やはり厳しいものがある。通常疾走する何倍ものエネルギーを消費してしまうのだ。

 が、そんなことを言っている場合ではない。

 事態は、一刻を争う。

「……っ、あそこか……!」

 そして、ついに一行は現場である港に到着した。

「……!」

 湾内に近づいたジークが何かを発見した。ここはもう敵陣として心を構えているゆえ、一瞬にして緊張が全身を駆け巡る。

 暗い最中さなか佇む、複数人の影。ざっと五、六人は確認できる。

 しかし、それらの正体が判明したとたん、ジークの敵意はたちまち消散した。

「おっ、来たな」

 そこにいた予想だにしない人物に、思わず目を丸くする。

「中将っ……!」

 闇夜に慣れたジークの目に入ってきたのは、先ほど会話を交わしたばかりのイーサンだった。

 彼の背丈ほどもある愛用の戦斧バトルアックス。それを軽々と肩に担いだその雄姿だけを見れば、まさしく戦鬼だ。

 ……その雄姿だけを見れば。

「このクソさみぃのにすげぇ汗だなオイ」

「っ……全力で、走って、来たんです。……仕方ないでしょう……!」

 なんとも気の抜けたイーサンの言葉。これに対し、ジークは息を切らし、肩で呼吸をしながらも、ちゃんと答えて差し上げた。顔を上げる余裕はなかったので、上官の憎らしいその顔を拝むことは叶わなかったが。

 ジークの部下たちも、膝に手をついて項垂れたり、額の汗を拭ったりして、皆一様に呼吸を整えている。「お前らよくコイツについて走って来れたな」と、イーサンはこれまた緊張感なく感心していた。

「っ……、そんなことよりっ! なぜ中将がここへ?」

 ようやくジークの呼吸が整ってきた。前傾姿勢を正し、背筋を伸ばす。

 やっと拝むこと叶ったイーサンの顔を直視しながら、ジークは勢いよく問いかけた。

「あ? んなもん決まってんだろ。可愛い後輩のためだ」

 迷いのない口調で得意然と言い放つ。暗がりでもはっきりと感知できるほどに、彼の緋色の瞳は相変わらず爛々としていた。

 この行為が規律違反に問われることくらい、イーサンにだってわかっている。そのうえで、今彼はここにいるのだ。彼が連れてきた六人の部下たちとて、全員それは重々承知済みだ。

「ここに俺らが来ることは、一応元帥にも言ってある。あとのことはまあ……なんとかなんだろ」

 いつものイーサン節を効かせ、場の空気が硬くなり過ぎないように維持する。彼のおかげで、一同は過度な緊張によって心身が硬結するのを妨げられているのだ。ガチガチに身構えてしまっては、上手くいくことも上手くいかない。

 イーサンの口から『元帥』と聞き、ジークはここへ来るまでに機内で交わした、セオドアとのやり取りを思い出していた。


 ——言い訳はあとでじっくり聞かせてもらう。……だが、まずは今自分が為すべきことを全力でやり遂げろ。


 今回のことを一切合切包み隠さず報告したジークに対するセオドアの言葉。彼のこの恩情に、ジークは胸が熱くなった。

 本来ならば、禁止されて然るべき案件だ。軍事兵器の私的利用、それに加え、自分たちは今、貴族の私有地を侵そうとしている。

 もしここにディアナがいなければ、彼は職を辞さなければならない。先の見えない際どい吊り橋の上に立たされているようなものだ。にもかかわらず、彼は止めなかった。

 彼は、マキシムの技術を、自身の部下たちを、衷心から信頼しているのだ。

「んじゃまあ、サクッと乗り込んで、サクッと嫁さん連れて帰ろうぜ」

 仲間というのは、なんと心強いものか。

 言葉にし尽くせないほどの感謝をしっかりと噛み締め、ジークは力強く頷くと、彼らとともに一歩を踏み出した。

 総勢十五名。身を忍ばせ、足音を殺しながら、マキシムが割り出した地点へと急ぐ。

 一同の目に最初に飛び込んできたのは、一隻の船だった。

 廃れた港には不相応なくらいに豪華な客船。暗く静まり返りながらも、闇に浮かんだその船体は、恐ろしいほどに優美であった。

 単純に私物を停泊させているだけなのか、はたまたこれから出航しようとしているのか、現段階では判然としないが、今この場所でこの船が異様な存在感を醸し出していることは確かである。

「よし。お前ら乗り込む前にコレつけろ」

「え?」

 そう言ってイーサンはジークたちにあるものを差し出した。

 耳に装着するタイプの小型の通信機インカム。これで、ある人物との通話が可能となる。

 その人物に、イーサンが小声で呼びかけた。

「……おいマキシム、聞こえるか?」

『……聞こえていますよ。このクソ寒ぃのに——の下りもばっちりと。相変わらず仲がいいですね』

 聞こえてきたのは柔らかなテノール。ある意味今回の立役者である、マキシム・ダリスの声だった。

 この中で彼のことを詳しく知るのは、ジークとイーサンの二人だけ。彼自身そもそも表に出る人物ではないため、『軍の研究者』とだけ名乗り、所属部署はいっさい明かさなかった。彼自身がGPSの開発者であることも、もちろん内証である。

「あー、はいはい。帰ったらお前も仲間に入れてやっから、コイツの嫁さんの居場所、もっかい詳しく教えてくんね?」

『いえいえ、どうぞお気遣いなく。ディアナ様がいらっしゃるのは、皆さんが立っている場所からちょうど二時の方角ですね。何かありますか?』

 マキシムが基準としているのは、ジークが軍服の内ポケットに携帯している、手のひらサイズのGPS発信機。これは、実際に演習で使用していたものだ。

 彼の言うとおり、二時の方角——ちょうど船が停泊している向かい側——には、三棟の貨物用倉庫が建っていた。

 ディアナはあの倉庫の中にいる。そう確信をもって、一行が再び歩みを進めようとした。

 そのとき。

「……屋内だと、たしか誤差の生じる可能性があるんだったな」

 ジークがおもむろに口を開いた。

『え? ええ……視野に収まる範囲だとは思いますが。……ほかに何か建物があるんですか?』

「建物じゃない。船だ」

『船……』

 いまだ抜錨する気配のない客船。ジークは、倉庫よりも、妙にそちらが気にかかってしまった。

「私たちは船に乗り込みます。中将は、倉庫のほうをお願いできますか?」

 倉庫の存在を認識したときから二手に分かれることは意識していたが、あえてジークは自分が乗船することを選んだ。二分するなら、このまま自分の部隊とイーサンの部隊に分かれることが効率的だと思ったし、それがごく自然だとも思った。

 しかし、イーサンはこれに賛同しなかった。

「いや、俺もお前と船のほう行くわ。……ジャスパー。お前、俺と代われ」

「えっ? 自分がですか?」

「おうよ。お前、コイツの嫁さんと面識あんだろ? もし倉庫に嫁さんがいたら、知ってるお前の顔見たほうがたぶん安心できる。だから、そっちで俺の代わりやれ」

 イーサンから提示されたまさかの代替案に一同は目を見開いた。が、一番驚いたのは他の誰でもないジャスパーだ。……無理もない。

 この中で最も階級の高い彼の言葉を無下にすることなどできないが、あまりの無茶振りに、一応直属の上司であるジークの顔色をちらりと伺ってみた。

 すると、ジークもイーサンの意見に共感を覚えたのか、こくりと頷きこれを了承したのである。

「……わかり、ました」

 二人の将軍に背中を押されてしまえば断れるはずもない。そんな勇気などあるはずない。それに、『俺の代わり』という部分は到底納得できないが、ディアナの心理に関しては一理あるかもしれないと、そこだけは納得することができた。『すべては尊敬する将軍夫妻のため』と、自分で自分を鼓舞する。

 だが、イーサンの懸念は、実は別のところにあったのだ。


 かくして、敵の巣窟へと突入する手筈は整った。



 ◆ ◆ ◆



「その黒いコートとワンピースを着替えねばなりませんな。貴女には相応しくない」

 冷ややかな侮蔑をディアナに落とす。リヴドの顔には、相変わらず感情の色が滲んではいなかった。

 もうどれくらいこうしているのだろうか。この男と二人きり。ディアナの怒りが衰えることはないが、それでもやはり気分は滅入ってしまう。

 さんざん舐めるように見回され、蔑まれ、嫌味を言われ続けた。結婚する前までは、実家で継母から同じような仕打ちを受けていたため、そのこと自体はべつになんともない。が、継母の仕打ちが見事に霞んでしまう程度には、彼に抱いた不快感のほうが勝っていた。

 彼の目的がいまいちよくわからない。だが、今すぐここで自分をどうにかしようという意思がないことだけは、雰囲気でわかった。

「向こうに着いたらまずは着替えて頂きましょう。せっかくなので、少しでも高く競り落としてもらわなければ。まあ、ヒトで貴族だというだけで十分『プレミア品』でしょうがね。……ただひとつ、処女でないのが残念だ」

「!」

 しかし、この言葉により、ディアナはすべてを悟った。皮膚が引き攣り、ぞわりと鳥肌が立つ。

 自分は売られる。商品として、オークションにかけられる。それも、おそらく国外で。

 今自分がいる場所。それは——

「いかがですかな。この船の——貴女のお父様がお作りになった船の、乗り心地は」

 ——船の中だ。

 つい三十分ほど前、黒づくめの二人組によって、ディアナは倉庫からこちらへと移動させられた。準備が整いしだい出港すると言った二人組に対し、港を出てしばらく航行するまでは明かりを最小限に抑えろとリヴドが指示していた。

 薄暗い船内を引き摺られるようにして連れてこられたここは、最高級のスイートルーム。抑えられた照明が、室内の美々しさをある意味助長している。

 倉庫を出て、この船を見たとき、一目でわかった。……父の船だと。

 まるでクジラがブリーチングしているかのごとく迫力のある船首。そこから滑らかに象られた船体の輪郭。『洋上の王宮』と謳われるその姿は、まさしくグランテ社の船だと。

「まさに貴女に相応しいはこだとは思いませんか」

 本当にこの男は、どこまで人の神経を逆撫ですれば気が済むのか。縛られた両手足に、無意識に力がこもる。

 ディアナが座らされているのは、華やかに装飾されたアンティークの肘掛け椅子アームチェア。隣には、同じくアンティークの猫足テーブルが据えられ、その上に、濁った赤ワインとグラスが一脚置かれてある。けれども、リヴドがこれに口をつける様子はない。窓枠に凭れた彼は、ディアナに話しかける以外は、ずっと窓の外を見ている。

 どこまでも広がる漆黒の大海。

 自分はこれからどこへ……どこの国へ運ばれるのだろうか。このまま出港すれば、きっと二度と戻っては来られない。

 リヴドに対する怒りとともに、自身に対する怒りや不甲斐なさが、とたんに込み上げてきた。

 ジークの言いつけを守らなかったがゆえのこの様だ。自分で自分をいくら罵っても時計の針が左に回ることはない。けれど、込み上げる感情を制御することはできなかった。ヘドロのようにドロドロとした感情が、ディアナの胸中に堆積していく。

 でも、それでも、もう一度ジークに会いたいという気持ちだけは、ヘドロに支配されることなく、彼女の胸の中に強く灯り続けた。

「……御主人に会いたいですか?」

「……」

 ディアナの胸の内をいみじくもリヴドが言い当てた。だが、正直に首を縦に振ったところで、この男がそれに応えてくれるわけなどない。そんなことくらい彼女にだってわかっている。ただこの男は、自身の感情を弄び、愉しんでいるだけなのだと。

 ディアナは、グッと奥歯を噛み締めた。

「貴女にとくに恨みがあるわけではありませんが、貴女の夫が少々目障りでして。少し大人しくして頂きたいのですよ。……貴女がいなくなれば、さぞかし苦しまれることでしょうな」

 そして、とうとうリヴドの口から本心が語られた。

「竜人とヒトの共存共栄など笑止千万。力、知恵……遺伝学的に優れているのは竜人だ。これは疑いようのない事実。世界をより高みに導けるのは……牽引できるのは、貴女方ヒトではなく、我々竜人なのです」

 声高らかに持論を展開する。

 竜人至上主義を信奉することが至福の境地——そう言わんばかりの悦に入った表情だった。これほどまでに彼が感情を顕わにしたのは、この日初めてのことだ。自分自身に完全に酔いしれている。

 その勢いを衰えさせることなく、彼はさらにこう言い放った。

「皇帝と貴女の夫が行っていることは愚行だ。なんの意味も持たない」

 外に広がる大海のごとき暗黒の片眼。それを言葉とともにディアナに浴びせかけた。

 主張したことに満足したのか、言い伏せたという優越感があるのか。上機嫌な様子のリヴドは、ようやくワインに手を付けようと、テーブルのほうへ近づいてきた。

 そのとき。

「……愚行なんかじゃない」

 ディアナが、おもむろに口を開いた。

「……何?」

「主人がしていることは、愚行なんかじゃない。意味なんて、あなたが決めることじゃない」

 彼女の研ぎ澄まされた静かな怒りが、次々に言の刃となってリヴドをく。

 許せなかった。黙ってなど、いられなかった。

 あの夜、夫が遠征に赴く前夜、自分に教えてくれた大切な大切な想い。

 一緒に叶えたいと思った。隣で支えたいと思った。

 愛する彼の想いを、守りたいと——

「どちらが優れているとか、どちらが劣っているとか……支配や従属でしか物事の価値を見出せないあなたなんかに、この世界を語る資格なんてない。……あなたは間違ってる。愚かなのは、あなたのほうよ!!」

 たとえこの身がどうなろうとも、彼の想いだけは絶対に守る。

「……ヒトの分際で……この私に意見するなっ!!」

「っ——!!」

 絶対に、穢させたりなんかしない。

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